阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年11月26日
第4聖日礼拝
「愛の賜物」
ローマの信徒への手紙6章23節

 11月最後の日曜日を迎えました。来週12月3日からアドベントに入ります。
私たちの為に人としてお生まれ下さり、十字架に架って、罪を贖われた救い主を仰ぎながら礼拝をささげましょう。
ローマの信徒への手紙6章には、主イエスの十字架の贖いによって、義とされ、救われた者への勧めが記されています。
かつては罪を罪とも知らずに、罪に支配されていた者が、主イエスを救い主と信じた時から、神の義に仕える者に造りかえられました。
罪の奴隷であった者が解放されて、義に仕える者とされたのです。
人は、主イエスを信じるまで、「罪」が分かりません。犯罪に手を染めないことや、人に迷惑をかけるようなことがなければ、自分は正しい人間だと思うのです。
しかし、主イエスは罪とは、心の中の罪であり、真の神を信じて従わない事だと教えてくださいました。
神は人を創造された時、人に知性と感情と意思を下さいました。自分で考え、すべての事を選択することができるように造られたのです。
ですから、エバはサタンに誘惑された時、神に従うことを宣言し、誘惑を拒絶することができたはずです。しかし、誘惑に負けてしまい、食べてはいけない木の実を食べました。神様の言葉よりも自分の目の欲に従ってしまいました。そして、アダムにも食べさせました。
この時から人に罪が入り、死が入ったのです。人は神の創造された霊的な存在です。
人間はこの時から体も霊も死を経験する者になりました。
死は罪の結果でした。
天の父は人を愛して、救うために主イエスをこの世に遣わしてくださいました。
人の心の罪は誰も赦すことはできません。ただ主イエスの十字架の血汐によって赦されるのです。
ローマ1章には、罪について記されています。
「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたからです。」(ローマ1:21−23)。真の神よりも偶像を受け入れる、愚かな人間の姿を記しています。そこには救いはありません。
不品行の罪を指摘し、さらに、「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」(ローマ1:29−31)と、人の罪をあからさまに記しています。
だれも、そのような罪は認めたくないのですが、もし、認めないなら、神を偽り者とすることになるのです。
「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(Tヨハネ1:10)とある通りです。
人の罪はキリストを信じて、十字架の贖いを受け入れる時に赦されます。
まもなくクリスマスを迎えます。なぜ天の父は愛する独り子を世につかわされたのでしょうか。父は罪ある者をも愛しておられるからです。父なる神の愛は誰にでも注がれています。
どのように罪深い者であっても愛し、救いの手を差しのべてくださいます。
私たちはかつては真の神も、その独り子も知らず、まことの救いから遠い者だと思っていました。しかし、まだ神を知らない時から、愛されていたことを、心に覚えましょう。
天の父は、すべての人が主イエスを信じて救われることを望んでおられます。
もし罪があるままなら、御国に迎え入れられることはなく、滅びに向かってしまうからです。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ6:23)とあります。
「私たちの主キリスト・イエス」とイエス様の事を記しています。
キリスト・イエスと主イエスをお呼びする時には、イエス様が神であられることを強調したい時、すなわち主イエスの神性を強調したいときにこのようにお呼びするのです。
罪の奴隷として生きるなら、罪は報酬として死を支払います。
この報酬とは、ローマの兵士に支払われる給料を指しています。罪という主人に仕え続けて、受ける給料が死なのです。本当に空しいことです。しかし、後半の御言葉に救いを見出します。
「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」神の報酬とは教えていません。神の賜物とあるのです。
賜物とは、ギリシャ語でカリスマと言います。一般的にカリスマというと、非常に大きな才能といったように考えがちですが、聖書で教えているカリスマはそうではありません。
カリスマとは、ただ恵みによって与えられる神のプレゼントなのです。
ですから、主イエスを通して与えられる永遠の命は、主イエスを信じた者、主イエスと結ばれている者に与えられている神のプレゼントなのです。
プレゼントに代価はいりません。代価は主イエスの十字架ですでに支払われました。
私たちは差し出された救いを、ただ受け入れるだけで、永遠の命に生かされるのです。
主イエスが十字架に架けられた時、犯罪人がその左右に架けられました。その一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみよ」(ルカ23:39)と主イエスをののしりました。
すると、もう一人の犯罪人が、「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(ルカ23:40,41)とたしなめました。
そして主イエスに、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(ルカ23:42)とお願いしました。
主イエスは罪のない方なのに、全世界の罪の贖いの為に十字架に架り、命を捨てて下さいました。しかし、犯罪人は重罪によって十字架に架けられたのです。
主は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と約束されました。
犯罪人にとって、死を迎える直前、最後のチャンスでした。イエスをキリストとして信じ、悔い改めて主イエスと結ばれ、同じ命に生かされました。
これが神のプレゼントです。永遠の命を賜物としていただいたのです。
私たちも、主イエスを信じて救われ、義とされました。
永遠の命に生かされています。
神の御心はすべての人が、この賜物、永遠の命を受けることです。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」(ローマ10:14,15)。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)とあります。
主イエスは、私たちそれぞれに場を備えていてくださいます。
キリストの言葉、良い知らせを聞くために待つ人がいます。
神の愛の賜物、永遠の命を待つ人々の為に祈り、伝えていきましょう。

今週のみことば
「罪と何のかかわりもない方を、
 神はわたしたちのために罪となさいました。
 わたしたちはその方によって
 神の義を得ることができたのです。」
 Uコリントの信徒への手紙5章21節


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