三浦綾子読書会 レジメ
テーマ「母」
三浦綾子著
(2013.2.9.読書会より)
小林多喜二をめぐって

三浦綾子の文学は「奉仕の文学」であり、又「証しの文学」とも言われる。「母」の“あとがき”に夫の三浦光世さんから「小林多喜二の母」について書いてほしいと言われて困惑を覚えている。共産主義も縁遠く知らないとある。おそらく、キリスト教とは大きく隔たりを覚えていたのであろう。しかし、光世さんの「多喜二のお母さんは受洗した人だそうだね。」という言葉に引き付けられた。クリスチャンになった人についてならなんとか書けそうだと思うようになる。 “同じ信仰をもつ人となら生きる視点がわたしと同じだから書けるかもしれない”(p175)と述べている。三浦綾子はキリストの福音に生きるという設定の範囲で書き、イエス・キリスを証しする、即ち、奉仕をする姿勢が貫かれていると言える。「奉仕」とは三浦綾子にとっては、「キリストを証し」することにほかならない。言換えれば、三浦文学は身近な日常的なことの中に福音の焦点を当て、歴史の出来事としての大きな記録である、「細川ガラシャ」や「海嶺」「千利休の妻たち」などの歴史小説にも同じ照準とウエイトをもって「福音の宣教」、即ち、「証しの文学」を貫いている。三浦綾子は生きること、人間の実存の闇は、神との出会いによって開かれるという事を伝えるという使命に立っている伝道者であると言える。人間の生きるうえでの苦悩、悲劇の闇、納得しえない義憤の混迷などの矛盾の提起に終わるのでなく「闇」から「光」へ、解放と救いへと神の言葉「聖書」を通して指し示すのが三浦文学ではないだろうか。
 「母」は小林多喜二の母86年の生涯を、たどたどしい東北の秋田弁で“語り部”の様式で構成している作品である。字の読めない母、セキは13歳で極貧の家庭へ嫁ぎ、7人の子供を出産する。幼少の子との死別、大家族のおりなす生活の中にあっても、彼女の優しさと明るさが描かれる。父親、末松の兄慶(よし)義(ぎ)は投機癖があり、そのために家財産を崩壊させ、出奔する。悲惨な家を末松は継ぐ。そこへ多喜二の母セキは嫁ぐ。家族の貧しい生活の中にも争いや憎しみはストーリー中一片たりとも語られない。母親の描く愛する家族の姿であろうが、素朴で無教養あるが、母の人間性の原点というような愛による忍耐と優しさ、思いやりに支えられた家庭が描かれている。また、慶義の東京から小樽への転身による成功と、弟末松家族への配慮が重要な展開になっている。その恩恵で多喜二は小樽高等商業に学び、初めての給料をはたいてバイオリンを目指す弟三吉に中古のバイオリンを買ってやる。そして多喜二と娼婦ミツの出会いと解放の可能性へと道は開く。貧しさの中でも多喜二は絵を書き、ある時は画家を夢見る。そして、時を惜しんで小説を書くことに没頭する。
解説者、久保田堯があとがきに「石ころの歌」の著者のあとがきを引用している。「いったい、時代とは何だろうか。自然に出来上がっていくものだろうか。わたしが育った時代。その時代の流れは、決して自然発生的なものではなかったと思う。時代の権力者や、その背後にあって権力を動かす者たちが、強引に一つの流れを作りその流れに国民を巻き込んでいったのだと思う。そして、その為に、どれほど多数の人命が奪われ、その運命を狂わせたことか。」。小林多喜二が生まれた1903年は日露戦争の時であり、当時はロシアでは専制的王政への民衆の不満がきっかけとなって、大正7年にロシア共産主義革命が起こり、コミンテルンによる国際化の影響などから、日本でも皇室の否定や無政府主義、共産主義への規制弾圧が「治安維持法」となって形成されることになる。当初は限定的であったが、大本教の弾圧と共に言論、結社、宗教、思想の統制に拡大されて行く。急激な資本主義経済化の中で飢饉よる米騒動は社会不安と大衆社会運動の隆盛を促す歴史的な流れとなる。西欧のアジア・アフリカ・南米大陸への植民地の国際紛争の流れで、日本は軍国主義の道を進み、国外では侵略と国内では大衆の民権弾圧が続くことになる。
 明治維新から西洋の国家観に学び、皇室の位置づけに基づき、憲法を制定し議会制を目指して普通選挙が執行されのが1925年(大14)であり、同時に治安維持法が制定されている。明治以来3回の飢饉が襲ったが、大正7年の不作による飢饉が深刻な一揆となり大衆運動が起こり全国に波及する。体制崩壊への危惧が重なり、思想統制や皇室体制擁護のもと大正の民主化は挫折に向かい、強烈な思想弾圧が強行された。
