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「薄墨桜の咲くころ」
人生の終わりを迎える家族と共に
廣瀬利男


<重なる試練との出会い>

 妻が倒れる

 千里の救命救急センターを出て電車の高架をくぐると信号が見えた。ハンドルを取りながら溢れる涙で青色の光がにじみ視界が霞んで思わずブレーキを踏む。信号が黄色になり赤になった。心臓の高鳴る音にいつも聞こえるエンジンの音が止まっているように静かに思えた。思わず"神様!助けて下さい!"と叫んでいた。
 友子の様子が普通ではない。危機的な事態でないだろうかと言う思いが、不安となる。人間と言うものは不安になると悪い思いが連鎖し、いつのまにか心を縛り、周りが夕暮れのように見えなくなる。

 1987年11月30日水曜日午後2時頃、京都の病院から父が危篤であるとの連絡があった。慌しく準備をして、駆けつけた時は午後7時、父は83歳の生涯を終えていた。
 私たちは父の臨終に間に合わなかった。兄夫婦が駆けつけ、弟妹も駆けつけた。別れの言葉を交わし、帰って行った。病院の手続きも終え、主治医やお世話になった人達に挨拶をして、父を家に連れて帰ろうとした時、友子が病院の廊下で急に吐血した。それがしばらく止まらない。廊下が血の海のようになってしまった。
 私はもうおろおろするだけで、病院だから何とかなると思っていたら、兄が自分がレントゲン技師長をしている吹田の救急救命センター病院に自分の車で連れて行くと言い出した。私は、実は兄の病院について知らなかった。そこは救急医療の最高に整っている北大阪の府立救命救急センターであった。彼はおろおろする私にてきぱきと命令して友子を車に乗せ吹田に向けて走った。私は父の遺体の搬送を頼み、後に続いた。私が救急センターに着いたとき友子は手術室に入っていた。胃の洗浄をして組織検査をするということであった。

 検査が終った。時計は12月1日午前1時半になっていた。彼女は疲れきった様子であったが、なにかホットした様子に見えた。「大丈夫?」と声をかけて「お祈りしよう」と手を握った。
 父の訃報の知らせと告別式の準備にせかされながら、一緒にいたい気持ちを引きちぎるような思いで救急センターを静寂の深夜に飛び出していった。車で走りながら、止めどもなく溢れる涙が、不安な思いに押し出されて蛇口の腺を失った水道のように出てくる。車を止めてはぬぐい、走っては止め、何回かするうちに家の前に来ていた。

 次の日、父の告別式の準備にかかり、友子のことを心配しながら、慌しい一日が始まった。告別式は父の苦労の多い生涯をねぎらうような明るい天国への門出にふさわしいものであった。

