三浦綾子読書会 レポート
テーマ「千利休のその妻たち」上下巻
三浦綾子著
廣瀬利男(2012.7.28.読書会より)
三浦綾子の作品「千利休とその妻たち」を巡ってどのような視点で鑑賞するか。

文学の性質の分類は時代と共に変わる。読書を意識しないで著者の思想や主観で作品構成する視点と読者の意図を配慮、意図して作品構成する文学との分岐で純文学と大衆、通俗文学を分けるようであるが、現代では小説本来の読者数の増減の変化によって区分けする意味が薄れて生きていると言われている。
三浦文学は、本来「証の文学」として知られ、クリスチャンとしての視点から作品を構成されている。信仰は人間が生活で経験する中で、ある時には矛盾や懐疑、破滅と困窮にさいなまされることもテーマにする問題提起の創作でもあり、そこに人間とは何かが問われ、生きることの意味を問うているのではないだろうか。人間の諸般に於ける生きざまの中で信仰の肯定性を前提にし、否定性、懐疑性への応答の道を開こうとする作品ではないだろうか。その意味で「証の文学」と言うのであろうか。
「千利休とその妻たち」は三浦綾子の約30年に及ぶ創作活動の中間になる1980年の作品である。「細川ガラシャ」や「海嶺」など歴史小説の作品は多くはない。しかし、綿密な資料調査をもとに時代背景を構築して時代背景の思想、文化に流れを把握して時の流れを見事に三浦綾子の視点で描き出している。文化の精神性が「茶の道」として確立して行く変遷を描き、権力構造の身分と富の相関の中で「茶道」の芸術文化の優劣の錯綜する現実を描いている。
作品の題名が「利休の妻たち」となっていることを見ると、ともすれば「利休」を描こうとするのでなく「その妻たち」を中心に構成の焦点に見ることが出来る。その第一は、武家の家系と商家の身分の相克が千宗易の妻,“稲”との間の中で描かれている。三好長慶の異母兄妹の“稲”は、武家の支配階級へのプライドを持っていた。父は三好元長(阿波の国領主、細川晴元の重臣)であり母は商家の娘であったが、側室となり“稲”が生まれる。武将に嫁ぐことを思いながら、堺の豪商、魚屋、田中与四朗、号は宋易に嫁ぐことになる。堺は戦国時代に戦国大名に支配されずに独自な自治を行い、貿易で栄えた国際都市となっていた。豪商は栄え、豊かさは文化の咲くことになり、京の都に匹敵する文化の発信地となっていた。宗易は店の跡取りとしての品位や教養を身につけるために16歳で茶道の道に入り、当時の茶道第一人者、武野紹鴎の弟子となり23歳で最初の茶会を開くと言う才能を発揮する。豪商として茶人としての名声や仁徳にもかかわらず、妻“稲”は、心の中では兄長慶を見比べては宗易へのこだわりを捨て切れずにいる。家庭的には一人息子に三人の娘がいる。至って表向きは円満である。あらゆる面で満足しながら、気位の高い武家の血を誇り、宗易へのこだわりを持っている。妾腹の身であることのしがらみから解放されない。時変わり三好一族が松永久希の反逆で滅び、また、彼も信長に滅ぼされるまで呪い続けるのであった。このような背景の中で宗易は、宮王の妻、“りき”と出会い恋するようになる。長慶に請われて狂言演者として阿波にわたる。そこで病死する。“りき”は長慶や実休(長慶の弟)などの所望を断り、実休から堺の宗易に“りき”を預かる要請を受ける。その流れの中で、“稲”は宗易の女性遍歴を克明に実休に手紙を出す。突然、“りき”を宮王家に預けると言ってくるので真偽を糺して、宗易はその手紙の件を知る。そのやり取りの中で宗易に詳しい女性遍歴が書かれてあった。“稲”が何も知らないと思っている宗易は驚き、戸惑うのであった。当時の財力のある者たちにとっては妻妾は多いことがステータスであった。堺の商人たちも習わしでもあった。そのような道徳観の時代である。宗易も15歳にして子をもうけ、その女も一人や二人っではないのであった。この事を知らないかった実休は「お主ばかりは、なんとのう女を超越した男に思っていたのじゃ。」と言う言葉に宗易は「女を超越出来る男はおりませぬ。」(100p)と言う。この作品の最後は“りき”がキリシタンになり側室であることを「姦淫」としてその道を守ろうとする。今作品のテーマの一つとして男の性と原罪を提示しようとするのではないだろうか。茶道に打ち込む崇高な茶聖宗易の中に誰も欲情やこの世の富を超越して生きていると映る。しかし、人間の実相は極めて偽善的であることを示している。
