三浦綾子読書会 レポート
テーマ「光あるうちに」
三浦綾子著
廣瀬利男(2012.11.10.読書会より)

この作品は「道ありき」、「この土の器をも」の三部作の最後の作品である。三浦文学のヒット作であり、ある意味で処女作といっていい「氷点」が、1963年朝日新聞の大阪本社相関85年・東京本社75周年記念の1000万円懸賞小説に応募して入選して朝日新聞に連載されてベストセラーになる。その後、「ひつじが丘」‘66「積み木の箱」’68続いて「塩狩り峠」‘68を発表する。新人の文学会へのデビューでの評価は作風が通俗的であるとの批判があり、大衆文学会でも信仰を起点の作風に評価を受けることが難しいと言われてきた。今日での大衆文学は月間大衆文学誌などの購買などがひとつのバロメーターになるようであるが今日では社会的流動性の中で売り上げが伸びずに廃刊になる傾向にあると言われている。色々な評価があるが、「氷点」は71万部のベストセラーであり、著者は1999年に召天しているが、未だに作品が再版されていることから根強い読書ファンがいるのである。文学界の評価を越えている。「氷点」から第3作品である「塩狩峠」は証しの文学としての秀作であり、国際的にも英語や中国語、ドイツ語、スウェーデン語、ノルウェー語、韓国語、フィンランド語、オランダ語、アイスランド語、インドネシア語、デンマーク語、タイ語の12か国語に翻訳されている。
 三浦文学は文学界の評価、評論家の評価を越えて、苦しみにある弱い人の助けの道、人の真実に生きる、生かされ得る道を案内する情熱が今も生きている作品である。三浦綾子は文学者であるばかりでなくキリストを証しする優れた伝道者である。
 「光あるうちに」の三部作は、自伝文学であると共に、体験を通して神の愛を証しする「キリストの福音の手引書」であると言える。これを読めば、人間の実存、罪の実態、キリストによる神様との出会い、その関係と人生の目的、死と復活の希望、教会での出会い、如何に祈るべきかという体験に裏付けられた証しである。今までにない優れた現代の「三浦綾子による福音書」とでも呼べる作品である。
 「光あるうちに」の序章おいてこの作品のテーマ「人間は何故生きているのだろうか」を中心にあらゆる人生に複雑な出来事を通してその「何故」を求めようとしていることを次の言葉で著書の趣旨をまとめているのではないか。
「神とは何か、キリストとは何にか。罪とは何か。何故苦しみがあるのか。奇跡はあるのか。救いとはないか。科学と宗教について。愛とは、幸福とは、生きる目的とはなどなどと、私なりに平易に書いていきたいと思う。」(p21)と言っている。「わたしはクリスチャンである。キリスと信者の中では、まことに至らぬクリスチャンである。しかし、クリスチャンである以上、その立場に立って、信仰の話を語っていきたいと思う。」(p23)これがこの作品の意図するところである。
罪とは何か
 作者は、先ず、「氷点」の作品の意図「原罪」を糸口に、読者からの「罪」への反響を紹介しながら、人間の持つ「罪」とは何かを読者の疑問「食欲も性欲も現在だそうですね」を巡って、自分の二重婚約の罪悪感のなさの経験を通して「罪を罪と感じないことが、最大の罪なのだ。」(p26)と吐露しながら、過失を認める人間の二つの尺度基準を通して、人のことと他人のこととは基本的に責任の追及に仕方が違うことを指摘する。窃盗で自殺する人はいないが、噂話で傷付けられて自殺に追い込められることはある。自分の無意識のうちに罪を犯していることを意識しないでいる罪深さである。著者はダビデのバテシバを巡る王の罪の告発のストーリーをもって罪をはかる自己中心的な物差しの在り方を明らかにする。著者は罪の分類を提示する。1、法に触れる罪。2、道徳的な罪。3、原罪である。(p38)受刑者よりも犯罪者でない人たちは正しく生きているのかと問うのである。確かに触法者は法律で処罰を受ける。法律は世に中がうまく回っていくように規則を作るのであって基本は正義であるのであるが、しばし、その正義も「この世がうまく回る」ことが基準であることである。人間として誰が見ても赦されないことが道義である。法律には理解できない不合理性がある。未成年で無免許運転で小学生、母の10人、死傷者を出した者が、無免許であるが運転できたから危険交通致死罪にならないと言う検察の法解釈のナンセンスが批判された。人間にとって真実の道義は何であろうか。そこで人間の持っている本質的な罪性、即ち、「原罪」が意味する罪の在り方を説明するのである。著者は聖書の「罪」ハマルテアーという言葉の原意「的はずれ」を端的に示す。「人間はもともと、神の方を見なければならないのに、自分ばかり見ていることが的外れなのだ。つまり、神中心であるべきなのに、自分中心であること。これが私たちの原罪であるのである。」(p38)
 そして、「泥棒と悪口とはどちらが罪深いか」という問いに、物をとられて自殺する人はいない、悪意の噂や悪口は、しばしば人を死に追いやることさえあると指摘する。「敵意、ねたみ、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろの思いが悪口になってあらわれるものだ。・・それほどわたしたちは一人残らず罪深い人間なのだ。であるのに、その罪深さに心を痛めることは、甚だ少ない。『罪と感じないことが罪だ』」(p40)といって著者は自分の心の罪への鈍感さを嘆ずる。

