三浦綾子読書会 レポート
テーマ「石ころの歌」
三浦綾子著
廣瀬利男(2014.7.26.読書会より)

 三浦綾子文学の自伝的作品は年代的に沿うと、「草のうた」、「石ころのうた」「道ありき」「この土の器をも」であるが、「石ころのうた」は年代的には二番目のものであり、女学校時代から戦前、戦中、昭和20年の終戦までの7年間を中心に書かれています。小学校で、報国軍国主義が絶対的なものであるという教育をする、熱心で気真面目な若年教師として終戦を迎えるのですが、終戦によって180度激変する価値観に戸惑い、挫折を覚える精神状態の経緯を綴っています。(参考「解説」p313)そして、肺結核に罹患するという不遇の中で自分の人生を回想し、総括している作品と言えます。その後闘病生活13年の間に、前川正との出会いと、彼によるキリスト教信仰への開眼を通して、神の愛に裏付けられた信仰と希望を見出しているのです。その信仰の価値観の視点で、この若い時代の回想を見事な記憶によって綴っているのが、「石ころのうた」であると言えます。言いかえれば、無意識のうちに植え付けられた伝承と、社会の権力構図の歴史的変遷の価値観で人間性を失っていたという自分を発見し、そこからキリストによって生き方を変えられた自分を回想している自叙伝であると言えます。
 文章には直接キリスト教的な信仰視点は現れていないのですが、三浦綾子の福音回帰の経験から聖書が示す神を信じる者の「人間観」が描かれ、自己洞察が鋭く書き記されています。教育されない人間の不幸せ、惨めさ、幼い性の目覚め、愛する事の未熟さ等が、どうする事も出来ない人間の罪性として、三浦文学の基本的な基礎概念となっている「原罪」にたどり着くように見えます。
 「人間とは何か」、第一次世界大戦後と共に世界経済大恐慌が起こり、日本にも社会不安が満ち、次いで昭和6年満州事変が起こり、満州支配とヨーロッパ諸国の利権が絡み、日中戦争が本格化する中で、大正期に遥藍されていた民主的傾向も経済不安と政治不安の中で軍国主義の台頭を赦し、関東軍の満州制覇をきっかけに軍部が主権を支配するようになる。明治憲法による国軍の統帥は天皇にあるとする、「統帥権」を後ろ盾に、日本は強固な軍国国家となるのです。思想統制、宗教統制のもと、神風神話を根拠に日清、日露戦争の勝利の不滅伝承を国是として国民を高揚し、対立する米英中蘭諸国と第二次世界大戦となるのです。いかなる理由があっても戦争は美化されるものではありせん。然し、植民地時代では、自主統治、自主防衛が出来ない国は、先進諸国の支配下になる事が是とされた時代であったのです。食うか食われるか、その流れのなかに諸国はあったといえるのです。
 悲しいかな日本は敗戦を迎えます。人類が初めて経験した核爆弾の破壊の中で、日本は敗戦を迎えるのです。終戦と共に人間を非人間化して武器弾薬と同じとし、無差別に人の命を遺棄する戦争への深い悲しみを国民は感じたのです。非戦闘員を無差別に、一瞬に殺戮する核爆弾。犠牲の優劣で正当化は出来るのだろうか。主権は勝国にある。然し、米国GHQは「平和憲法」を提示し、日本はそれを受け入れたのです。
 三浦綾子は時代に生きる人として、社会の在り方に従順でした。時は権力が国を支配する。「支配は大衆から離れると崩壊する」という諺があります。真実の人間性に目覚める時、そこに新しい和解と平和が生まれるのです。聖書は「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14−16)と記しています。日本国民の外国への不敗の伝承が軍部を支持し、軍部はその誤った拡大主義と軍事力の誤算を顧みなかった。そこでは「国民の幸福」がなにかを考える思いがなかった。天皇の為に尽くす。死ぬ事が名誉とされた。
