三浦綾子読書会 レポート
テーマ「泉への招待」
三浦綾子著
廣瀬利男(2014.4.26.読書会より)

「泉への招待」は、作家三浦綾子が1971年から1983年に、生活の中で出会った様々な人との交流の中で、著者の信仰的視点から信仰の反省、聖書の真意の発見など、新しい思いで聖書を命の言葉として共有する喜びを綴った随筆集である。1965年、「氷点」が、朝日新聞大阪本社創立85年、東京本社創立75年記念懸賞小説として当選し、66年から朝日新聞で連載された。単行本は異例の速さで出版された。71万部のベストセラーとなり、映画化され、テレビ連続ドラマなどで放映され、国民的作家として知られるようになった。本来、三浦文学は、クリスチャンとしての自覚の中で、聖書の教える信仰によって生きることの喜びを伝えることを目標としている文学であり、神に仕える「奉仕の文学」である。人が生きるという「生」について問いかけながら、混沌、暗愚、懐疑、悲惨、冷徹といったような、答のない人生を問い掛け、それらに対して信仰の光を当てて真理を導き出すという作風である。1965年、「氷点」の発表に続き、「ひつじが丘」1966年、「積木の箱」1968年、三浦綾子の代表的奉仕文学「塩狩峠」が1968年に発刊される。そして本格的な伝道を目指した「証しの文学」としての、「道ありき」わが青春の記 が1969年に発刊される。続いて「この土の器をも わが結婚の記」1970年、そして「光あるうちに 信仰入門編 」を1971年に発刊する。戦前戦後の激動期、青春を病魔に襲われ、その苦悩の中でのキリストとの出会いを語る。希望の光によって生きる希望と喜びを与えられた。永遠の命への開眼が、人間を生かす根源であり、苦悩をも克服する確固たる福音の恵みと光を、人々に発信する作品集の基礎的な方向性を示している。その間にも1974年に「旧約聖書入門」、1977年に「新約聖書入門」を発刊している。正に、これは「伝道」以外のなにものでもない。1970年より1年1作のペースで作品が上梓される。1974年に「石ころの歌」が発刊される。この作品は、「信仰の祈り」を学び、教える作品であり、心に深く祈る道を教える祈りの指導書になっている。そして次の年には、「細川ガラシャ」の殉教を問う大作を上梓している。このような、初期における著者の作品形成の土壌ともいえる信仰によって、日常のなかでの出来事が随筆となった。これが「泉への招待」である。この作品の題名は、著者が「あとがき」でも書いているように「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)からとっているものでのある。「これはキリストの言葉である。わたしの随筆がまずくとも、この中にちりばめられている聖書の思想や言葉が、どうか読んで下さる人の中で、泉となってほしいと願っての題である。」と言っている。この随筆集を読む人の心のどこかに、キリストの命の泉が溢れる恵みが湧きあがって来るようにという、祈りによる語りかけである。
 この随筆集を読む人それぞれに、心にとどめた箇所が随所にあることであろうが、わたしも多くの事を教えられた。それぞれが読まれて印象に残ったいくつかを報告して考察したいと思う。



◆心にとどめたエピソード◆

1「苦難の意味するもの」(p9)
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(ヨハネ9:1−3)
人生における苦難についての理解をめぐっての問いかけである。著者の人生は、重い病気の連続であった。キリスト信仰における苦難の意味を求め、聖書の示している苦難の意味を問い掛けている。ティリッヒの「神の下さるものに、悪いものはない」という言葉を引用し、「癌も神の贈り物」という言葉について考える。そして、「神のみ業が現れるために」という、盲目に生まれたついた人への因果報応の伝承から、神の恵みによる解放が示されたイエスの御言葉について考えさせられる。聖書のもう一つの側面である繁栄の教えとの課題を問われることになる。

2「広き門」(p16)
 なに不自由のない、裕福な友達との交流。「人生の楽しみとは」「手に入らないものを夢見ることが一番楽しい。」したいことを皆しても、「したいことをするって、それほど幸せなことでもないわ、楽しいことでもないわ。なんだか空しくなるばかりよ。」と言う友達、著者は信仰に入って「広い門」を問い、「狭い門」に道を見出す。友はしたい事をする「広い門」しか生きられないと言う。別れて翌年、自殺で生涯を終わる。生きるとは何か?