人間この弱き者
 人間の根本的な弱さは「自己中心」であると言う。自分に同調しないものを嫌う習性を指摘する。自己中心であればある程、神を嫌うことになると言う。神を見ない、見たくない生き方、この姿勢をもってあるべき所から外れてしまったと言うが、現実は「自己中心」は人間にとって正に根本的な問題であり、これが「原罪」であると言うのである。(p41)様々な例証をもって人間の罪犯さずに生きていることは出来ないことを示す。更に、人は、極限的な環境の中で人間性を忘れて行動する。「とにかく、人間は弱い者なのだ。」(p53)ということから聖書のペテロの従順の告白に対して、イエス様が告白の否定を予告される。それが現実となってペテロは人間の弱さを嘆き、悲しむ。しかし、イエス様が受難の道を歩まれ、神様の御心である愛と赦しを通して彼はけられ、人間に従う道から神に従う者に変えられる。著者は「わたしは確かに弱い。しかし、神よって強くされる望みはひらかれているのだ。」(p55)と告白している。著者のであったトラクト配布伝道者の紹介で矢部姉妹という人に出会い、その生涯を崩壊している。この人は歩行困難な病人であるにもかかわらず、困難な生活の中で日曜学校を開き、やがて大人の人たちのも伝道するようになり30人の人々が救いに導かれたと言うのである。彼女が神様を信じていなければ自暴自棄になり、愚痴を言いながら暗い生涯を歩んだに違いない。しかし、キリストを信じる信仰によって人を慰め、励ます人になり、全国からこの人のことを聞いて訪ねて来る人があったというのである。人間弱きものがキリストの光を通して変えられ力強き生きているのである。

