聖書のエピソードをもとにかかれたエッセーです

By K. Kakoi

旧約聖書面白散歩

失楽園


 少々、古い言葉になった。渡辺淳一の小説では、妻子のある男性が美しい女性と不倫をし、家庭を壊し、「究極の愛」の形として共に死を計る。

妻子ある男性の激しい恋の代償は男性が棄てた家庭(平凡だが穏やかな世界の象徴)の「楽園」と言うことになるのだろうか。

 元祖「失楽園」で楽園を追われたのはアダムとイヴである。神様が一対の男女のために用意された楽園に住み続ける唯一の約束は園の中央にある「善悪を知る木」と「命の木」からその実を取って食べてはいけないと言うことだった。

ところが、蛇が女を誘惑し、その実を食べさせ、女がまた、男にも勧めて食べさせた。しかし、神様は全知全能の方である。すぐさま、それを知って二人に問い掛ける。「食べるな、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか。」すると男は「女が木から取ってくれたので食べました。」と言い、女は「蛇が私を騙したのだ。」と順々に責任を転嫁した。

これがよくなかった。どうして、「すみません。そのとおりです、約束を破りました。赦して下さい。」といえなかったか。(まぁ、気持ちはよく解るんだけれど)責任逃れをしたことで神様はますます怒り、蛇と男女にいろいろの言葉を与えて、エデンの園を追放する。

「約束を破ってはいけない」当たり前である。しかも神様との約束である。小説「失楽園」で私がひっかかったのはここであった。結婚とは神と人とのまえに一生を共にする約束をすることである。

主人公の男性が結婚式を何式で挙げたのかは知らないが、一度、神の前に誓ったものを破ってはいけない。約束したら守る努力をするべきであると私は思うのだ。その努力を忘れて、“激しい恋”“本当の恋”といくら銘打っても、利己主義のカモフラージュでしかないと思う。

まぁ、そのためには、妥協やなんかで結婚するんじゃなく、「これこそ、ついに私の骨の骨、私の肉の肉」という人に出会った時、初めて、神と人との前に意思表示するもの、と思うんだけどね。

なーんて、未婚の私の乙女チックな発想かしら?

 (追記:このエッセーは、2000年に書かれたものです。
      著者は2001年2月3日にめでたくご結婚されました)




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