3「謙遜は栄誉に先立つ」(p49)
 アメリカの田舎の町にレストランを開いている若い母親がいた。その母親には可愛い男子がいた。その子にある日のこと小包が届いた。立派な聖書であった。その扉には大統領ジョ−ジ・ワシントンの署名がされていた。どうしてだろうかと母親は思ったが、ハッと気がついた。数日前に男の子がお母さんに「聖書を買って、聖書を買って」とねだっていた。母親は思わず、忙しいので「そんなにうるさくすると、あす大統領を見に街へ連れて行ってあげないからね。」と言った。男の子は、「大統領を見に行かなくてよいから聖書がほしい。」とねだるのであった。その時、数名の客が店にいた。おそらくそこに大統領一行が居たに違いない。大統領は敬虔なクリスチャンであり、日々聖書を読んでいた。従者に子供の名前と住所を聴きとらせたに違いない。大統領なんかに会いたくない、聖書がほしいという言葉に偉大な大統領は感動した。「謙遜とは自分をただの人間と認めることである。」クリスチャンの品性、御霊の実の中核は「謙遜」である。それはイエス・キリストの中心的な品性であると言える。人の偉大さは謙遜にある。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6―8)

4「飢えの恵み」(p75)
 綾子さんが作家としてデビユーして、様々な所へ講演に出かけ、豪華な御馳走にあずかる機会が増えた思い出を、ふと床について思いだされているエッセーである。或る時、ふと、どこで頂いた食事が美味しかったか思い浮かべていたというのである。瀬戸内海の今治教会に招かれた時のことである。昼食は信者さんの好意で、「生す料理」の絶品をご馳走してもらい、たらふく美味しく食べたというのである。そして夕方7時の講演前に未だお腹がいっぱいであったので、終わってから食べようということで食事を後回しにした。ところが講演を終えてホテルに帰ると、時間が遅くて食事は出来ず。町にも何もなく、どこかでおむすびでも買いに行こうとすると、ご主人の光世さんがもう遅いから一晩ぐらい食べなくてよいと言う。そうすると綾子さんはいよいよ食べたくなる。朝食は摂らない習慣で、昼食一食ではもたないと思い、出かけようとすると榎本先生が、「わたしの家に行きましょう」と言って下さった。光世さんは行ってはならない、御迷惑をかけるなと言う。そうすると、俄然、綾子さんはお腹がすいて食べたいと思う。そこで榎本先生のご厚意に甘えて行くことになった。奥さんがいそいそと手際よく味噌汁を造り、残っていたさつま芋の煮ものや梅干し、のりを出して下さった。なんとそれが美味しかったことか、こんなにおいしい食事を味わったことがなかったというのである。「空腹ということは素晴らしい。全ての味を完全に味わわせてくれるからだ。」と。「義に飢え渇いている人は幸いである」という言葉がよみがえったというのである。霊的に正しく空腹なものには実に完全にその御言葉の意味を味わわしめ、力づけてくれるのではないかと言っている。
 ドイツには、「空腹は最大の料理人である」と言う諺がある。欠けたるは必要を自覚させると言える。

5「初めての祈り」(p93)
 収監されている息子の回心を祈るクリスチャンの母の祈りの要請を綾子さんが受けたエピソードである。同じく収監されている人が、「死刑の確定」を恐れて、「死刑が確定した。死ぬのは嫌だ。」と叫んだ。彼は「何を言うんだ。天にはイエス様がいるから全然怖くはないよ。」と言ったとの事である。そこにいた片方の一人、Kという人が、(殺人未遂)「祈りを教えてくれ」と言った。お母さんの祈りを思い出し、まねをして祈った。死刑囚は涙を流してこっくりとうなずいたというのである。死の恐怖におびえる死刑囚に「天にはイエス様がいるから怖くはない」ととっさに言い、母親の祈りを思い出して祈ったのである。「私は信者でないから祈れない」とか言わないで、祈ったことのない彼であったが、母の祈りを思い出して祈ったのである。自分も未だクリスチャンでないのに、相手も信じていないことを問題にしないで、祈った。それは彼の母親の不断の祈りがそうさせたに違いないというのである。この祈りがどのような意味をもつのか、読者に課題を与えている。

 この随筆集の一つ一つに、人が生きる上での様々な経験の中で、解きえない課題であっても、信仰に生きることによって解決の糸口がある事、また平安と安心への道筋を提示している。しかし、なおそこに、互いに考えさせる課題の残滓が深い思索へと導き、更に、深い祈りへと導くことになるのではないだろうか。


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