 自由の意義
 自由んに生きるとは何か。クリスチャン信仰は窮屈である。信仰はご免めんだ。と考える人が多いと言う。身体の不自由な人。異性に対して動く心を制御できない人。日常、「いいえ」「ハイハイ」「ありがとう」「ごめんなさい」が自由に使える人が何人いるであろうか。また、口は災いのもとと言われるように口を正することのできる人はないと言っていい。著者はヤコブ書3章を提示している。ヨセフは主人の妻から誘惑を受けるが、毅然と避ける。主人の計略にかかり彼は投獄される。このくだりはヨセフの毅然たる態度を通して、その自由を問うのである。彼には受け入れる自由もあった。その妻にも誘惑する自由はあった。その自由を行うも、止めるも自由である。善悪の問題よりもその動機は欲情の規制の問題である。物欲、性欲、名誉欲、地位への羨望などのために人として、社会人として許されない一線を越えるか越えないかは人の自由であろう。神に与えられている人間の尊厳の一つは「自由」である。そして「塩狩峠」のモデルの長野政雄さんの生きざま、生と死を選ぶ自由があり、その死の意味を通して人間の根源的な道を示している。「人のために命を捨てるこれよりも大いなる愛はなし」(ヨハネ15:13)を考えさせる。また、「真理はあなた方に自由を得させるであろう。」(ヨハネ8:33)という言葉の真意を問いながら、自分が真実に自由であるのかどうかを問いかけるのである。

 愛のさまざま
 曽野綾子さんの「誰のために愛するのか」という本から人間の愛と死は人間の永遠の課題であると言う。「愛とは何か」という問いに戸惑うことがある。人間の本質は愛である。しかし、その愛の本質は何なのか。アルメイダは「神は愛である」を「神は親切である」と訳したといわれる。仏教の思想では愛は欲情であり汚れである。女に救いはないとさえも言われていた。愛と表す日本語は極めて曖昧である。著者は88ページでエロスの愛と神の愛は事にすると言っている。エロスは自己保存の愛であり、本能的な欲求を言う。「愛はおしみなく奪う」という有島武朗の言葉を引用する。求める愛である。愛すると言う語はギリシャ語では多くの表現がある。その代表的な3つは、エロスとフィロス、そしてアガペーである。フィロスは値を求めない愛であるがそれには限界がある。肉親の愛や友情である。そしてアガペーは神の愛であって「愛する者のために与える愛」と言える。犠牲の愛である。愛する人のために自己を捨てる愛であり、キリストの十字架の出来事を意味する。著者はコリントT13章を引用し「愛は寛容であり、愛は情け深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みを抱かない、不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを絶える。」この言葉の愛を“わたし”に差し替える時、到底自分は耐えられないと言っている。神の愛を表されたキリストの犠牲の愛を知る前に人間としての自分の愛が如何に不甲斐ないものであるのかをはっきり知ることを勧めるのである。真実の愛に出会うことは真実の人間に出会うことであり、そこに人間として生きる道を見出すことを言っている。

 虚無ということ
 著者は充実した現実の生活もふとした心の迷いから混乱と破壊へと急変する生活を洞察して、人間の虚無的な現実を吐露します。虚無は空白であり数の0のようであり、0にどのような数字を掛けても0になる。その恐ろしい性質を指摘します。
人生の虚無を生き抜く、絶望的なハンセン氏病の人の中に何があるのか。手も足も不自由で人手に頼って生きなければならないこの人の瞳が輝いているのである。どおして空しさに堕ち入らずに生きて行けるのか。そして「何故、彼らが虚しくならないのか。それは誰からも奪うことのできない実存を知っているからだ。虚無を満たすもの、それは実存しかない。実存とは、真実の存在者なる神である。」(p108)神様は本当に存在するのであろうか。

信仰への導き
 神様は真実に存在するのか。に答える項目が続き、真実の神とは?そしてキリストを通して神に至る道を明らかにし、天地創造の神の根源的な人間との関係を示すのである。キリストの生涯を通して神の愛と命の道筋を明らかにし、復活を通して死に打ち勝ち、永遠の命の事実を語るのである。キリストを信じる者が集う教会への導きとその実態を明らかにし信仰に目覚める希望と喜びを示している。教会は信仰を育てる場である。著者は問いかける「かけがえのない、繰り返せない一生を、キリストを信じてあなたも歩んでみませんか。」決して難しいことはない。[人にはできないことも、神には出来る](キリストの言葉)という言葉を信頼して決断しましょう。
三浦綾子は今も「光あるうちに光の中を歩もうではないか」問い掛けている。




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