 父のこと

 西陣織りの帯地の図案家であった父は「西陣の仙人」と言うあだ名で呼ばれる優れたデザイナーであった。父は幼少のころ絵画の素晴らしさを認められ、江馬静山の弟子となった。江馬静山は竹内栖鳳門下で日本画に洋風の手法を取り入れた温雅な画風で知られている。父は大家を目指す家系なのだろうか詳しくは知らないが、そこで帯地の図案を学び、いつかは日展に出品するのが夢であった。
 独立して間もなく、太平洋戦争、平和産業の中止、一家を連れて島根に疎開。6人の子どもを抱え、田舎で田畑のない一家は食糧難に苦しんだ。なれない軍需工場での労働、風水害に襲われ家財を失った。そして終戦。働く当てもなく、筆一本で田舎の農家を訪れ襖の絵を描いて六人の子どもを養った。母も京女。全く田舎の生活に馴れず、賃縫いをして助けた。苦しい生活は父の心臓狭心症となり発作が起こるのが日常となっていた。母は関節の節々が痛み、歩くことも動くことも出来なくなって、重度のリュウマチに苦しむ日が続いた。
 このような、貧困の中でわたし達6人兄妹は育っていった。どういう訳か、貧しさの中で子供達は父が素晴らしい絵を描く画家であることが、誇りであり心の支えとなっていた。
 父は、忍耐深く、優しく、愛情に満ちていた。父は、また、敬虔な宗教心を持っていた。毎日、般若心経を唱え、祖父が彫った弘法大師の仏像を礼拝していた。実は、家の宗旨は臨済禅宗であるけれど、父は宗教的寛容の日本人と言うのか、家には神仏といわれるものが色々あった。京都は八木町の在の人(船井郡富本村字庫氷所)であったが、明治の頃より同志社出身の伝道師が伝道し日曜学校があったようである。父はここでキリスト教に触れ、京都に出ても時々教会に行っていたようであるが、洗礼を勧められるようになって行くことをやめていたようである。
 やがて世の中も落ち着いて、兄の助力もあって父は勇気を持って京都に復帰し、再び西陣の帯絵を描き始めた。仕事も始め順調であったが、戦後のセンスの変化に対応しきれず、手の震え、頭の衰えが思う構図を描けなくしていた。父の口癖となった「いつかは、日展に出したい」と言う願いは果たし得なかった。老後の心配をする父に私が「老後はわたしが面倒を見るから」と言うと、父はよく涙を流した。子供としてごく自然に何気なく言ったつもりであったが、心に嬉しい思いが伝わるのがわかった。
 実際私が37歳の時に、収入を絶たれ年金もない父を世話しなければならなくなった。ああ大変なことになったというのが正直な思いであった。我が家の経済は三人の子どもと家を新築したローンの支払いでぎりぎりであった。しかし家のやりくりをしている友子は一言も、「嫌だ。」「大変だ。」「苦しい。」「お兄さんがいるんでしょう。」とも言わずに「・・・いいよ。」と言って世話してくれた。兄妹たちも経済的な分担を約束したが、兄嫁が飛び飛びに送ってくれるもののほか送金はなかった。それから十七年、友子は父の世話をし続け、経済的にどんなに苦しくても黙々と祈りと忍耐で乗り越えて助けてくれた。
 また父は私がキリストの話をしてもよく聞いてくれた。しかし拒みはしないが受け入れもしなかった。父は空海は日本のキリストだと言うことを良く話していた。般若心経をそらんじ僧職より僧職らしく振舞い、その読経の音韻は美しく見事なものであった。小さい時から父の読経を聞いて大きくなった私は父が牧師館で生活するようになって、一切読経が出来なくなって大丈夫かなあと心配するぐらいであった。とうとう我慢が出来なくなり自分で浄土宗の老人施設を探してきて行きたいと言い出したので家族はしぶしぶ同意した。しかし、少し経つと本堂で住職に迷惑がられた。お経が違うと言うのである。父に取ってはお寺では何でもお経を唱えればいいと思っていたのであるが、宗旨が違うとなかなかうるさく言われることが解ってきた。とうとう嫌がられて帰らざるを得なくなった。帰ってきてからは、教会でみんなと馴染んで交わりをするようになった。その後、病院に入院してから真剣に話をし、天国に行く準備をするように勧め、召される3ヵ月前に病床洗礼を受けるまでになった。
 晩年の父は排泄の自覚がなくなり、徘徊の兆候が出てくるようになってしまったため、とうとう京都の病院に入院することになった。毎月、何回か忙しくても京都の父の面会に行った。父の主治医が父の生まれ育った八木の氷所の出身で、村のことをよく話してくれたことを父は楽しそうにしていた。父の入院のお陰で京都の四季を友子に楽しませてあげたことは神様の大きな贈り物のように思える。春は二条城、平安神宮の桜、遅くは御室の桜と躑躅(つつじ)、京都の桜は息が長い。梅雨には三室寺(みむろでら)の紫陽花(あじさい)、夏は清滝(きよたき)の清流に遊び、秋は高雄(たかお)の神護寺、鞍馬(くらま)の紅葉に酔い、師走の暮れには錦市場で京の喧騒を楽しんだ。ついには父の見舞いが楽しみになった。行くたびに父の髭を剃りながら、京の美しい花の話をした。父が書生時代に写生に行った思い出を回想させ、話が弾んだ。

 父の世話になった最大の理解者は友子であった。友子への感謝を語っても、病床にふす彼女にその声は聞こえない。父の前で彼女を知る人々のねぎらいの言葉を聴せてやりたいと思いつつ時は過ぎ、式は終わった。熱心な仏教徒であった父を知る家族も親族も、キリスト教の告別式に何も口をはさむ者がなかった。友子の労苦へのせめてもの感謝の思いを知ってのことであろう。

<ステージ4のメッセージ>

 二日目の朝、後片付けも後にして、病院へ急いだ。病床の友子は落ち着いた様子で、血色も良くなっていた。急いで医務室に行って、検査の結果を聞こうとした。結果を聞くことが不安で、ドア―の外でたじろぎ、ノックをする手が挙がらない。結果は胃癌で進行状況は"4"と言われた。「出来るだけ早く手術をしなければなりません。」と医師は言った。私は医師の顔を見ながら恐る恐る尋ねてみた。
 「助かるんでしょうか」
 「大丈夫とはいえませんが、助からないともいえません。」。
 私は"4"の数字の意味する内容を知らなかった。私は四十歳で胆石の手術を受けたが盲腸と胆石は病気じゃないと言われ家族も病気で深刻になる経験がなく、いたって元気に過ごしてきたので病気に関心がなかったためである。
 家に帰って家庭医学事典を開いてみる。進行度ステージ"4"は治療不可能に入っている。しかし、まだ、最終の"5"ではない。「これは"直る"」と自分に言い聞かせた。信仰がある。聖書のみ言葉に信頼しよう。祈りは答えられる。
 「ご本人には潰瘍だと言っておいたほうが良いですよ。」との医師の言葉に戸惑いながら、楽観的にひたすら神様に祈ろうと決心した。大変な出血のため、体力の回復と検査のため十二月も中ごろに吹田から一旦、家に帰り、紹介された労災病院へ行くことになった。すぐに入院することになったが、一通りの検査をここでも受けることになった。そうこうするうちに、十二月も暮れになり手術は年が明けてからということになった。
 正月は家に帰り、最後になろうとは思わなかった正月を家族で共に過ごした。いつもの友子のおいしい手作りのお節料理はなかったが、麗栄が良く手伝ってみんなでよいお正月を迎えることが出来た。友子の病状は落ち着いて、そんなに悪いのかなあと思うぐらいに見えた。

