イエス・キリストを信じた恵みをエッセーに・・・

「我々の国籍は、天国にあり」

小川 園子


  
   私は、昨年の1月20日、おばぁちゃん(主人の母、88才)を、9月17日私の主人を、今年の1月20日おじいちゃん(主人の父、92才)を相次いで亡くしました。
1年間に3人の葬式をするというのも、めったにないそうです。
 おばぁちゃんは、認知症で5年間自宅で寝たきり状態でした。介護保険サービスを利用し乍ら、当時はまだおじいちゃんも元気でしたので私も自宅とおじいちゃんの家を毎日通い乍らサポートしておりました。
 おばちゃんが亡くなり、おじいちゃんは毎日「寂しい、死にたい」と訴えるようになりました。
 私の主人は難病で、以前より入退院を繰り返しているような状態でした。「寂しい、死にたい」と訴えるおじいちゃんを放っておく事が出来きませんでした。私はおばあちゃんが亡くなって家の片付け、事後処理の一切をおじいちゃんに代わってしなければなりませんでした。
 そんな中、私の主人が4月に誤嚥性肺炎、腎不全、高カリウム血症を併発し救急車で病院に運ばれ、即入院となったのです。
主人の入院を機に私はおじいちゃんの家に同居することになりました。家事と仕事をしながら入院中の主人を毎朝晩見舞い、おじいちゃんの世話と本当に大変な日々でした。主人が急性期の病院を退院しなければならなくなった時、主治医の先生が「家事、仕事、高齢で要介護1のおじいちゃん、病気で要介護5の主人の介護をひとりでする事は無理です。」と仰いました。
途方に暮れ、誰のサポートもない中ただ神様に「助けて、助けて」と心の中で叫んでいました。あまりの辛さにこのまま電車に飛び込んで死んだらどんなに楽かと思った時、主人とおじいちゃんの顔が浮かび、又神様は乗り越えられない試練はお与えにならない。試練と共に逃れる道も備えてくださる。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)という御言葉が与えられました。
かつてダビデがそうであったように、祈りの日々のなかで神様は本当に逃れる道を与えてくださり、主人は療養病院に転院することが出来ました。朝の来ない夜はない。心の中で疑わず、信じて祈り求めるならば神様は、必ず答えてくださるという事を確信致しました。
主人は転院先の病院で胃ろう造設手術をすることになり、無事に手術も終わりましたが段々と体力が弱り、あまり喋らなくなり、ICU治療室に移った時息子から、ヨハネの福音書1章から17章迄を録音したカセットテープが送られてきました。それを、いつも耳元に置いて聞いていました。主人から最後に聞いていた言葉は「おおきに」という感謝の言葉でした。その言葉だけで15年に及ぶ長い看病が報われたような気がします。
生前に主人は「僕の葬式は、廣瀬先生にお願いするように」と申しておりましたので、廣瀬先生司式の元、天国に旅立った事は幸福だったと思います。本当に、心より深く感謝致します。ちなみに、主人の暗唱句は「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」でした。
おばあちゃんも亡くなり、息子にも先立たれ、比較的元気だったおじいちゃんは気落ちして持病の慢性心不全が次第に悪化し、今年の1月20日のおばあちやんの1周忌記念を済ませた翌日に亡くなりました。
クリスチャンである我々は、キリストに結ばれて離れず、御言葉によって生きるものでありたいし、種々の闘いの中にあっても世に勝つ者は誰ぞ、それはイエスを神の御子と信じる者ではありませんか。聖書に「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Tヨハネ5:4,5)とあるように、勝利を信じてゆきたいと思います。
私はこの3人の死を通して学びました。人には遅かれ早かれ、必ず人生の終りがあります。自分が生きているのではなく、神様に生かされている恵みに感謝し、あの世へ何ひとつ持っていく事は出来ないのですから、天に宝を積む生き方を心掛け、キリストに連なる者のひとりとして「我々の国籍は、天国にあり」この御言葉に希望を持って、残りの人生を歩んで行きたいと思います。




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