 然し、日本の歴史を冷静に見ると、飛鳥の建国、聖徳太子の17条の憲法が伝える限り、「和を持って尊しとする」という国是は、平和の国の基本とさえ伝えられてきた。千二百年前、平安時代、正に、平和の時代であり、天皇を中心に摂関家が治め、戦いはなく、死刑さえもなかったと言われている。その後、天皇が執権権力に付き、付こうとする闘争の時に日本は内乱が起こるのです。戦国時代を通して天下統一がなされて、江戸時代270年間はまったく戦争がない日本であったのです。このような平和な国は世界史に例がないのです。ヨーロッパではルネサンス以降、宗教改革1517年後、1945年まで農民戦争に始まり80年戦争、フランスのナポレオンの戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦が続くのです。そしてヨーロッパ諸国によって南米、アフリカ、アジア諸国が植民地化戦争で支配される時代が続きます。そして1946年に国際連合が出来、国家間の主権が原則的に守られるようになったのです。それでも今日のウクライナやパレスチナ、中国の領土の紛争は悲しい戦争を引き起こすのです。
 三浦綾子の反戦的な平和主義は、正に、体験に基づく平均的な日本市民感情でもあるのです。「石ころのうた」での様々なエピソードの中に、危険思想者として白眼視されている文珠分教場の町の鉱夫Eの存在がある。(P310)。ある日綾子は療養所から探し物の為に家に帰るのであった。そして箪笥を探していると、引き出しの敷紙の下に手紙があった、それはEからの手紙であったのです。その一節に「人間は、わかるべきことを、あまりにもわからなすぎる。」とあり、綾子は7年前にその手紙を読んでいたのであるが、かつて理解できなかった事がはっきり理解できたと思った。(見えなかったものが、今はっきりと見えるのだ)その時、「人が無駄な戦争で死んでいく」と訴える手紙を三度見つめた。7年間の教師生活を振り返り、「天皇の赤子を育てる」その教育目標を真面目に信じ切って生きてきた儚さ、空しさである。「無駄な戦争」に青春の情熱をかけて過ごしたのだ」「その結果得たものは、この癒しがたいむなしさと、肺結核なのだ」
綾子は自分をこの時、「路傍の小さな石ころ」のように感じるのです。しかし、その石ころは、真実の神、イエスキリストと出会って、「このともがら黙さば、石叫ぶべし」(ルカ19:40)というみ言葉を知った。キリストにより、「人間とは何か」の答えを見出し、「人間はいかに生きるか」を知ったのでした。この作品の中には、聖書の言葉は最後の一ヶ所しか出てこない。然し、闘病13年の苦悩の中で迷いつつ、不安の中でおさななじみでクリスチャンである北大の医学生前川正によりキリストの福音に出会う事になるのです。むなしさから真の価値ある生き方に帰られた姿がみごとに証言されています。
 
 エピソードに見る三浦綾子の回想
1、  女学生時代、菅原みきさんという友がいた。旭川に軍隊の要請で出来たと噂される遊郭があった。彼女が兵隊が遊郭に行くのは悪い事と思わないかと綾子に尋ねた。それは川を挟んで一丁ほど離れたところにあった。綾子は小学校4年生頃から牛乳配達を手伝っていた。朝夕その町を通り、少し変わっている場所とは思いながら何も感じていなかった。何をするところで何が悪いのかも知りえなかった。それだけであった。旭川には佐野文子という立派なクリスチャンが廃娼運動をしていた。彼女は迫害され殺されかけた事もあるという事を小学生の綾子は聞いた事があった。
そこで「悪いことだ」と答えはしたが何が悪いのか和らなかった。様々な遊郭の女人が酷い目に会う事も聞いていた。それがどうしてなのかは知る由もなかった。
綾子は「無関心な事は、何と恐ろしい事だろう。」「この無関心はわたしの大きな罪悪のように思われる。」というのである。「何かが欠けているのだ」とも言う。知らないまま菅原みきと共に入り口で兵隊に、「遊郭に行くのはやめましょう」と言うのであるが、兵隊たちはにやにやと笑いながら行くのでした。知らないと言う事と無関心、幼さない思いが、気真面目な綾子の生きる大きなテーマであるようである。(p58)