 1988年1月5日、再度入院。7日に手術を受けた。胃の4分の3を切除した。術後回復が早く、癒されるように祈りにも力が入った。教会でもよく祈ってもらった。教団でも全国の方々から祈りと見舞が届いた。本人は依然、潰瘍という認識でいた。私はクリスチャンとして生死は主の御心にあると信じているが、どっちにしても本人がより楽観的に信じきって祈り、周りの者が危機感を持って祈る道を選んだことになる。
 全てが主の御心になるようにしか出来ないと思われた。状況が厳しく変化するときには自然に知ることになろうと思った。とにかく毎日、早天の祈り、夜の祈りを続けた。
 外科手術が済むと見る見る血色はよくなり、落ち着いてきた。
 その頃、私は関西教区長をし、教団は1999スローガンで教団ぐるみの伝道プロジェクトを進めていた。教団の総務局員でもあって、青少年伝道プロジェクト委員会委員長も努めて、とにかく忙しかった。その年、1989年は教団名誉総理弓山先生の米寿の年であった。中央聖書学校の同窓会長をし、講壇編集委員でもあったので「弓山先生米寿記念論文集」を刊行することになり、準備の最中であった。当然、私も先生の労に報いる執筆者の一人であった。教会と教団、教区と今では考えられない超人的な多忙の中で、とうとう執筆できなくなった。弓山先生が「どうして君が執筆しないのかね」と聞かれた時は答えに困った。家のことと教会の働きの大部分を友子に任せっきりであった私にとって、どこに何があるのか、家計がどうなっているのかもわからなかった。亭主とはなんと極楽トンボなのかとあきれているひまもないほど用事に追われていた。友子が入院してからは、出来る限りの教会外の仕事を他の人に協力してもらいやり遂げていった。

 3月には退院してもよいという医師の判断がでた。体の調子も落ち着き、食欲も多くは食べられないが、普通に出来るようになっていた。同室の患者の人々にそんなに早く退院できるのが羨ましいといわれ、友子も長期に入院している人達に自分が退院することが申し訳なさそうであったが、反面、嬉しそうであった。

 私達が結婚して25年の歳月が流れていた。世にいう銀婚式を迎える年月が過ぎていた。
韋駄天(いだてん)のように走ってきた25年、一緒に夫婦らしく家庭で話し合うことも思い出せないぐらい忙しい日々であった。

<薄墨桜の村で>

 友子は1940年一月二日、岐阜県の山深い根尾村に生まれた。父、寺本豊次と、母、小野島はづえは、父が名古屋の日本発電(中部電力)に勤務しているとき一緒になり家庭を持った。
 間もなく、父は昭和13年7月、召集のため軍隊に行くことになった。内地の訓練を受けて、
翌14年8月に上海に派遣され、大陸を転戦した。昭和20年8月九州の宮崎飛行警備隊で終戦を迎えた。
 根尾川の流れる谷間の北に真っ白な雪で覆われた能郷白山を見ながら、父豊次は畦道(あぜみち)をまだ会ったこともない娘の待つ家に急いだ。母に手を引かれて父を迎えた友子は「このおっちゃん誰?」と言うといぶかしそうに父を見上げたという。昭和20年3月9日のことだった。友子は5歳になっていた。このときのことを何回となく私は聞かされた。"薄墨の桜"のこと。世話になっていた伯父家族とその子供達との間の辛かったこと。根尾川のきれいなこと。 優しいおばあちゃんのこと。おじいさんが農協の会長をしたり、伯父が小学校の校長をしていたことが家族の自慢であったようによく話していた。 基範が小学五年のときだったか三人の子どもを連れて根尾村におばあさんに会いに行ったのが最初で最後の帰省となった。

 友子の父は復員後、間もなく中山製綱の尼崎製板に職を得て、家族は根尾村から尼崎に移った。
西難波にある社宅に落ち着き、友子は難波小学校に学び、昭和中学校を卒業した。成績は常にトップを競う、聡明さであったという。県立尼崎高校に進み、高校在学中に救われた。卒業時には神戸大学への道を進められたが家庭の事情もあり、尼崎鉄工に勤める様になった。

