三浦綾子読書会 レジメ テーマ「海嶺」 (2013.9.21.読書会より) 長谷川与志充 師 |
三浦綾子文学講座 「海嶺」 1、「海嶺」とは ①「天北原野」(1974年11月8日~1976年4月16日)に続いて週刊朝日(朝日新聞社)に連載された第34番目の作品。 ・連載1978年10月6日~1980年10月17日 ※帯状疱疹のため1980年5月7日から28日まで入院し、1980年5月30日号から8月15日号まで休載 「連載中、入院し、三ヶ月間休んだ時の、光世さんの真実な看護を忘れません。もしあの看護がなければ未完に終ったことでしょう。」 (「海嶺(下)」の光世氏への献辞、「遺された言葉」より) ・単行本発行 1981年(昭和56年)4月20日(朝日新聞社) ②三浦光世氏と共に世界を巡って書き上げた作品。 「共に祈り共に世界を巡って書き上げた海嶺。その一行一行が二人の祈りの所産であることを改めて感謝しつつ。」 (「海嶺(上)」の光世氏への献辞、「遺された言葉」より) ・愛知県美浜町小野浦 1968年5月 名古屋での講演の後で ・香港、マカオ、小野浦 1977年4月 ・フランス、イギリス、カナダ、アメリカ、ハワイ(1978年5、6月) ③最大の長篇小説 「「海嶺」は綾子の作品の中で、最大の長篇であった。「氷点」は正続で二千枚ほどだが、「海嶺」は続篇なしで千六百枚の大作となった。」 (「三浦綾子創作秘話」三浦光世氏) 2、「海嶺」のメッセージ ①タイトルから 「題名「海嶺」は最初にも書いたとおり、百科事典によれば「太平洋に聳える山脈状の高まり」とある地理用語である。私はこの海嶺という言葉を知った時、ほとんど 人目にふれないわたしたち庶民の生きざまに似ていると思ったことである。たとえ人目にふれずとも大海の底には厳然と聳える山が静まりかえっているのである。岩 吉も音吉も久吉も、それぞれに海嶺であったと思う。」(「創作後記」) 「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。・・・あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」( 詩篇139:13、16) 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、・・・」(イザヤ43:4) ②序章から ・思いもよらない苦難と諦め「武右衛門はまだ四十二だというのに、二年前から神経痛でほとんど床についている。・・・武右衛門は・・・飲んだところで、もう自分の病はなお るまいと、諦めた表情になっている。」(「「開の口」一」) ・必ず元気になる 「音吉は素早くその父の気持ちを察して言った。「父っさまぁ。必ず元気になるでな」(同) ③本文から ・御蔭参り 「音吉も御蔭参りのことは聞いていた。何でも、六十年毎に御蔭参りが流行するという。今年はその御蔭参りの年で正月早々伊勢神宮の札が、日本中に、天から降ったという噂が 立った。御蔭参りの年にはこのお札が降るらしい。・・・このお札の噂が立つと、どこの土地からも、伊勢神宮に五人、十人、二十人、あるいは四十人と、一団になって参詣が始 まる。御蔭参りの特徴は、誰にも断らずに、いつ何時飛び出してもいいということだ。金を一文持たなくても、握り飯一つ持たなくても、この参詣人たちを泊める善根宿や、接待 所が道中に出来る。食べ物も銭も、駕籠も馬も、風呂もみんな必要に応じて与えられる。」(「良参寺」三) 「お蔭でさ、するりとな、ぬけたとさ」(同) 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71) ・どんな事情でも自分を捨てない者(真実な心) 「自分が捨てられていたという松の木の根方に、岩松はじっと立ちどまってあたりを眺めるのだ。そして想うのだ。その時まで自分を抱いていた母親が、赤子の自分をそこに捨て る時の、その姿を思うのだ。・・・いつの頃からか、岩松の胸の中に、色白の弱々しい、二十前後の女が目に浮かぶようになった。自分を松の根方に寝かせる前に、その胸を押し ひろげて、心ゆくまで乳房をふくませたにちがいないと思ってみる。そして、一心に乳房を吸う自分の顔を、涙にかきくもった目でみつめていたであろうその女の顔を、想うこと ができるのだ。(よっぽどの事情があったんだろう)岩松はそう思うことにしている。」(「截断橋」一) 「世には真実な心というものがあるものじゃ。求めていけば、いつかはその真実にめぐり会うものじゃ。」(「截断橋」二) 「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」(詩篇27:10) 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15) ・人生の目的を失う 「重右衛門と岩松が、胴の間まで歩いて行った時、仁右衛門はじめ水主たちも、艫櫓(ともやぐら)にべったりと坐りこんだまま、帆柱の失われた空を呆然と見上げていた。