この作品の指し示している茶道を巡る宗易の生涯を茶道の芸術性と文化を構築する権力の精神性を明らかにしようとしている。そもそも茶を飲む習慣は平安時代に遣唐使が中国茶をもたらしたことに始まると言われている。当初はお茶は嗜好品と言うより薬として考えられて必要量を煎じて飲んでいたようである。抹茶は鎌倉時代に禅を伝えた道元や栄西によって薬として持ち帰られた。禅宗の広がりと共に精神修養的な要素を強めて広がり、茶の栽培が進むにつれて一般の人々にも普及して行った。、室町時代には飲んだ水の産地を飲んで当てると言う「闘水」と言う遊戯があって、それがお茶の銘柄を言い当てる“博打”が行なわれた。そして、唐の茶器がもてはやされて、大金を使って集め、大名が盛大な茶会をすることがはやり始めた。これに対して一休和尚の弟子であった村田珠光は「人間の成長」を茶の湯目的として茶会の儀式的な形より、「茶と向き合う者の精神的を重視」し、大部屋で心が散ると考え、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが茶室に発展していく。珠光を心の弟子とする武野紹鴎は宗易の茶の師であるが、村田珠光の説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)という禅思想を取り入れて茶器や用具が華美にならず、簡素化に努め、精神的充足を求めて「詫び」(枯淡)を求めた。利休は師の教えをさらに進め、茶道具だけに留まらず、茶室の構造、点前の作法、茶会全体の様式におよび、当時は唐の茶器が中心であったが、独自の楽茶椀を創作し、掛物には禅の精神を表す「水墨画」を選び、削れない極限まで削り緊張感を生みだした。庭の構図、茶室の構造、茶器(陶器)諸道具、作法に至る茶道を大成させた。それは精神性を内実する総合芸術と言えるのが茶道である。
このような茶道の成立経過から、正に、実休が、茶道を通して利休の人格への尊敬と敬慕が“おりき”の件を巡って利休の内面的現実を知るのである。利休は紹鴎から「詫び」についての手紙をもらっている。(56p)「『詫び』とは正直、つつしみ、奢らざること」と教えられている。利休は茶の道を極めながら、果たして“稲”に正直であったろうか。隠し、偽り、見せまいとする心の葛藤を持ちながら、“痛み”を感じない自分を見せている。
利休は茶の道は宗教であると思っていた。“おりき”がキリシタンに入信して利休との関係を実質的に持たないようになる。利休も、その“おりき”の心情を知る会話が続く。聖餐式の様式、葡萄酒を回し飲みする作法に啓発を受ける。同じ、器から、同じ葡萄酒を飲む。そこには人間としての隔たりもなく、差別もない。同じくして茶道の極意の意に通じることを見る。また、「狭き門より入れ」と言う山上の説教の言葉の説明に感動する。謙遜でなければ天国に入れない。茶の道、その茶室への入り口こそ、この世を離れ、大名も、庶民もなく、人間として遇され、扱われる道、何ものにも介在されないで、謙遜に茶を楽しむことを見出すのであった。(65p)