 このような時代背景の中で多喜二の「母の物語」は進むのである。極貧の中にあっても“明るく”“優しく”“思いやり”にあふれた大家族、崩れない両親の必死の生活の戦いを見ながら、子供たちが応答するように親を支える姿を語る母の愛が溢れている。苦しみの中にも父は教養を学ぶことを忘れない。一方、字も読めないが子を思いやる母、いたわる夫婦愛が、親を思いやる優しい兄弟姉妹にしたのではないだろうか。そして、多喜二の人間観がタミへの同情と救済という決意を促すのであった。弟、三吉の才能も楽器の購入が壁となっていたのであるが、高商を卒業して銀行に入り始めて月給をもらうと、早速、その半分を出してバイオリンを買うのであった。彼はやがて東京交響楽団第一バイオリストとして大成する。
 「母」の作品の主題は何であろうか。母は語る「わだしが思うに、右翼にしろ、共産党にしろ、キリスト教にしろ、心の根っこのところは優しいんだよね。誰だって、隣の人とは仲良く付き合っていきたいんだよね。美味いぼた餅つくったら、つい近所に配りたくなるもんね。難しいことは分からんども、それが人間だとわたしは思う。」(p219)。「人間とは何か?」このことが、小林多喜二の29年4カ月の短い生涯とその家族をめぐる人間の優しさ、明るさを通して問いかけるのがこの作品のテーマであると言えないだろうか。
タミと知り合いになってから多喜二は母に尋ねる「お母さん、人間って何だろう?」、母は言う「『お母さん、人間は、物でもないんだ。もっと貴いものなんだ。それを売っただの買っただのして、よいもんだろうか。金の力で、いやだという女を、男の思いのままにして、いいもんだろうか。』わたしはね、本当の話、貧乏に生まれたら、売られてもしようがないんだなと、小さい時から思って育った。多喜二のように、人を売ったり買ったりすることは悪いとは、気がつかないで大人になった。売られたもんは可哀そうだ。運が悪い。そんなことしか思わなかった。けどねえ、多喜二に言われてみて、“人間は尊いものだ”、金で自由にしてはならんもんだ、ということが段々のみこめてきた。」(p99)。多喜二はタミへの単なる好意だけでなく、あわれな女性は小樽にも何百人もいる、日本中にどれほどいるのか。「人間が遊び道具、冗談じゃない。たった一度の人生だよ、お母さん。その人生を泣いて暮らす女がいる。」(p100)多喜二は弟妹にも言って聞かせる。タミを救うには当時のお金で500円いる。(千円で家が買えた時代)すでに銀行に勤めていた多喜二は二百円のボーナスをそれにあてて良いかと母に尋ねる。母は心よく同意するが足りない。銀行の高商の一年先輩の島田正策に頼み、快く受けてくれる。何とか工面してタミを自由の身にする。彼は、常々、タミに本を貸していた。そして母によく言うのであった。「あんね、母さん。タミちゃんは、もっと人間とはなにかっていうことを、勉強しなければならん。人間にはしていいことと悪いことがあると、みんなが分かった時、本当の意味でこの世は変わる。不幸を生き抜く時、人間は幸せになる。不幸に押しつぶされてはならん。」(p102)彼は言う「闇があるから光がある」聖書の言葉(p103)。彼は、伯父の慶義がクリスチャンになっていたこともあって高商時代に教会に通い聖書を読んでいたのであった。
 多喜二にとって人間とは「自由」であることに尽きるのであるが、その「自由とは何か」を問いかける。好きであればタミを自由にしたのだから結婚すればいいと母も弟妹もいう。しかし、多喜二は「男と女は互いに自由でなければならないんだ。自由な身でつき合って、それで結婚する気になったら、結婚すればいい。とにかく今のタミちゃんに結婚を申し込むのは。金で女を買うのと同じことになる。おれはそうしたくないんだよ。わかるだろう、お母さん。」(p109)と言うのである。彼は、タミを人間として認めてこそ真実の自由があり、愛が成り立つと考えていると言える。タミを自分の家に迎え入れないで、家を借りて住まわせる。しかし、近所の人々の目はうるさく、多喜二は女の人を囲っていると言われると、家に部屋をしつらえて家族と共に住まうが、同棲はしないのである。家族として迎える母と弟妹の優しさが浮き彫りにされている。
