イエス・キリストを信じた恵みをエッセーに・・・

「ゴスペルとわたし」

梶本ユタカ



  ハレルヤ!! 主の御名を賛美します。
 私の信仰生活の恵みは、主が小さき者である私を教会に導き現在に至るまで育て、非常に多くの愛を注いで下さっている、と言うことに尽きます。また最近特に賛美によって勇気づけられている事を、感謝しています。
教会で大好きな賛美を歌うこともその一つですが、主は「もっと外を見たら」とでも言うように、私が思いも付かない方法で色々な所に私を連れて行って下さいました。
私はあるゴスペルクワイヤに所属しています。そのチームで今年初めてアメリカの教会にゴスペルを歌いに行きました。その中で神様は私に触れてくださり、「主がお入用なのです」と言って下さいました。
 「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。
  あなたがたが召されたのはその召しにふさわしく歩き、
  できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、
  愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、
  聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
  からだは一つ、御霊も一つである。
  あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
  主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
  すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、
  すべてのものの父なる神は一つである。」 エペソ人への手紙4章1節〜6節

アメリカのヤキマという町の合同礼拝の前に、その日のクワイヤーが集まり祈ったときに語られた聖書の御言葉でした。聖霊による一致ということが強調されていたように思いますが、何処にいてもたとえ人種や国籍が違ってもクリスチャンは御言葉によって一つにされ、聖霊による一致が与えられるということを身をもって体験できました。英語の賛美はあまり上手にはできなかったのですが、隣に座っていたアメリカ人の姉妹と片言の英語で会話ができ、感謝をしてその場所を離れることができました。
また、その旅の中で「主を賛美する」ということがどのようなことなのか、もう一度原点に立ち返って教えられました。
 「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」
                                    ヨハネによる福音書4章24節
 この御言葉は私の心の中にストレートに響き渡りました。私は自分のいい加減さを示されたような気がしました。これからは賛美をもっと真剣に歌おう、もっと神様と話をしよう、という思いが沸いてきました。これからはゴスペルというジャンルの賛美を生かしてただ歌うのではなく、人々の心にイエス様の思い、御言葉を伝えて行きたいと思いました。今まで「何もできない。」と思っていた私でしたが、今はイエス様が一緒に居て下さるから、きっと素敵な事が起こるのではないか!と主に期待をしつつ日本に帰って来ました。
そして意外にも早くその機会はやって来ました。あるとき会社の同僚の女性と二人で食事をすることになり、色々な話をする中で今回の旅行の話になって初めて、その旅行は神様が自分に「行け。」と言って下さったように感じること、自分が神様を選んだのではない、神様ご自身が自分を選んで下さったこと、最後に「主がお入用なのです。」と心に迫って来るものがあったこと等を話しました。
それまでの自分だったら、「こんなことクリスチャンでない方に話しても解ってもらえないからやめておこう」とか、「話をして関係がまずくなったらどうしようか」と後のことばかり気にしていましたが、その時はもう話さずにはおれない、(ゴスペルのワークショップで教えてもらったように)どうしたらその人にその感動が伝えられるのかとことに必死になっていました。
幸いにもその人は私のとりとめのない話をとてもよく聞いて下さり、「理解はできないけど、そういうものがあるのは素晴らしい」と言って下さいました。まだまだ未熟者ではありますが、神様、イエス様の話を自然に普通の会話の中で語り続けていけたら、どんなに素晴らしいことだろうかと、思いました。これからも主に全てを委ねて導かれて行きたいと思います。




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