<献身への道>

 尼崎神召教会は米国オレゴン州のアルバニー・アッセンブリ−教会から遣わされていたジョンストン先生家族と御影教会の岸部勘二朗先生によって開拓された教会である。
 阪神出屋敷駅前での天幕伝道を皮切りに、西難波公園で多くの人が導かれ、間もなく中澤先生が赴任され、西難波に一軒の家を借りて礼拝をする様になった。
 ジョンストン夫人のお母さんの遺産がささげられ、今の西難波の土地が与えられた。当時の進駐軍の兵士や多くの宣教師の協力で、コンクリーでブロックを作り積み上げるという手作りの可愛い教会が献堂された。
 1955年7月23日、多くの教区の教職・宣教師を迎え、川崎一師の司式によって献堂式が行われた。続いて3日間の特別集会が山田二三雄師を講師によって開かれた。多くの人々が救いに導かれ、その中に数名の高校生がいた。その中の一人が友子であった。

 高校一年の時救われた友子は、中澤先生の清純で一途な信仰の薫陶を受けた。当時、20名以上の高校生グループに成長し導かれていた。彼らの機関誌も"殉教者"であったという。
 中澤先生はオズワルド・スミスの「魂の情熱」に共鳴され、信仰の徹底と宣教の熱意をもって世界宣教の使命を祈られていた。教会堂が出来る前に御影の教会に出席していた人々の多くは、純粋一途で献身的な宣教の熱意で指導される中澤先生にたじろぎ、距離をおいて御影教会に帰るようになっていた。
 しかし、中澤師が世界宣教のテストとして徳島での開拓を始められてからも、友子はその理解者となり祈り手として支えた。そのことは、彼女を伝道者として献身の生涯に導くことになった。
 中澤師が神の使命に従い、徳島開拓に専心されることになった。尼崎教会は暫く無牧となり、友子と梶本姉(旧姓大引)の二人が教会で寝泊りして守っていた。

<厳しい伝道の日々>

 1960年に私は尼崎神召キリスト教会へ赴任してきた。
 京都の父の所から阪急に乗って、塚口で降りた。駅前の広場もない雑多なところで北口にしかバスの止まる道路がない淋しい田舎の風情であった。バスは北小学校の前に行き、南にのろのろ走った。人気のないバスの中から見る車窓は見渡す限りの田圃(たんぼ)であった。思わず「田舎に来たなあ。」と思った。阪急の踏切を渡る頃、行く手の向こうにもう一つの鉄道が見えた。国鉄線に近づくと家も建てこんできた。バスは西へ迂回して、立花駅によって線路沿いに東に帰り、二分ほど南に行くと西難波に着いた。今の市役所は、葦の茂った大きな池であった。
 日曜日の夜ともなると、友子と梶本姉と私は提灯を持って、大太鼓を抱えて路傍案内に出かけた。
友子は二十歳そこそこで、教会の会計の責任を持たされていた。教会経済は生活費五千円と光熱水道費を支払えば殆ど無い状態で、とにかく伝道費として紙一枚買うのも考えるような状態であった。教会は経済的に自立していたが大変であった。しかし、霊的に恵まれていたので、試練が祈りの課題となって切迫感はなかった。
 そこで思いついたのが、中学生の英語教室であった。昭和中学校の前でわら半紙B6の小さいビラを配った。五人ばかりの真面目な子達が集まった。英語を勉強するのと同じぐらい聖書のお話をした。やがて教会に導かれ洗礼をうけた。その第一号が小川晃義兄であった。やがて坂西良助兄も導かれ今日の教会を担ってくれている。

<献身と結婚の道>

 教会の事務引継ぎの際、中澤先生は「友子姉は、献身しているので宜しく。」と言われた。
友子は中澤先生からリーズ・ハウエルズの伝記を借り、その中の「人生において一番大切なことは、どんな犠牲を払っても、神に従うことです。」という言葉を生涯の献身への指針にするようになった。彼女は聡明で、ひかえめ、物静かであるが宣教の情熱に燃えていた。しかし、本人は伝道者になるというより牧師の伴侶として献身したいと思っていたようであった。献身している彼女は、朝の祈りに教会、勤めから帰ると教会と、毎日教会入りびたり、会計をしたり掃除をしたり、日曜学校の教材を作ったりしていた。

 ある日のこと、友子の母親が来て、「友子は教会に入り浸りで信仰に打ち込んでいるようだし、どうでしょう結婚してやってくれませんか。」というのである。すぐに「ハイ」とも言えず、「友子さんは神学校に行って伝道者になりたいと言っているんですよ。」と答えた。すると母親は「はあ、そうですか・・・」と神学校が何なのか、伝道者が何なのか、解らないようであった。しかし何時の間にか、「彼女がいないと困るなあ。」と思うようになっていた。とにかく毎日、彼女と梶本姉は教会にやってくるのである。私の心に母親の言葉が現実味を帯びてくるようになった。そして、主の導きと確信するときが来た。