切り 倒すまでは、誰もが懸命であった。だが、切り倒したあとの虚しさが、どんなに大きいものか、誰も想像することができなかった。」(「怒濤」四) 「どこへともなく漂っているだけの今は、何をすることも無駄に思われた。」(「月の下」一) 「敗戦がわたしを虚無に陥れたことは幾度も書いた」(「光あるうちに」(終章二) 「小学校の教師をしていた頃の、あの命もいらないような懸命な生き方とは全く違った、「命のいらない」生き方であった。」(「道ありき」11) ・思わぬ災難と思わぬ幸せ 「この年がどのような年になろうものやら、それは誰にもわからぬ。だがのう、皆の衆ようく聞くがよい。たとえ陸にいても、この年、思わぬことに出遭う人間は数多(あまた)いる。死んでいく者もたくさんあろう。こうして、大海にただよっているからといって、いかなるよいことが待っているか、これまた人間の身にはわからぬことじゃ。思わぬ船が現れて、故里まで送り届けてくれるかも知れぬ。今十日も経てば、花咲く美しい島が現れ、清い水の流れる岸べに臥すことができるかも知れぬ。思わぬ災難に遭ったように、思わぬ幸せに遭わぬものでもない」(「初春」一) 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ- それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11) ・人間とは 「いや、それとこれとはちがう。オトはわしの貴重な財産だ。いや、宝だ。誰にも渡すわけにはいかん」酋長はあくまで言い張った。が、船長は喰い下がった。「酋長、あのオトのために、わたしたちはどんな代価を払ってもいい。この間も言ったように、三人の救出に、全力を尽くせとマクラフリン博士から厳命を受けている」」(「二本マスト」三) 「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記1:27) 「キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。」(Ⅰコリント8:11) ・キリストとは 「一人の教師は更に、箱についていた幕を引いた。背景に峻しい崖の絵が書かれてある。その崖下に一匹の羊がいた。人形芝居である。教師が、その羊を器用に動かしながら、羊の鳴き声を真似た。羊は、峻しい坂を鳴きながらよじ登ろうとする。だが羊は、上りかけては、すぐに谷底にころげ落ちる。教師は、「かわいそうな羊、この羊は大勢の仲間から外れました。仲間は九十九匹いるのです。この迷い出た羊を入れると、羊は全部で百匹でした」ゆっくりと、子供たちにわかるように教師は話していく。羊は悲しそうに鳴く。やがて、遠くから羊を呼ぶ声が聞こえてくる。羊はその声を聞いて大きな声で鳴く。鳴き声を聞きつけて、峻しい崖を一人の人が降りて行く。「この人の名は、イエス・キリストです」と教師が言った。」(「迷える羊」二) 「これで話は終わりかと思ったが、そうではなかった。場面は全く変わって、教師が、「ここはゴルゴタの丘です」と、重々しい声で言った。十字架が立てられ、先程のキリストに扮した人形が、十字架につけられようとしている。・・・十字架にかかったキリストの下に羊がやってくる。何人かの人形が十字架の下に集まって来た。「イエスさまーっ!わたしを助けてくださったやさしい方なのに、どうして十字架につけられたのですか」羊が十字架を見上げて歎く。子供たちが大きくうなずく。教師が語る。「皆さん、どうしてキリストは十字架にかかられたのでしょう。悪いことをしたからでしょうか。いいえ、私たち人間の罪や穢れを取り除くために、イエスさまは身代わりになってくださったのです」(同) ・宣教とは 「ブラウン牧師が別れる時に言った言葉を、音吉は思い出した。ブラウン牧師は言った。「わたしたちは、ジーザス・クライストの神を伝えるためにこの島に来ました。いつか日本にも、わたしたちの仲間が行くことでしょう」・・・牧師というのは不思議な仕事だと思った。(どうしてよその国まで行くんやろ。どうして自分の国に、じっとしていないんやろ)」(「椰子の木の下」六) 「私はギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:14~16) ・聖書翻訳とは 「尚も火を吐く砲口に、久吉はたまりかねて叫んだ。その声を聞きながら、岩吉は思った。(・・・わしは、生みの親にさえ捨てられた。今度は国にさえ捨てられた)・・・やや経ってから、岩吉はぽつりと言った。「・・・そうか。お上がわしらを捨てても・・・決して捨てぬ者がいるのや」その言葉に音吉は、はっとした。(ほんとや、ハドソンベイ・ カンパニーのドクター・マクラフリンのようにわしらを買い取って、救い出してくれるお方がいるのやな)」(「ああ祖国」十七) 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:27、28) |