聖書のエピソードをもとにかかれたエッセーです

By K. Kakoi

新約聖書斜め読み

「求めよ、さらば与えられん」


 とても有名な御言葉で、
マタイ7章とルカ11章にある同じような御言葉の一部である。

「求めよ、そうすれば与えられるであろう。
捜せ、そうすれば見出すであろう。門を叩け、
そうすれば開けてもらえるであろう。
全て求める者は得、捜す者は見出し、
門を叩く者は開けてもらえるからである。」

・・・だから熱心に父なる神に祈り祝福を求めなさいという主旨である。

この文章の後には
「自分の子供がパンを求めるのに石を与える者があろうか。
魚を求めるのにヘビを与えるものがあろうか。
この様に、あなた方は悪いものであっても
自分の子どもには良い贈り物をすることを知っているとすれば、
天にいますあなた方の父は、なおさら求めてくる者に良いものを
下さらない事があろうか。」と続く。

ルカには「求めよ〜」の前にもう一つ面白い例話がある。“ある人の家に夜中に友人が訪ねてきた。ところが、何ももてなすものがない。

それで、彼は夜中に別の友人の家へ行って『パンを3つ貸してください』としきりに(うるさく?!)願ったら、友人は「友達だ」という理由ではなく、「うるさいから」という理由で必要なものをくれた”というもの。

同じくルカの別の箇所(18章)には、“神を恐れず、人を人とも思わない裁判官”が、ある未亡人が彼に裁判をして自分を守ってくれと願い続けるので『あまりに面倒を掛けるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。

そうすれば、絶えず来て私を悩ます事はなくなるだろう』という大変身勝手な理由でこの女性のために有利な裁判をしようと考える、というくだりがある。これは「失望せずに祈るべきである」ことの別の譬として、イエス様が話された箇所である。

なんだか人間臭くって面白い。聖書とは、非常に真っ当なことだけが書いてあるのかと思ったら、そうでもない。実にジコチュウな説明がされてある。頼む方も頼まれる方もかなり自分のことだけしか考えていない。そんなことで良いのか?こんなジコチュウで?

しかし、イエス様は「それで良い」と言っている。それで良いから、神に届くように熱心に祈り、求めなさいと言っている。当然、神は人間のように利己的ではない。

利己的な人間でさえ、こんな風にひつこく願えば、願いを聞き入れるとしたら、けっしてジコチュウではない神は、いかばかりか人の願いを叶えようと思って下さっているのだろうか。それこそ人間の想像は及びもつかない、神の人間への深い深い慈しみが。

しかし、それをまともに説明しても解らないだろうなあ・・とイエス様が思ったかどうかは解らないが、人間の性質に対して、神の在り方を非常に納得できる形で表現してくれている。

人間の身勝手な行動に(我が身に思い当たるフシがあるほど)クスッとして、なるほどなあ・・・と納得してしまう。イエス様は人間の心を、きっと、とてもよく知っていたに違いない。




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