2、  人の孤独を理解する事は難しい。三浦綾子は小学校の教師をしながら様々な家庭から来る子供を熱心に、誠実に観察し、情熱をこめて教導している、100ページから孤独な子供のエピソードがある。既に「奈落の底」という小説にこの物語を載せている。分厚い在学証明書綴りを抱えて一人で学校にやってくるこの子の姿を不思議に思って見ると、耳の後ろにおしろいがついている。聞いてみると旅回りの劇団の子である。一日、二日と転々と学校を変えて行く生活を知って綾子は驚く。然し、彼女は、此処でも教師は「一人の生徒の背後にある生活には、実に無力なものであると思う」のであった。
綾子にとって子供の教育は、生活そのものを理解する事にあったように思われる。或る時は新入一年生が、入学式にも出席せず、欠席のままである事から家庭訪問をする。その家は、家とは言えない、風がふけばゆらりと倒れそうな傾いた小屋であった。一週間前に風邪で亡くなった骨壺の子供との対面が文章の中にある。痛ましさに胸を締め付けられる綾子の教育者としての誠意は、教育愛に尽きる。そのひたすらに生徒を愛する姿勢の中で「天皇の赤子を育てる」、言い換えれば「天皇陛下の為に死ぬ」事に通じるその価値観が、「国家の為に」となり、人間性否定に通じる。その空しさをその事を「知らなかった現実」を理解した時の虚無感をすべてのエピソードの中で示しているのではないだろうか。
3、  三浦綾子が分教場を辞職し、旭川に立つ日である。学校では堀田先生が辞めるというので、皆がどうしてやめるのかと、寂しさの思いで、先生に群がっていた。その中でIは「先生、本当に止めるの?」と、毎日、次の日も次の日も、別れる前日まで同じ言葉で尋ねては走り去って行った。信じられないのかそれは続いた。とうとう別れる日が来た。駅には400人ばかりの生徒と何人かの親が見送りに来ていた。然し、Iの姿がないのである。別れがつらいのか姿が見えない。砂川まで送るという長田澄子の両親、二人の弟が一緒に汽車に乗っていた。汽車が走り出した。速度を上げて暫く走ると、大曲というところのあたりで一人の子供が大きな風呂敷を棒につけて振っている。澄子の母が「誰か生徒さんが!」と言った。よく見るとそれは来るとばかり思っていたIであった。Iは朝鮮人であったのである。戦後、Iを時々思い出していた。戦争で故国に帰ったかどうか分からなくなった。そして、この書を執筆して後、韓国の週刊誌に頼まれて随筆を書くと、2冊の週刊誌が送られてきた。一冊は自分の分で、もう一冊はこの文を読んで名乗りでたIの文章であったというのである。差別と偏見の時代、様々な理由で日本に働きに来ていた朝鮮人達の苦しみを綾子は人間として、教育者として共有していたのです。(p178)

三浦綾子の教師生活は「7年間、精魂をこめて生徒に対してきたつもりであった。生徒たちを心から愛し、教壇に倒れるなら、本望だと思って生きてきた。その七年間に教えたことが、敗戦によって“教科書に墨を塗る“という形で終止符を打ったのだ。」素直に言われるままに教科書に墨を塗る生徒たちを見て、思わず「乞食になりたい」と思ったというのである。真実を教えるべき教師が、誤った事を教えたその罰は「乞食になる事」だと考えるのです。そして乞食の言う事を人は信じない。教師であるが故に信じるのだ。偽善者である自分は乞食であるべきだという思いは自己嫌悪以外の何物でもない。敗戦という価値観の大変化によって受けざるを得なかった虚無感に、教師としての自負心と自尊心を剥奪されて、影響力の全くない存在としての「乞食」が、さらに全く価値のない「石ころ」が歌う空しさを現わしていると言えないだろうか。然し、「聖書の「このともがら黙さば石叫ぶべし。」(ルカ19:40)とは、神の道を止めさせようとするなら、「石」即ち、死に等しいもの、命の無いものでさえ神は用いて真実を示されるという事であろう。
 一度罪人として死んだ三浦綾子は、今や、イエスキリストを通して神に出会い、人間の真実の存在価値に出会い、新しく変えられ神の栄光のために生きる人として甦ったのです。



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