阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年11月19日
第3聖日礼拝
「見えているのですか」
ヨハネによる福音書9章41節

  今朝も新しい恵みの中に、天の父に心からの礼拝をささげましょう。
天の父は私たちを愛して、その独り子さえくださいました。計り知れない愛を深く心に留めましょう。
主イエスは、生まれつき目の見えない人を癒されました。
通りすがりにこの人を見た弟子たちが、主イエスに「この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ9:2)と、尋ねました。
不幸や障害の原因は、誰かの罪であるという考え方がありました。
ですから、弟子たちは誰の罪の結果としてこの人は見えないのかとお聞きしたのです。
主イエスの答えは、希望と慰めに満ちていました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)そうお答えになりました。
人は、さまざまな問題や、不幸と思われることを体験します。過去の罪が原因だと考えがちなのですが、主イエスは完全な答えを与えてくださいました。この不幸と思えることは、「神の栄光が現れるため」だと宣言されたのです。
この盲人は主イエスの御御業によって見えるようになりました。
人々はこの人をファリサイ派の人々の所へ連れて行きました。
癒されたのは、安息日でした。ファリサイ派は安息日に主イエスが御業をされるのを反対し、攻撃していました。
ファリサイ派は、何としても主イエスを否定しようとして、癒された本人にいろいろと尋ねました。しかし自分たちの気に入るような返答がなかったので、とうとう両親までも呼びつけて、なぜ目が見えるようになったのかと尋ねました。
両親も、目が見えなかった息子が、なぜ見えるようになったのかは分からないので、「もう大人ですから、本人にお聞きください」(ヨハネ9:23)と答えたのです。
ファリサイ派は、主イエスがメシアであると公に告白する者は、会堂から追放すると決めていたので、両親ははっきり答える事が出来ませんでした。
そこでファリサイ派は、もう一度見えるようになった人を呼びました。
そして、「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」(ヨハネ9:24)と聞きました。
目を開けてもらった人は、「あの方が罪人かどうか、わたしにはわかりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)と答えたのです。
今は見えるのですとはっきりと答えました。
ファリサイ派はなおも主イエスを否定し、お前の目をどうやって開けたのかと迫りました。
彼は、「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(ヨハネ9:30−33)と、はっきりと答えたのです。
ファリサイ派は、この人を罪ある者と決めつけ、我々に教えようとするのかと言って、外に追い出しました。
会堂から追い出されるということは、ユダヤの共同体から追い出されるということです。周囲の人たちとの交わりが絶たれてしまうのです。
主イエスは、彼が追い出されたことを知られて、彼を訪ねて下さいました。主イエスはこの人を目が見えるようにしただけではなく、まことの救いをお伝えになりました。
「あなたは人の子を信じるか。」
主イエスこそメシア、救い主なのです。
彼は、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(ヨハネ9:36)と言いました。心の底から、主イエスを信じたかったのです。主イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(ヨハネ9:37)と、言われました。
目を開けていただいた人は、「主よ、信じます」(ヨハネ9:38)と言って、ひざまずいて拝しました。
主イエスは、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9:39)と言われました。
この御言葉を聞いたファリサイ派は、「我々も見えないということか」と言いました。彼らには、いや、そんなはずはない。我々こそが正しい者であり、律法を完全に守る者であって、すべてを知っている指導者だという高慢さがありました。
主イエスを救い主として受け入れる心はまったくありませんでした。
主イエスが「裁くため」と言われたのは、その頑なで高慢な心の為でした。高慢の罪が分からずに自分自身が自分を裁くことになるのです。
主イエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)と言われました。
これは、あなたたちは、見えると主張している。あなたがたは「われわれははっきり見える」と言い張るから、罪をまぬかれることはできない。という意味なのです。
言い張るとは、決して自分の意見を引っ込めずに主張することです。
主イエスは、目の見えない人の癒しを通して、何を教えておられるのでしょうか。自分は見えていると頑なに思いこまずに、霊の目を開いて主イエスに聞き、この方を救い主として受け入れるようにと教えておられるのです。
ファリサイ派については主イエスのこのようなお言葉があります。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば外側もきれいになる。」(マタイ23:25,26)。
この人たちは、自分はすべて神の言葉を知っていて、律法も守っている。すなわち見えていると譲りませんでした。
しかし、主は、あなたたちはものの見えない人だと言われたのです。霊の目は全く閉ざされていて、外側だけを飾っても、心の中には罪が満ちている。悔い改めて霊の目が開かれ、救い主を受け入れるようにと、教えておられるのです。
見えなかった人の目は開かれました。それと同時に霊の目も開いて、主イエスこそ救い主であることを受け入れたのです。
使徒パウロも、自分は見える人だと自負していました。厳格なファリサイ派として、クリスチャンを迫害し、投獄する事こそ正しいと思い込んでいました。ダマスコのクリスチャンを捕らえるために行く途上で、復活の主イエスにお会いしました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というお言葉と同時に強い光に照らされて、地に倒れて、目が見えなくなってしまいました。人に手を引かれてダマスコに入り、3日間目が見えずに食べることも飲むこともしませんでした。主から遣わされたアナニアという弟子が、パウロに手を置いて祈ると、元どおり目が見えるようになり、聖霊に満たされました。サウロの目からうろこのようものが落ちて、見えるようになりました。今までふさがれていた、霊の目が開かれたのです。
霊の目が罪でふさがれていると、主イエスが救い主であることが分からずに、受け入れることができません。霊の目がふさがれていると、罪がわかりません。
私たちは、「主よ、私の目を開いて、あなたと、あなたの御言葉を悟らせてくださいと祈る時、鮮やかに主イエスを拝する事が出来るのです。
悔い改めと感謝をもって主イエスに近づきましょう。主イエスは近づいて下さいます。

今週のみことば
「あなたは、もうその人を見ている。
 あなたと話しているのが、その人だ。」
 ヨハネによる福音書9章37節


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