 多喜二は高商時代から忙しい伯父の事業を手伝いながら読書に没頭する。そして小説を書き始めるのであった。それは卒業して銀行に勤める中でも続けられていく。彼は自伝の中で「私は勤めていたので、ものを書くといってもそんなに時間はなかった。いつでも紙片と鉛筆を持ち歩き、朝仕事の始まる前とか、仕事が終わって皆が支配人の所で追従笑いをしている時とか、また友達と待ち合わせている時間などを使って、五行、十行と書いていった…私はこの作品を書くために2時間と続けて机に座ったことがなかったように思う。後半になると、一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の(拷問の)場面だった。」と書いている。1928年、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党(無産政党)の活動に危機感を抱いた政府(田中義一内閣)は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。日本共産党(非合法政党の第二次共産党)、労働農民党などの関係者約1600人が検挙される事件が起こり、特高警察の残虐きわまりない弾圧が起こった。この事件を始めて徹底的に暴露した小説として世間の注目を浴びた作品が『1928年3月15日』である。これによって彼は特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。特別高等警察による拷問の描写が特高の憤激を買い、後年の拷問死事件へとつながったといわれる。翌年、26歳の彼はオホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表する。蟹工船は過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、虐げられた自分たちを解放しに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、この作品で彼は大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にした抵抗の物語は、ひろく一般の文壇からも認められ、読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推されたのであった。しかし、天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』と共に発禁処分を受けてしまった。また、銀行からは解雇通知を受け取ることになる。
 彼は、しえたげられた人々の苦悩と不条理な政治の激変の狭間で、小説を通して憤然と立ち向かう道を歩むようになる。現代の完全に人権が保障された社会環境では想像もできない当時の社会情勢である。彼は共産党員となって資本主義の矛盾への告発に挺身するのである。彼の作品のように特高警察の残酷非道な拷問を現実に身に受けて、死に追いやられるのである。母は悲惨なわが子の姿に嗚咽する。特高の尾行に母はわが子が何故付け回されるのか苦悩する。多喜二は言う「『母さん、おれはね、みんなが公平に、仲良く暮らせる世の中を夢見て働いているんだ。小説ばかいているんだ。ストライキの手伝いしているんだ。恥ずかしいことは何一つしてはいないからね。結婚するまでは、タミちゃんにだって決して手を出さんし…だから、おれのことを信じてくれ。』そう言ってね、わたしが『多喜二のすること信用しないで、だれのこと信用するべ』って言ったら。嬉しそうに笑っていた。」(p141,2)その多喜二が悲惨な最期を遂げたのである。
