阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年6月2日
第1聖日礼拝
「御霊に導かれて進もう」
ガラテヤの信徒への手紙5章22-25節

 6月第一週目の日曜日を迎えました。新しい一週間も礼拝から始められることを感謝します。
天の父の臨在の中で、心から賛美し、御名を崇めましょう。
きょうは、ガラテヤの信徒への手紙から、御心を伺います。
ガラテヤというのは、一つの町の名前ではありません。ガラテヤ地方と言った方が分かりやすいでしょう。
パウロが第一回目の伝道旅行で宣教した、ピシディヤのアンティオキア、イコニオン、リステラ、デルベといった町々を指します。異邦人の町です。
パウロは、アンティオキアで、主イエスの十字架の贖い、死と復活を宣教しましたが、そこのユダヤ人たちは信じようとはせずに、パウロを口汚く罵倒しました。
パウロとバルナバはユダヤ人たちに対して、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも 救いをもたらすために』」。(使徒13:46―47)と伝えました。
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美し、救われました。
しかし、ユダヤ人たちはなおも迫害の手を伸ばし、パウロたちは次の町々へと導かれ、福音を語りました。
これらの町々には、宣教によって教会が建て上げられたのですが、福音からそれた教えを説く、偽教師が入り込みました。
パウロはそれを、「ほかの福音」と呼び、パウロたちが伝えた福音にしっかり立つようにと訴えました。
ほかの福音とは、キリストを救い主と信じるだけでは不十分で、律法を守ることと、特に割礼を重要視する教えでした。
ガラテヤの信徒たちは、この教えを聞いて、動揺していました。神の恵みにより、信仰によって救われたことを見失いました。
また、恵みによって何もかも許されているのだから、何をしても良いと勝手な生活をする者もあらわれました。結局信徒たちは混乱し、裁き合うようなことになってしまいました。
それで、パウロは教えられた福音にしっかり立つようにと手紙で励ましたのです。
律法によって義とされようとするなら、キリストとは縁もゆかりもない者であり、いただいた恵みも失うと教え、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです』」(ガラテヤ5:13,14)と教えました。
パウロはさらに、「霊の導きに従って歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と教えました。
聖書にはよく、主と共に歩むというような表現がされます。歩むとは、日々の生活の中で、常に臨在を求め、主の御声を聞きながら信じて生活するということです。
聖霊により頼む生活です。
主イエスを信じ、受け入れた者は、聖霊がその魂にお住まいくださいます。自己中心であり、罪深い者であっても、主イエスの十字架によって悔い改め、罪を赦され、義とされたのです。
驚くべきことに、そのような者は聖霊の神殿とされました。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Tコリント6:19,20)
キリストの十字架の贖いは完全です。
聖霊は、神の栄光を現す生活を教え、導かれるのです。
もしも、聖霊に導かれる生活を妨げる肉の思いがあったとしても、聖霊を求め続けるなら、必ず罪に打ち勝つ力に満たされるのです。
御霊に導かれる者に、霊の実が結ばれることが約束されています。聖霊の実です。
聖霊の実とは、キリストの麗しい人格が結ばれることです。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)
聖霊の実は愛です。その愛の中に喜びも平和も、すべてが含まれています。
救い主を信じた者の心には、喜びと平和が宿ります。喜びと平和は、何か嬉しいことがあったから喜ぶような外からのものではなく、心の深い所から湧き上がる喜びと平和です。
主御自身が喜びであり、キリストを信じて、新しく生まれたことの喜びが湧き上がるのです。主イエスを信頼し、委ねる者はいつも平安に満たされます。時に嵐の中を歩むような思いをしても、主イエスが共におられることで、委ねきり、平安に歩むことができます。
寛容、親切、善意は人に対する心の在り方です。
コリントの信徒への手紙T、13章は、愛の章と呼ばれている箇所です。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Tコリント13:4−7)とあります。
人の願いや努力ではこのように愛は表せません。
しかし、聖霊の実が結ばれると、神の愛が神の子を通して現わされ、証しとなるのです。
聖霊の実の誠実、柔和、節制は、自身が神の前に誠実であること、人に対して思いやり、謙遜であることが示されています。
これらの実は、もともと私たちが持っていなかったものです。
実とは、努力で結ぶものではありません。
主イエスを信頼し、従うときに、主が実らせてくださるのです。
聖霊の実に反するものとして、「肉の業」が示されています。肉とは主イエスを信じる以前の罪の性質を言います。
肉の業について、性的な罪、真の神を信じない罪、隣人との関係を壊すような罪、偶像礼拝が挙げられています。これらの罪から救われなければ、神の国には入ることはできません。
主イエスはこれらの罪から救うために世に来られ、十字架で贖いのために命を捨て、三日目に復活されました。主は生きておられます。
肉の業に対して、聖霊は「実」なのです。
肉は自分が中心で自分を変えることができません。しかし、聖霊は心に働いて、キリストの御姿に似た者となる様に、働き続けて下さいます。
キリストの愛に成熟する者に成長させてくださるのです。
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)。
古い自分に縛られたままでいるなら、聖霊の恵みは分かりません。
心を明け渡し、聖霊の満たしと導きを求めるなら、聖霊の実が実り、日々主と共に前進して行くことができるのです。
私たちの内に結ばれていく聖霊の実を歓迎しましょう。

今週のみことば
「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、
 霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」
 ガラテヤの信徒への手紙6章8節



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