利休は豪商であったが、商家を見下げる時代に、茶の道は時の権力者のステータスシンボルとして見られるようになる。大名が茶会を開くには信長が実権を握るようになって許諾が必要になり、大名は、茶会を開くことで自らの地位のステータスをあらわすようになる。信長は、堺の武具商に武具を求めて武野紹鴎を使いを送る。しかし、若年の成りあがり者、信長には断るのである。その決末は紹鴎殺害に終わり、権力者の力の理不尽さを理想と現実の中で茶道は儚く揺れることになる。粗忽な権力者は茶道を持ってその気位を高めんとし、利休は信長の茶頭として茶器を取り仕切り、信長は「名物狩り」で集めた名器を家臣団大名に与えて箔をつけるようになる。茶器がステータスとなり、一城の値に匹敵するまでになる。政権は秀吉の時となり、利休は秀吉の茶頭として仕え、茶の道は武士のたしなみであり、茶会を開くことは自らの権勢のシンボルとさえなっていく。茶道の師匠である利休の弟子になることは大名にとって大きな力でもあった。秀吉は、利休の弟子でありながら権力者である。利休の茶道の思想の相容れない「金の茶室」の創作を命じる。このような流れの中で身近な弟子、山上宗二が師匠の心情を垣間見て秀吉の外道に批判的であった。茶道の道を離れる権力者の意のままに受け入れる利休に師匠への妥協を出来ないと言う。そして利休も宗二の気持ちを分かりながら、妥協する。宗二は秀吉の言葉を笑ったとして逆鱗を受け、死罪を命じられるが、なんとかして追放ですまされる。時、小田原攻めの陣屋で小田原で仕えていた宗二を知り、茶会に再び呼び出される。そこでも秀吉の塹愧に触れ、耳をそがれ、鼻をそがれ惨殺される。正に、茶道の殉教者である。
その後、秀吉はキリシタン禁令に踏み込む。利休は権力者の茶頭として秀吉に近くつかえ、広く大名の茶道の師匠として、秀吉の信任により政治(まつりごと)の裏方を務め、三成が表向きを支えるようになる。三成との確執、秀吉の華麗好み「金の茶室」の造営に絡み利休は本来の茶道からそれることを懼れる。自からの美学で創形した「黒茶碗」を用いることによって秀吉の怒りを買い、利休を疎ましく思うようになる。本能寺の事件で名品の数々の茶器を喪失して後、利休の見立てで品の評価が付く権威が出来、大きな反目となる。そのような事態の中で大徳寺の金毛閣の寄進への感謝として住職の古渓和尚がその山門の二階に安置したことに発し、側近の讒言などもあり、利休は蟄居を命じられ、やがて切腹を命じられる。様々な要因の結末ではあるが、利休にとって「詫び」の道を求めて人のあるべき姿を茶道に確立し、いまだ「不足の美」の中で自らの 死と生の悟りを見出し得ないでいる。そして、娘お銀の秀吉の側室への召喚に、キリシタンとして応じられないお銀の死と言う出来事などが重なって来る。様々な有力大名の取りなしなどを利休は拒み、自らの生きる道を求める。“おりき”は利休の困窮の中でガラシャから受けていた「キリストにならいて」の役本「こんてむつすむうん地」を通して天国への道、この世の生への(288p)思いを“おりき”の信仰の言葉に導かれる。「旦那様、天主(デウス)はこの世の人一人の姿をしかと見ていて下さるのでござります。まことにこの世を司る方が、何もかもご存じであられると知りましてより、りきは心が安らいだのでござります。滅びゆく者には決して望みを置いてはなりませぬ。」「わかった。わかったぞおりき。わしもそなたのゆく、天国とやらに行けるかのう。」「参れますとも、旦那様、ただじぶんを小さなものと思い、天主の前に懺悔をいたしましたなら、必ず、天主は受け入れて下さるに違いありませぬ。」「そうか、おりきにとって死ぬと言うことは・・・」「はい、天主のもとに参るということでござります」
利休は、切腹の使者を待ち、茶室を整え、湯を沸かし、最後の死での茶会の準備をした。香が焚かれていた。それは信長からの拝領のものであるが東大寺の正倉院から削り取った東西随一の香「蘭奢待(らんしゃたい)」であったという。死の前に、極めつくした茶の道を死を告げる使者に差し出す利休の心境、理不尽な死の宣告をしなければならない使者の思い。その中で茶室と言うこの世を越えた人間性の回復を求めた利休の世界があるように思われる。
権力の狭間で芸術、文化としての茶道の精神性、見極める「道」、人のあるべきっ道を越えて行く真理の道としてキリスト信仰こそが普遍的な道であることをこの作品は提示しているように思える。


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