 母は、回想する。「多喜二、苦しかったべなあ」「多喜二、せめて死ぬ時だけでも、手を握ってやりたかった」「多喜二,わたしはお前を生んで、悪いことをしたんだべか」慟哭する心の中で多喜二を生んだことへの懺悔と共に苦悩する。多喜二のような親思い、兄弟思いの、貧乏人思いの男が、あんなむごたらしい死に方をするのか。警察がどのような拷問をしても「神様」が止めてくれたに違いない。それを止めない神様なんていないよりまだ悪いとまで思い込むのであった。母は繰り返す。「けど、朝に夕に、わたしのような母親に優しい声ばかけて、死ぬまで家族の生活費のことば心配してくれた多喜二が、あんな目にあわんでもいいべ。いったい誰が多喜二をあんな目にあわせていいと言ったのか、わだしは知りたかった。それが神様だば、わだしは神様などいらない。絶対にいらない。」(p185)この苦悩の中で東京に5年の歳月を過ごし、小樽の銀行に勤める裕福な網元の息子に嫁いだ多喜二の妹チマに呼ばれて小樽に帰ることになる。チマは伯父の慶義がクリスチャンであったことからクリスチャンになっていた。夫は鎮守の宮の総代をしていたが理解があった。母セキもチマに導かれて教会に行くようになる。小樽教会の近藤治義師は字の読めないセキに口移しで聖書を教え、導き、絵本でキリストの生涯を教えた。「イエス様がね、貧乏な目の見えない人の目を開けてあげた話や、足の悪い人ば直してあげた話や、らい病の人を見る間に直した話や、次から次と出て来るの。そしてね、驚いたことに、直してもらった人は、みんな貧乏人ばかりなの。たまには金持ちの人も直してやったけど、イエス様は体の弱い人をばかにしたり、貧乏な人を嫌ったりしないのね。」(p206)イエス様はやがて悪いこともしていないのに裁判に架けられて、苦しめられる。十字架に釘付けにされた。しかし、誰も呪わなかった。呪わなかっただけでなく赦された。むごたらしいイエス様の体を抱き上げているお母さんのマリヤさんの悲しい絵があった。母タキは多喜二が警察から戻って来た日を思い出した。警察たちを「どうかお許し下さい」なんてとても言えない。これを聴いた時に「白黒つけてくれ」と神様に言っていたことなんか言えないと思うようになる。近藤牧師は母タキに優しく語りかける「神様は、正しい方だから、この世の最後の時には、白黒つけて下さる。お母さん安心していいんですよ」(p208)。やがてイエス様を信じ、受洗する。そして葬式はキリスト教でしてくれるように願うのであった。そして、「闇のあるところに光が」という言葉を多喜二がいつもタミさんや弟妹に語っていたことを思い、高商時代教会に行って一生懸命聖書を読んでいた多喜二を回想する。
 人が善意と優しさに生きる。貧しい人の苦しみを背負い、悲しむ人と共にいた多喜二、何故その多喜二が極限的な拷問と苦悩と苦痛の末、死なねばならないのか。母は苦悩の闇からイエス様の十字架のみ苦しみに出会うことの中で癒やされるのであった。
 イエス様の苦悩の姿を通して真実の愛の神様に出会ったのであった。「人間とは何か?」その問いがこの作品の問いかけであり、この作品はその問いへの辿りつくメッセージであるのではないだろうか。読み終わるまでに幾度、涙が溢れ、祈ったことだろうか。
  なんと今日の日本は、人権が守られ、平和を享受し、世界にもまれに見る福祉医療の整った社会になっていることだろうか。しかし、現実には生きることの苦しさがあり、豊かでありながら、格差社会の中で苦悩し、不安定な就職率に当惑する青年達、低迷する賃金、国家は膨らむ財政で極限的な危機にある。デフレ経済のしがらみかみに不安の満ちる社会でもある。新自由主義とグローバル化に幸せを約束する資本主義はデリバリの幻想の中で世界中に経済不安を満ち溢れさせている。共産主義の幻想が破れ、今、勤労の富の分配から、富を持った者の富が幻想の社会を支配する。富を生むのは勤労ではなく、極限的な高等数学でマネー増殖するテクニックが跋扈している。リーマンショックで世界不安が席巻した。全く新しい時代を迎えている。生きる限り苦悩は人からはなれない。
それに挑戦する勇気と希望は人が共に力を合わせて愛し合う心を持ち、犠牲を共有することによってもたらされる。そのことによって、平和と安心が保障される。小林多喜二のしえたげられる弱者への思いやり、「人間とは何か」を問いかけるメッセージは今も生きている。このような現代の苦悩に光と道を求めて2008年には小林多喜二の「蟹工船」が再評価され、再び、五十万部以上のベストセラーとなった。人間にとって「自由」と「共生」は永遠のテーマであり、真実に人を、人として生かしうる解放の道が、あらゆる思想や宗教を越えて苦悩する愛なる神、キリストの福音が示しているのではないだろうか。
三浦綾子の作品「母」は壮絶な息子の人生を通して、読者に希望の光を与えてくれる秀作であると言える。





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