阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年10月29日
第5聖日礼拝
「共に喜び、共に泣く」
ローマの信徒への手紙12章15節

 10月最後の日曜日を迎えました。今日まで守られたことを感謝し、礼拝をささげましょう。
天の父は恵み深い父です。
「主は恵みに富み、憐み深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべての者に恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」(詩篇145:8,9)
この御言葉のように、主が与えてくださる恵みによって、今日まで守られてきたことを心から感謝します。
今日もローマの信徒への手紙から御心をうかがいましょう。
御言葉によって、私たちは兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさいと、教えられました。また、怠らず励み、霊に燃えて主に仕えることも心に覚える事が出来ました。
たゆまず祈り、困難や試練にも希望をもって耐え、主に希望を持ちながら、信仰の勝利を得ることも知っています。
さらに、御言葉は迫害する者、敵対する者の為に祝福を祈り、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と、教えています。
主イエスも、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:27−28聖書協会共同訳。)と教えておられます。
これらの御言葉は、主イエスが教えられている、愛の具体的な表し方です。
神様は私たちをアガペーの愛で愛してくださいました、私たちも神の愛を表しながらの信仰生活を送ることが御心なのです。
アダムとエバは、エデンで神と共に歩みましたが、蛇にそそのかされて罪を犯してしまいました。神の言葉に背きました。
その時、罪が世に入り、人は罪により体と魂の命を失ってしまいました。神との断絶です。
罪は、真の神を否定し、信じないことですが、その原因は心の深い所に存在する罪です。罪の中心は自己中心です。自己中心の中に、ねたみという厄介な心が存在します。
罪の心は、他の人が成功したり、神様からの祝福を受けている事を素直に喜べないのです。喜んでいる様子に、自分が否定されたような思いを抱くとしたら、大変悲しい事です。
創世記4章に、カインとアベルの出来事が記されています。この二人はエデンを追放されたアダムとエバの息子たちで、カインが兄、アベルが弟でした。
アベルは羊を飼い、カインは土を耕す農夫となりました。
ある時二人は神に献げ物をしました。カインは土の実りを献げ物としました。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきたのです。
神はアベルとその献げ物に目を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。
カインは激しく怒って顔を伏せました。
神は、カインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:6,7)と、警告されました。
神はカインに罪を犯さない様に、罪を支配せよと警告されました。
なぜカインの献げ物は祝福されなかったのでしょうか。カインの心に、神に対する愛と畏れがなかったのです。神に対する愛の表れとして、作物を選りすぐり、最も良い物をささげるべきでした。
アベルの心には、神に最上の小羊をささげようとする心があったのです。
神様は心をご覧になる方なのです。
アベルは弟へのねたみと、怒りを治める事が出来ませんでした。しかし、それは神に対する怒りで、大変恐ろしい罪でした。
カインはアベルを野に連れ出して殺しました。
兄が弟を殺したのです。嫉妬と怒りは恐ろしい結果を生み出します。
それでも神はカインに憐みをあたえ、だれも害を与えないように印をつけて、エデンの東、ノドに住まわせました。
主イエスを信じて受け入れた時、聖霊は心の深い所にお住まいくださいました。聖霊は喜びを与える霊です。私たちに永遠の救いの喜びを与えて、喜びは泉のように溢れ流れて行きます。
喜ぶ者は、他の人の喜びを喜ぶ人なのです。
いなくなってしまった、たった一匹の羊を探し求めて、探し当てた羊飼いは喜んでその羊を肩に担いで戻り、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。」(ルカ15:6)と、近所の人々や友達を集めて叫ぶのです。
羊飼いの喜びを自分自身の喜びとして喜ぶ人は幸いです。
さらに、「泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)という教えに心を留めましょう。
人は苦しい、悲しいことを経験することがあります。愛する人と死別することなどは、最も深い悲しみで、時には慰められることさえ拒む心を持つのです。
しかし、主イエスは、その悲しみさえもご存じです。
イエス様はある時、ナインという町に行かれました。弟子たちや大勢の群衆も一緒だったとルカは記録しています。
その町の門での出会いがありました。
ある母親の一人息子が死んで、その葬儀の列に出会ったのです。この母親は、やもめ、すなわち未亡人でした。大勢町の人が付き添っていました。母親は泣いていました。
主イエスはこの母親をご覧になり、深く同情されました。そして、「もう泣かなくともよい」(ルカ7:13)と語り掛けてくださいました。
主イエスは「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」(ルカ7:14)
とお声を掛けました。
一度死んだ息子は、起き上がり、ものを言い始めたのです。
主はその息子を母親にお返しになりました。人々は神を賛美したのです。
主イエスは、一人息子を亡くした母親の涙に共感され、深く同情を寄せました。この時主が涙を流されたとは記されていませんが、母の涙を御自分のものとされました。
まさに主イエスこそ、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いてくださるお方なのです。
ヘブライ人への手紙には、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5:7,8)とあります。
 主イエスが世にあったときには、叫びと涙をもって祈られたのです。人の悲しみや苦しみを知っておられて、癒して下さる救い主です。
十字架の死に至るまで、だれよりも神に従順な方でした。
ですから、キリストを信じる者の永遠の救いの源となられたのです。
私たちの信仰は、単に御言葉を知っているという信仰ではありません。
主イエスがどのように歩まれ、何を教えておられるのかをしっかりと心に受け入れて、主イエスに学び、生活していくことです。
私たちの周囲には、問題を抱えて悩む人、病気で苦しむ人、人には言えない悩みを持つ人が大勢います。
涙を流している人もいるでしょう。また、喜んでいる人もいるのです。主イエスの救いを伝えましょう。まことの救いがあるのです。
そしてもう一度、「愛には偽りがあってはなりません。・・・兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:9,10)と教えておられる御言葉を胸にして、喜ぶ人と共に喜び、泣く者と共に泣く心をもった信仰者として歩みましょう。
すばらしい祝福が備えられていることを感謝しましょう。

今週のみことば
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
 ローマの信徒への手紙12章15節


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