 私は、牧師の奥さんは個人伝道とオルガンが弾ければいいと変な考えに固執していた。友子は若いのに本当に聖霊の品性に整えられた、しとやかで、上品で、従順な人であった。私の自己主張を牧師であるが故に、じっと聞いていた。「神学校では祈りと、個人伝道とオルガンさえ習えばいいよ。牧師の奥さんにはそれ以上のものはいらないよ。だから一年で十分だよ。」と押し付けるようにいうのを聞いて、静かにうなずいていた。しかし、私は真面目であったことには違いなかった。

 友子の神学校生活が始まった。知り合いの先生からも彼女がとっても成績がよく、すごく理解力があると聞かされた。私は、一年でいいと言ったことに戸惑いを感じた。しかし、夏休みが来て彼女が帰省すると既定の路線の準備にかかっていた。一年で、彼女が学校を止めて結婚するなんて言ったら、弓山校長に怒られることは目に見えていた。私は兄のように思っていた山田二三雄先生に相談して頼んだ。こんなことでは最も頼りがいのある人で、一にも二にもオーケーであった。
 弓山先生には予想通り怒られた。私も申し訳なく思ったが了承して頂くことが出来た。ハレルヤである。9月になって、東京滝野川の神召教会の祈祷会で婚約式を挙げたのであった。

 1962年4月8日、関西の多くの教職の先生と教会の皆さんの祝福を受けて結婚式の日を迎えた。司式は内村誠一先生、媒酌は山田二三雄先生夫妻。友子は22歳、私は28歳であった。

 私達は経済的には無力に等しい状態であったが、父から貰った二万五千円でケーキと紅茶、教会の夫人たちが炊き出してくれた五目御飯で晴れやかな披露宴が行われた。友子は色白で背が高く、純白のウエデングドレスがよく似合った。宣教師のサンデノー夫人から借りたものであった。友子の両親も鏡台、洋服箪笥、整理箪笥と当時の伝道者にしてみれば贅沢に見える家具を揃えてくれた。喜びながらも六畳一間の牧師室には、いささか置くのに思案をしなければならなかった。新婚旅行は、一泊二日で宝塚の若水へ行った。
 明けて次の日から厳しい現実が待っていた。しかし、どんなに厳しいことがあっても、共に祈れる喜びは、大きな力の支えとなった。

<思い出の伝道の原点>

 次の年、長男基範が生まれた。相変わらず経済事情は厳しかった。何が辛いといって、伝道のための十分なお金が無いことであった。ポスターを作ることが出来ないし、ビラを十分に作れなかった。佐伯先生やマリヤ先生がよく声をかけ、助けてくださった。佐伯先生がラジオ伝道のポスターの古いのがあるというので頂き、わら半紙に所と日付をガリ版印刷で刷り込んで貼ったことがあった。私が基範をねんねこを被せて背負い、買い物袋にポスターを入れて夜道を行った。友子は小さなバケツに糊を入れ、電信柱に刷毛で塗り、私が貼るのであった。いまだに、開拓教会のことを祈る時、このことが思い出されてくるのである。私にとって、このことがいつも伝道の原点になっているのだ。次の年、篤信が生まれた。教会には風呂が無かった。友子は年子を抱えて、銭湯に一人づつ別々に二回行くのが日課であった。
 やがてオリンピックの年、韓国の崔子実先生に会い、そのことから趙先生と日本のリバイバルのためにクルセードをプロモートし、更にテレビ伝道を進めることになる。何百万いうお金が毎月使われる伝道である。スタッフの給料、放映料、とにかくお金がいる。ある時、入るべきお金が入らず支払いが出来なくなった。三百万円ぐらいのお金であった。友子は困っている私に、そっと差し出してくれたのである。二回程、その様なことがあった。満ち足りるようになっても色々な試練があった。とにかく伝道にかけては自分の思い通りにしたい私を、友子は忍耐深く、反対や批判は一切しないで、したいようにさせてくれた。見方によれば言ったって聞かないという諦めでもあったのだろうかとも思う。

 尼崎と言うところは、ホームレスやその日の生活に困る人が教会によくやって来た。最近は殆ど無くなったのであるが以前は本当に多かった。アル中の人を家に入れて家族と食事をさせたり、暴力飯場から逃げて来たとか言う人を助けた。多くの場合、騙され実りの無い事が多い。友子はもう止めてくださいと言った。私が受け入れても世話をするのは友子である。私は困っている人を助けることは聖書的だし、親を見て子供は育つ、子供の教育のためだなどと言って、同じことを繰り返した。苦痛を感じていた友子に「これで最後だから、一生のお願いだから。」と言うと「ハイ。」と言って世話をしてくれた。しかし、同じことを何回も繰返すのであった。
 子育てにしても、伝道の事にしても、社会的な奉仕にしても、友子は黙々と家族の十字架を背負ってくれたのであった。

