阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年11月12日
第2聖日礼拝
「二回目のしるし」
ヨハネによる福音書4章46-54節

  私たちの天の父に向かい、きょうも霊とまこととをもって礼拝をささげましょう。天の父は、私たちに生きている御言葉を下さいます。心をひらき、命の御言葉をいただきましょう。
主イエスはサマリアを通られ、ガリラヤへ来られました。主イエスはガリラヤのナザレでお育ちになりました。
ガリラヤへお着きになると、ガリラヤの人々は主イエスを歓迎しました。それは、エルサレムへ多くの人が、過ぎ越しの祭りの為に上って行き、そこで主イエスのなさる御業を見たからです。
しかし、主イエスは、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ。」(ヨハネ4:44)と言われていました。
ガリラヤは、もともと神から遣わされた預言者の言葉を聞かない人々が、住む地域でした。
ユダヤの人々からはサマリアとともに、軽蔑の対象とされていたのです。
それでも、主イエスはガリラヤ伝道を進められ、ガリラヤではカファルナウムを伝道の拠点とされました。しかしカファルナウムもなかなか悔い改めようとしない町であることを、主イエスは嘆かれました。
主イエスはガリラヤのカナへ再び行かれました。カナは水を最上のぶどう酒に変えるという奇跡をおこなわれた町です。
この町に王の役人がいました。この人の息子は重い病気でした。
主イエスがユダヤからカナへ来られたことを知り、カファルナウムから主イエスの許へやって来ました。
カファルナウムとカナは、およそ30キロメートルほどの距離でした。
役人は、主イエスにカファルナウムに下って来て、息子を癒して下さるよう、お願いしました。
息子は死にそうな容体だったのです。
主イエスは、役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(ヨハネ4:48)と言われました。
カナの結婚式で、主イエスにぶどう酒が足りなくなったことを伝えた母マリアに、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)と、一見冷たいような返事をなさいました。
マリアはそれでも召使たちに、「この人に何か言いつけられたら、そのとおりにしてください」(ヨハネ2:5)と伝えました。
大きなかめに汲まれた水が最上のぶどう酒に変えられたのです。一回目のしるしでした。
役人は、主イエスの一見否定とも思われるお答えも、耳に入らないようで、「主よ、息子が死なないうちに、おいでください」とお願いしました。
すると、主イエスは、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と言われたのです。
役人はどうしたでしょうか。主イエスにあくまでも一緒に来て癒してくださいとは言いませんでした。
役人は、主イエスの御言葉を信じて帰って行きました。
役人の心はどうだったでしょうか。確かに主イエスは、息子は生きると言われたのですが、息子が癒されたのを見てはいません。
心は揺れ動いていたに違いありません。しかし、御言葉に信頼したのです。
 帰途、僕たちが迎えに来ていました。そして、息子が生きていることを伝えました。
息子が癒された時刻を聞くと、昨日の1時ごろに熱が下がったと言ったのです。
それは、主イエスが「あなたの息子は生きる」(ヨハネ4:53)と言われた時刻であることを知りました。
役人も家族もこぞって主イエスを信じました。
これが第二回目のしるしでした。
主イエスは、不信仰なガリラヤで伝道をされて、故郷のナザレでは住民たちに町の外に追い出されて、崖から突き落とされそうになりました。それでも伝道をされました。
悔い改めて救い主を信じ、救われるために福音を伝え続けられたのです。
ガリラヤの人たちがしるしや奇跡を求めたように、人はそれらを期待し、心惹かれます。
しかし、主イエスは、聞いて信じる信仰をいつも教えておられます。
カファルナウムの役人の息子が癒された記録が福音書に記されたのは、役人がまだ見ていない事実を、見ているように、聞いて信じたからなのです。
ユダヤ人たちはしるしをみなければ決して信じようとはしませんでした。
主イエスが十字架に架けられるために逮捕された時、大祭司の所から、ローマ総督ピラトの許へ送られ、ピラトからヘロデ王の所へ送られました。
ヘロデは主イエスを見ると喜びました。主イエスのうわさを聞いていて、ずっと会いたいと思っていたのですが、それは、なにかしるしを行うのを見たいと思っていたからでした。まことに不敬虔な心でした。
それでいろいろと尋問したのですが、主イエスが何もお答えにならないので、再びピラトの許に送り返し、ピラトが十字架刑の宣言をしたのです。
主イエスは鞭打たれ、侮辱され、十字架に架けられました。
世の罪の贖いの為に、神の子が十字架に架られたのです。
信仰は神の言葉を信じることです。まだ見ていないけれども、聞いて信じるのです。
見えるものは永遠に存続しません。見えないものとは、主イエスと、主イエスの福音を信じる信仰で、永遠の重い栄光をもたらします
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Uコリント4:18)
目に見えるものは、この世にあるものですが、時と共になくなるものです。
地上のもので永遠に存続するものはないのです。金や銀もいつか朽ち果てます。
主イエスは、見えないものをしっかり信じて歩むことこそ信仰であると教えておられるのです。
命はみえません。私たちは見えない命に生かされています。
さらに主イエスを信じて罪許されて永遠の命を持つ者となった、永遠の命も目には見えません。
しかし、見えない命に確かに満たされています。
天の御国を今、目で見ることはできません。しかし私たちは御国に生かされています。
愛は見えるでしょうか。見えない愛に生かされています。
神の臨在と、ご支配こそが御国であり、愛が満ち溢れるのです。
主イエスのしるしは、人がまず助けられることですが、それが目的ではありません。
しるしを見ても見なくても、主イエスこそが救い主であり、信じて救われることなのです。
役人の息子は癒されました。それで終わったのではありません。
役人本人も、家族もこの出来事を通して、主イエスを信じ、受け入れたのです。息子の癒しを喜ぶことと、主イエスを信じた喜びが、この家には満ち溢れたのです。
主イエスの手の傷とわき腹の傷に触れなければ、決して主の復活を信じないと言った、トマスに語られた、主イエスの御言葉を思い出します。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
主イエスが教えて下さった、御言葉を信じる信仰をもってこれからも歩みを続けましょう。

今週のみことば
「そして、彼もその家族もこぞって信じた。
 これは、イエスがユダヤからガリラヤに
 来てなされた、二回目のしるしである。」
 ヨハネによる福音書4章53-54節


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