三浦綾子読書会 レジメ
テーマ「この病をも賜として」
(2013.6.22.読書会より)
廣瀬利男

三浦綾子は生涯に90冊近い(著作業績“ウイペキア”83冊)本を出版している。文庫本,全集を加えると160冊になるという。(p292)その生涯において作品と業績への顕彰をあわせ、6回の賞を受けている。朝日新聞の一千万円懸賞小説に「氷点」が当選したことは、特に有名である。当初、作風が通俗的であるということで文壇での評価は低く、またキリスト教信仰が根底にあるということで大衆文学界でも評価を受けることが難しかったと言われている。しかし、三浦綾子はキリストに出会ってクリスチャンになったことの真実の意味を体験し、人間の実存的出会い、その人間の中心に「愛」の実像を見る。そこに神と断絶している人間の悲劇としての原罪を浮き彫りにする。三浦文学は信仰によって逆境を乗り越え、神の愛と命、光、力を証しする情熱が全作品に貫かれている。三浦綾子自身が回想しているように、1980年「女性小説」の選考委員となったが、(朝日新聞北海道支社主催「らいらっく文学賞」変更)選考委員の評価は主観的であるといわれ、人によって評価は大きく分かれることとなった。三浦文学の関連刊行は単行本900万冊、文庫本1900万冊、総計2800万冊に上る。(p133)「氷点」を始め数冊が13カ国語に翻訳されている。 ともあれ、三浦文学は読者に第三者として作品を鑑賞させる領域から、作品の問いかけに決断させるという選択が提示されているのではないだろうか。三浦綾子の小説、エッセイを通してクリスチャンになる人が後を絶たない。三浦綾子の文学は「奉仕の文学」「証しの文学」と言われる由縁である。
 戦前戦後の価値観の激変する世相の中で綾子は青春期を過ごし、戦後開かれた世情になっても結核性カリエスという病魔に侵され、闘病の苦渋を強いられる。カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、1999年10月12日に多臓器不全により77歳で召されるまで著作活動は途切れなかった。
 「この病をも賜として」は、1994年に刊行された。この原著は「信徒の友」に「生かされてある日々」というコラムとして1989年から‘92年まで連載されたものであるという。その後、「難病日記」‘95、「続生かされてある日」を継続して8年、1999年10月に召される。この作品は三浦綾子の晩年の集大成的な日記でありエッセイである。出来事を通して過去を回想する流れであり、幼年期から友人縁者の名前やいきさつを克明に記録している。病身でありながら聡明な記憶と、いきさつの整理を回想する明晰な頭脳の働きに驚愕する。人は老いと共に記憶が薄れると言われる。しかし、エッセイの文の背景には、温かいキリストの愛と優しさに満ちた洞察の目があることが解る。そして精緻な出来事と人間関係を構成する文章の背景には、夫君の光世氏に細やかで行き届いた支えがあったことは、この作品の中に重ねて記している。
 読者は、「この病をも賜として」にあるそれぞれのエッセイを通して、人の生きるべき姿を学び、教えられ、逆境にあっても心豊かな人生を送る糧になればと願う。
 このエッセイ日記を書きながら、並行して小林多喜二の「母」と「銃口」の大作を執筆されている。敬服する創作意欲。使命感に生きる三浦綾子ある。