<シナイの夢は消えて>

 小さかった子供も、末の麗栄が大学三年になり、私は無私に徹して教会と家族に尽くしてくれた友子に報いたいと思った。当時、関西教区の親しい先生とイスラエル旅行を計画し、一緒にモーセのシナイ山に登ろうと言って10月には行くことになっていた。私は数年前から色々な教会や聖会などで奉仕をして頂いた謝儀をため、その旅行の費用に充てることにしていた。
 その7月に彼女は少し吐血した。病院で検査をしたが胃下垂の診断で少し養生すればよいと言うことであった。しかし、8月の終わりごろになると強い倦怠感を伴い、体調不良が続いていたので、イスラエル行きは止めると言い出した。ガッカリしたのは本人より私であった。
 長い間、何もしてあげられなかった。地味な友子は着る物にもあまりお金を使わなかった。化粧もしない。そのままでも美しい人であった。特に和服が良く似合った。

<愛が見えてくる>

 3月の終わりに退院してから落ち着いて養生するようになり、ホッとしたようであった。完全看護の病院ではあったが、人の出入りがあり何かと落ち着かないし、大部屋では人をいつも気にするのか疲れるようであった。
 結婚して25年にもなれば、「あれ」「これ」と言えば、それはここ、あれはそこにと家内には解るのであったが、私には何がどこにあるのか全くわからなかった。
 お互い、元気な時は全く別人のように行動し、空気のような存在であった。あっても無いような、無いと自分の存在が無くなるようなふしぎな存在であった。結婚25年にして友子の存在とは何にも変えがたい大切なものと、やっと実感するのであった。
 私はかいがいしく、食事や何やかやとよく動いた。それは、友子がよくなってくれるようにという祈りが形となって行動に現れたといえよう。「お父さんは、優しくなったねえ。」と子供に言われて、そうかなあと思った。それは、日ごろ家内に対してあまり優しく振舞っていなかった証明のようでもあって、後ろめたさがなんとなく感じられた。

 一ヵ月があっという間に過ぎてしまった。友子のお腹が、日ごとに大きくなって行った。腹水であった。予期してはいたが、現実を前に祈ることしか出来なかった。だんだん大きくなるお腹は妊婦のようになり、苦しみが日に日に加わった。とうとう病院に行くことになり、即入院であった。腹水を取ってもらうと、友子はほっとしたような、気持ちよさそうに元の落ち着いた表情にかえった。
 友子は自分が癌であることを、自覚していたようであった。腹水は1週間もしないうちに徐々に膨らんだ。そして、腹水を取ってもらうたびに、体は痩せて、体力が衰えて行った。
 ある日、東京から石原先生と佐藤孝夫先生が見舞いに来てくれた。この病院では、面接時間以外は病室での面会は原則禁止。遠くから来ているからいいではないかと思ったが、看護婦は規則ですからと煩(うるさ)く言った。
 友子はにこやかに「行くから、大丈夫」と言った。暫く歓談を交わして病室に帰ろうとし十歩ぐらい歩いたところで、よろめき倒れそうになった。思わず、抱き支えると着衣が少しはだけて踏ん張った足が見えた。友子の足が、竹のように細くなっているのが目に映った。一瞬、息が止まるのを感じた。私は、その時まで気が付かなかったのだ。私は現実を受け入れつつも、激しく祈るように導かれた。

<生きる辛さと感謝>

 「お父さん、今日ねぇ、垣花さんが来てくれてね。足を摩(さす)ってくれたのよ。とっても気持ちよかったわ。あの人は本当に優しい人ねぇ。」と友子は青白い顔に、笑みを浮かべて言葉を継いだ。
 「あなたも、足を摩ってくれる?」
 「ああいいよ。」と言いながら、気持ちよさそうな友子の顔を見ながら、いつまでも足を摩った。
 元気なとき毎晩食事の後、友子は「お父さん、肩を揉んで」と言うのが口癖だった。私はいつもお義理で一分ほど肩を揉んで、「按摩(あんま)の人と結婚すればよかったんじゃない?」といつも同じ台詞を言うと、「じゃあねー」と居間から逃げるようにして書斎に逃げ込んでいた。今は揉んでやる肩の筋肉もない。足を摩りながら悔悟の気持ちが胸を締め付けた。

 次の日も、仕事の合間に、急いで病院に駆けつけた。病室に入ると、友子は寝ている様だった。人の気配に薄っすら目を明けて、
 「お父さん、来てたの?」
 「どおお、具合は?」いつも通りの言葉で会話が始まった。

