阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年10月15日
第3聖日礼拝
「愛によって生きる」
ローマの信徒への手紙12章9-10節

 主の恵みと守りによって、今日も礼拝をささげられることを感謝します。
主は朝毎に、新しい恵みを備えていてくださいます。生きておられる主イエスを仰ぎ、待ち望みましょう。
人は罪によって真の神と断絶してしまいました。真の神を忘れ、偶像を礼拝し、罪の結果としての悲しみと混乱、争いが絶えません。
まことの救いを受けた者は、自分自身が神の平安に生きるだけではなく、平安を与えてくださる救い主を伝えていかなければならない時であることを、心に留めたいと思います。
御言葉は、「愛には偽りがあってはなりません」(ローマ12:9)と教えています。
偽りの愛とは、心がないのに、愛している振りをするという意味ととらえる事が出来ます。そのような愛は偽物であり、神は決して喜ばれません。
私たちは、父なる神の愛を知っています。
私たちが愛を知らない、罪人であったときに、私たちを愛して、御子を下さったのです。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:6−8)。
主イエスの十字架によって、神の真の愛が表されました。
正しい善い人の為なら、命を捨ててくれる人もいるかもしれません。
しかし神は、御自分に背を向け、信じることもせず、自分勝手に生きる罪人を愛してくださったのです。
無条件の愛、無価値なものを愛してくださる愛です。
主イエスを救い主として信じて心にお迎えした時に、この愛がわかったのです。自分はどれほど愛されているかがわかりました。
天地を造られた神が私たちを愛して、共に歩んでくださるという恵みの日々を送れるようになりました。
神の子とされて、永遠の命を生きる者となったのです。
御言葉は、真の神が喜ばれない罪や悪から離れて、御心をしっかりと覚えて生活するように勧めています。
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)この御言葉に従うなら平和を作る事が出来るのです。
御言葉は、主イエスを信じた者は、主にある兄弟姉妹であることを教えています。
ヘブライの信徒への手紙13章1節には、「兄弟としていつも愛し合いなさい」とあります。互いに尊敬しあうところに、争いはありません。平和と調和が生まれます。
私たちは、主にある兄弟姉妹だけを愛するのではなく、愛の可能性を無限に広げる事が出来ます。
ある時、主イエスに「わたしの隣人とはだれか」と尋ねた人がいました。この人は律法の専門家でした。主イエスを試そうとして、何をしたら永遠の命を得られるかと質問をしたのです。主に、聖書は何と教えているかと尋ねられて、全身全霊をもって力の限り神を愛しなさい、また隣人を愛しなさいと答えました。
すると主は、正しい答えだ、そのように実行しなさいと教えました。
律法の専門家は、自分を正当化するために、「わたしの隣人とはだれですか」と聞きました。
すると、主イエスは「善いサマリア人」のたとえ話をなさいました。
ある人がエルサレムからエリコヘ行く途中で追いはぎに襲われて瀕死の重傷を負いました。服を剥ぎ取られて、ひどい状態にされたまま倒れていました。
祭司がたまたま通りかかりましたが、襲われた人を見ると道の向う側を通って行ってしまいました。
祭司はこのような人に触れると、汚れた者として7日間祭司の務めが出来なかったのです。務めが出来なくなっても構わないから助けようと、思うことはなかったのです。
また、レビ人が通りかかりました。レビ人は神殿で奉仕する人たちです。この人も道の向う側を通って行ってしまいました。
道の向う側を通るということは、けがをして苦しんでいる人とかかわらないと言う気持ちが強かったのでしょう。
そして、旅をしていたサマリア人が通りかかりました。知っての通り、ユダヤ人はサマリア人と交際しません。口を利くこともなかったのです。
ユダヤ人が旅をするときは、大きく迂回しなくてはならなくても、サマリアの土地は通らなかったほどです。
サマリア人は、けがをしている人を見て哀れに思いました。深い同情を覚えました。
それで、応急処置をしたのです。この時出来る精一杯の手当てをしました。傷口に油とぶどう酒を塗り、包帯をしてくれました。
自分のロバに乗せて宿屋へ運び、介抱しました。
翌日自分は旅に出るのですが、宿屋の主人にデナリ銀貨2枚を渡してこう頼みました。
「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」(ルカ10:35)。
怪我をした人は安心して宿屋で回復を待つ事が出来ました。
主イエスは、律法学者に、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10:36)と質問されました。律法学者は「その人を助けた人です」(ルカ10:37)と答えました。
主は「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)と、お教えになりました。
このたとえは、愛とはどのようなものかを教えています。
神が教えておられる愛の教えを知っていても、しっかり心に留めて、実践したいという信仰がなければ、すべてが無になってしまいます。
人にはもともと限られた愛しかありません。自分が愛している、限られた人たちには、愛を示す事が出来ます。しかし、それ以外に愛を表すことは難しいのです。
「『神を愛している』と言いながら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(Tヨハネ4:20,21)とあります。
主イエスは私たちに無償の愛を注いでくださいました。
神の愛は、人の苦しみや痛みに心を寄せ、助けを与えてくださる愛です。主イエスの十字架の愛は無限で、だれにでも注がれる愛です。
尊い命を捨てられて、世の救いとなってくださいました。
私たちには力はありません。しかし、主の十字架の愛に満たされて、兄弟の為に、誰かの為にささやかな犠牲を払うときに、見えない神の愛が見えるようになるのです。
あの旅人を助けたサマリア人は、何か見返りを求めたでしょうか。そのようなことはありません。倒れているのが、日頃自分たちを蔑むユダヤ人だから助けないというようなことも、ありませんでした。
ただ、かわいそうに思って助けたのです。もしかしたら急ぐ旅だったかもしれません。しかし、手当をして宿屋に運び、お金を払って介抱するように頼みました。時間も、財も、体力もいりました。しかし、助けたのです。
神の愛はそのような愛なのです。私たちが罪の為に神から離れて傷だらけになっているとき、哀れに思って救い上げてくださる愛です
生活の中で、神の愛を表すことのできるキリスト者として成長して参りましょう。神の栄光を表しましょう。
主イエスの救いと助けを求めている人々が、必ずいるのです。
主イエスに救われた者こそ、神の愛を表す者たちなのです。

今週のみことば
「なぜなら、互いに愛し合うこと、
 これがあなたがたの初めから聞いている
 教えだからです。」
 Tヨハネの手紙3章11節


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