「この病をも賜として」読書の感想のポイント

1、 ○月○日 「使命」と言う字は、命を使うと聞いた。その人なりにひたすら生き
る。美しいことだ。先日、ライフラインで柏木哲夫氏(金城学院大学学長)が、三浦綾子さんから「命を使う」と言うことを聞いて感銘したというトークあり。
2、 ○月○日 星野富弘展覧会をめぐって。体不調、テープカットが出来ない。午後
会場に駆けつける。星野さんが車いすから落下して肩を打って頭をいくはりか縫う。全身不随の星野さん、大事なく退院するも不動の身体で心配する。TELするも明るい声で「良い時に神様は、わたしを警告して下さった。感謝です。」
運が悪いとも、愚痴らしいことは一言ない。誰かのせいにしてもよいような状況さえ、そうしない人。それが星野さんだ。人々の心を奮い立たせる力は、こうした神への全き信頼から生まれるに違いない。(p20)
3、 ○月○日カトリックのシスターで岡山ノートルダム学院の院長でエッセイスト渡
辺和子の言葉「置かれたところで咲きなさい」。神への信頼なくして出せない言葉である。父、渡辺錠太郎氏は昭和11年2.26事件の渦中にあって教育総監として、高橋蔵相、斉藤内大臣と共に暗殺され、9歳の渡辺和子師は目の前で殺害される悲劇に会う。この 言葉に意味の重さに感動。(p21)
4、 ○月○日「敗戦記念日」という忘れがたき苦悩の日。朝刊(2紙とも)を見ると
見落とすほどの記事。なんとも釈然としない。戦死した家族を思い出す。軍国主義の教育を進めた苦々しい、誤った生き方を深く思う。(p27)戦争裁判の記事、中国での悲惨な言い訳、「上官の命令だから」「戦争だからしょうがない」、侵略戦争を侵略と言ってはならないのか。もと兵士たちは謙遜な悔い改めの文章を綴るようになる。「謝罪のないところに赦しはない」(p28)
5、 ○月○日胡美芳さん「愛、そして愛」の出版に綾子さん序文を書かれたお礼に
名寄の教会に来た帰りに藤田克裕師に送られて来旭。「夜来香」はどんな歌かと聞くとすぐ歌ってくれた。プロはこのように歌わないのに朗々と歌ってくれた。感動する。愛のある人だと思う。(p34)
6、○月○日旧約聖書、ロトの妻の話を読む。今日、わたしの胸を強く打った。罪
から命がけで逃げなければならないのだ。罪に対して曖昧に生きている。(p43)
7、○月○日「銃口」の資料調べで昭和初期の小学校の3年生の教科書、「大日本、大日本、神のみすえの天皇陛下、我ら国民七千万を、わが子のように,おぼしめされる。」「天皇陛下を神と仰ぎ、親とも慕いてお仕え申す」「…神代この方一度も敵に、負けたことなく、月日と共に、国の光が輝きませる」とその後、「国体の本義」によって「天皇は神である」と子供に教るようになる。なんともいえぬ複雑な気持ち。(p46)
8、○月○日「神の形」創世記1:27に人は神にかたどって造られた。とあるが「神が人間の形をしているものである」と入門書にあるが。伝道者に尋ねる。綾子はピリピ書2章を取るという。光世氏は「形は形象のことか、具象のことか、心象のことかいずれにせよ『われら知るところまったからず。』」と言う。(p50)
9、○月○日「先祖の祟りがあるから,この塔を祀っておきなさい。」先祖が祟ることが不思議?(p53)
10、○月○日光世氏40周年受洗記念日、40年前その日は旭川は雪であったそうだ。7キロの道を自転車で行ったという。腎臓結核で後遺症の膀胱炎で苦しんでいる時。「神はわれわれに苦しみを与えたもう、それが実に、自分に人生にとってなくてならぬものであることが多い。」と光世氏は言う。「苦しみに会いたるはよし腎一つとられてキリストを知りて今日あり」光世詠歌。
11、○月○日ぼけ防止の夫婦愛、きめ細かな光世氏の行き届いた介護、受ける綾子の喜び、愛のある「ぼけないためにの125章」。三浦文学は綾子の口述、夫君の筆記による。相当な速さで正確に筆記されるようである。布団の上げ下げ、家事一切、朝起きれば1時間、みっちりマッサージをしてあげる。感服。(p78)
12、○月○日長崎市長の狙撃事件を通して、少女時代の回想。女学校4年、16歳の時、初めて教会に行く。教会に行った理由は、皇居遥拝を教会でもしているのだろうかということであった。その教会はしていた。宜しいと満足して帰る。何と恐ろしい時代であったのか。その後、天皇は「わたしは人間である」と宣言された。再び変わらないだろうが。(p80)
13、○月○日冤罪と無罪への可否。(p90)
14、○月○日祈りの夫、一日に200人、300人の人々のために祈る。(p197)
15、○月○日、妻のために生きる。優しい、親切、誠実、偉い人、一生の半分を妻のために生きる。頼むと仕事もそっちに優先してくれる。「ごめんね」「イッツ マイ プレジャー」と言う。(p198)
16、○月○日「主にあって喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」ピリピ4章考えさせられる言葉である。大変重い言葉である。(p206)
17、○月○日「足が動かないのよ。ちょっと出して下さい。」(これが今年の、神様からのクリスマスプレゼントかも知れない。)
「わたしが自分に下さる神の賜を、従順に受け止める力が与えられますようにと、ひそかに祈った。」(p276)

おわりに
「綾子は、他人のした良いことは、小さなことでも次々と書いたり語ったりするが、自分のした良い事は、決して語らない人で、その生き方は最後まで変わらなかった。」最初の秘書をした宮嶋裕子の言葉である。三浦綾子はキリストの証し人であり、愛と献身の人であった。現在、塩狩峠の駅の前にある塩狩峠文学記念館になっている家は、綾子が最初に旭川で住んでいた家である。その家は風呂もなく、旭川の極寒零下20度の道を銭湯に通う体の弱い二人を思うと切ない。「氷点」が1千万円懸賞に入選するが、その後、7年間は改造しながらその住まいで過ごした。7年目に風呂のあるお客を迎えることのできる広い家を建てた。最初の住まいは、今の「恵み教会」を開拓したOMF宣教団に寄付した。そしてその後、教会の隣の広い敷地を三浦夫妻が捧げ、現在の教会が建てられた。三浦夫妻は時も財も命も、そのすべてをキリストのために捧げ切った生涯であった。光世氏は旭川市三浦綾子記念文学館長である。三浦綾子記念文学館は、旭川市を中心に全国の後援者からの募金と共に北海道から1億円、旭川市から1億2千万円が資金として提供された。三浦綾子は1996年には「銃口」で「井原西鶴賞」、11月には「北海道文化賞」受賞する。1997年5月第1回「アジア・キリスト教文学賞」を受賞し、その年11月には生涯最後となった「北海道開発功労賞」受賞の栄養に輝いた。        栄光在主




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