 友子は、「お父さん・・・」
一息おいて、言葉を続けた。
 「私、死にたくない!」
小さな声だが叫ぶように、私に駄々をこねるように言った。
 「・・・・。」私は、何かを言おうとするのだが言葉が出ない。思わず手を握った。私はどの様に言えばよいのか戸惑った。私は、衝動的に自分と変わってやりたいと思った。
 「そうだね、イエス様にお祈りしよう。どんなことがあっても信仰を持って癒しを信じて祈ろうね!」と言って、手を握り締めた。

<御言葉に支えられて>

 6月の中ごろになって、個室が空いたので、移ることになった。個室の病室はソファーもあり、家族は常時付き添えて泊まることも出来た。あいかわらず私は多忙であった。
 長男の基範は前年、大阪の会社を選んで就職したが入社すると間もなく東京勤務になっていた。しかし翌年四月になって会社に母親の事情を伝え、大阪本社に出張することにしてもらい、願い叶って帰ってくることが出来た。病室に付き添いで詰めることになり、私と基範は交代で泊まることになった。

 ある時友子は、御言葉を書いて壁に貼ってくれと言うのである。その御言葉はコリント人への第一の手紙、十三章十三節である。

 「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

  模造紙半切で黒々とした墨字で書かれた御言葉をベッドのそばの壁に貼り付けた。 友子は言った。
 「お父さん、私、完全に直るよね?・・・・」
 「みんなも祈ってくれているしね。直ると信じているよ。」と私は言った。一息置いて友子は言った。
 「私ね、完全に直ると感謝してるの。復活の朝、私は完全な体に癒されるの。」

 このときほど信仰が希望を生み出すこと、またその恵みと力が強く、明確に実感できたことは無かった。それは今という時、どんな時も「永遠のいのち」に生かされているという体験であった。その保証としてキリストがすでに我々の贖いとなり永遠の命の代償となって下さったのである。そして、永遠のいのちの保証として聖霊を与え、永遠を今に体験させ、主の恵みをほめたたえさせてくださるのである。
 信仰は、来るべき復活の日に希望の実現によって消える。そして、そこにあるのはキリストによって現された永遠の神の愛である。愛による恵みの赦し、そこに神の義が与えられ、その義が復活の朝、完全なるものとして栄光に化せられるのである。愛こそ、義であるという真理が体験させられるのである。愛のほか、キリストのほか何も見えない栄光に包まれるのである。

 二人しかいない病室で御言葉を見上げながら主の臨在に包まれるのを実感し、ハレルヤ・コーラスが心に響き、BGMのように部屋に満ちるのを感じた。何時の間にか、二人で心からの感謝をささげていた。

 賛美歌や懐かしい童謡のテープを友子は好んで毎日聞いていた。会話は辛い、苦しい伝道生活の思い出が多かった。でもその思い出は、その試練を支える恵みの思い出であった。

<素晴らしい人生を有難う>

  7月も10日を過ぎると、血圧が30ぐらいにまで下がって来た。ある朝、友子は私をじーっと見つめて元気の無い声で言った。
 「お父さん、・・・」
 「何か、ほしいの?」
と問い掛けると、
 「お父さん、有難う。いい人生を、本当に有難う。神様に感謝するわ。」
 言葉も無く、二人で手を握って感謝をささげた。

 友子が重体であることは、身近な人からいろいろな人に伝わり、毎日の様に見舞いに訪れてくれた。来ていただき祈って下さるのは嬉しいのであるが、本人は疲れるので病院からも面会謝絶にしたほうがいいと言われ、その様にすることになった。
 せっかく来てくれているのに気まずい思いになった人もあって辛い思いをした。来てくれた人の多くは、見舞いに来たが反対に慰められ励まされたと言ってくれた人も多くあった。

 友子の体は骨と皮のようにやせ衰えていった。食事はもう全然受け付けなくなっていた。ガンの末期は、苦痛が伴うと言うのだが、ペイン・クリニックが進んだのか、痛いとは一度も言わなかった。
 ある日、子ども達も帰って病棟も静かになった夜遅く、思い出の話をしていた。突然、話が途切れた。暫くして友子が言った。
 「あなたねぇ、あなたは一人じゃあ、何も出来ない人だもんねぇ、ほんとに。私がねぇ死んだら誰かと結婚しなさい。イエス様への奉仕には、あなたは助けがいるんだから。」
 あまりにも突飛に聞こえる言葉にどういっていいか言葉を捜した。
 「そんなこと言わないで!」
 たしなめるように私は言った。友子は言葉をつないだ。
 「天国に行けば男も女もなく、主を崇めることになるというのがイエス様の言葉でしょう。」
 命令口調にさえ聞こえそうであった。
 友子は教会のこと、家の切り盛りのこと、自分のしてきたことは、この人には絶対出来ないと思っていたようであった。私は、在来外向きの人間である。考えてみれば、自分ひとりで全てを行って来たように思っていたが、そうではなかった。表があれば、裏がある、裏と表で立体となる。平面は抽象でしかない。三次元でこそ存在であり、実体験であり、生活であるといえる。

<別れの朝>

 7月22日、蒸し暑い夜であった。病室のソフアーはいつも寝つきが悪い。何時の間にか昼の疲れで眠り込んでしまった。夏の朝は早く、カーテンから入る朝日が薄っすら明るかった。私は起き上がって友子の寝顔を覗いた。息がない。私は慌てて、ナースコールを押した。慌てて看護婦さんが来て、当直医が呼ばれた。
「6時30分、ご臨終です。」。医師は告げると部屋を去って行った。
1988年7月23日であった。

 私は、不思議と涙が出なかった。子ども達も"お母さん"とも叫ばなかった。
 48歳の友子の生涯は終った。
 慌しくも、物静かな、メリハリの利いたドラマの幕が降りたように。

 葬儀告別式は7月25日、伊藤頌栄先生司式で行われた。私は、時間の感覚が止まったような錯覚の中を歩いているようで、現実と意識のずれに幻想の空間を動いているようであった。友子に苦労を掛けたという自責感からか、何かをしなければという行動に駆られた。袖も通さなかった大島紬を着せてやった。飾花もことのほか華やかにした。棺には美しい花が溢れた。このことで彼女の労苦が報われたとは思わない。

 「よい忠実なる僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ二十五章二十一節) この言葉ほど友子の人生に報いる言葉はない。

 友子は、妻として、母、牧師の妻、伝道師として、教会に仕えた。家庭を支え、子どもたちを育て躾た。それは人の目には地味でひかえめであった。しかし、その存在はなくてはならない神の働きを担っていた。
 教会の献堂式に救われたその日、7月23日に天に召されたのである。
 友子は彼女しか出来ない人生を送った。
 カイロイ、神の時の何にも変えられない、彼女に与えられた唯一の時をこの地上に生きたのである。

 私は、あの千里の救命救急センターの帰り、目を涙に曇らせながら走った夜より、考えてみれば一度も、涙は流れなかった。出棺の時も、友は泣いて別れを偲んでくれた。私は、何故か涙が出なかった。
 全てが終わり、みんなも帰っていった。

<祈りは永遠(とわ)に>

 私は、疲れた体を書斎の椅子に沈めた。暫くすると堰を切ったように涙が流れるのであった。立っても歩いても、一週間、涙が止まらない。私は涙の意味がわからないで自問した。別れの悲しみであろうか。
 友子は主の御許に凱旋した。その人生を共に感謝したではないか。「死にたくない。」といったあの言葉。その意味が、友子の人生のモットーであった「どんな犠牲を払っても、神に従う。」という思いが、やり残している主の働きを思って、神様に「生かしてください。」という叫びとなり、祈りとなったと思う。
 人生を共にした友子に私は、自分が夫として、牧師として、家庭人として、しなければならなかったことが十分出来ていなかったという悔悟の思いが、主の十字架の前で悔改めさせられて出てくる涙の意味であることが解って来た。

<薄墨桜の咲く頃>

 2001年4月11日、根尾村の「薄墨桜」は美しく咲き、満開であった。私と晴代は、美しい桜を見ながら、小さな友子が歩いたであろう草はらで、友子と父親の出会いの思い出を今日も繰返し話していた。根尾川の水は澄んで美しく流れていた。郷能白山の頂には真白な雪が残って見えていた。

 私は主の導きによって、1991年10月、晴代と再婚した。それからはや10年が過ぎようとしている。結婚当初から晴代は過ぎた日々について尋ね、気楽に思い出を語らせてくれた。私にとってこれほど嬉しく、幸せなことはない。
 晴代は、若く美しく聡明な妻である。まさしく神の賜物としかいいようがない。おそらく友子が一番心残りとしていたであろう、3人の子ども達、基範・篤信・麗栄のために祈り、篤信と麗栄の結婚については心を砕き、祈り、実際的に支えてくれた。
 友子が切に願い祈ったように、彼らが主に献身する家族、家庭であるよう、地上で友子の祈りを継続してくれている。また、友子が見ることができなかった孫達のためにも感慨をもって祈り続けていてくれる。私の健康を気遣い、教会の働きを支え、どこに行くのも一緒である。
 私は過ぎし日の過ちを繰返さないようにと努める日々である。私ももうそこに古希が見えてくるようになった。昨年は病に倒れ、3回も入院しなければならなかった。しかし、神が許してくださる限り召された働きを 全うさせていただきたいと願っている。

(2001年7月発刊「白ゆりの懐想」廣瀬友子召天13年記念誌より)

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