第60回記念 関西聖会
テーマ「聖霊を受けよ
第一聖会メッセージ「希望への新たなる決断」
聖書 ヨハネによる福音書20章19-23節
阪神チャペルセンター 廣瀬利男牧師


主の御名を賛美します。記念すべき第60回の聖会を迎え、主の御名を崇めます。

私は、関西教区に遣わされて54年になります。既に引退された先生方の御労苦を偲びながら、未だにご奉仕をさせていただき、又、この度の記念すべき聖会でご奉仕させていただく事を感謝しております。今年、傘寿(80歳)を迎えようとし、いよいよご奉仕の終わりに近づこうとしております。教区長を始め、先生方の配慮により今日の聖会のメッセージをさせていただける事は無上の喜びです。
思いかえせば、55年前、神学校卒業の前年、11月8日、クラスメートの女子神学のお父さんが急逝されたとの知らせが入りました。まだ。58歳という若さで召された事を思うと、驚きと悲しみが交錯しました。特に優秀な娘さんに希望を持っておられたお父さんの心を思うと切実でした。然し、そのお父さんの主にある奉仕の生涯を偲び、激しい救霊への情熱を深く心に留め、使命を果たされた事で励まされ、慰め合ったものです。
その人こそ、粉浜教会の川崎一牧師でした。戦後昭和24年に教団が結成された時、全国13教会で始まり、関西からは3教会、粉浜、池田の神愛、七条でした。粉浜教会は1923年、大正13年、拓植不知人牧師のリバイバル的な指導で生まれた教会です。戦中の試練で全く壊滅状態の中から、終戦の年1945年、川崎一師の指導によって大きくリバイブするのです。熱心な宣教は、岩屋へ、そして明石に、和泉に広がり、川崎牧師は14年という粉浜の働きでその生涯を燃え尽くされたのです。今日、教区では子教会、その孫教会を入れると10教会に及んでいます。そして20数名の牧師・伝道師を輩出しています。全国聖会は初期には粉浜教会で行われました。関西聖会は昭和29年、第一回聖会から御影のこどもホームで開かれました。関西教区は現在40教会に成長して来ています。

関西教区、成長の3つの基い
その発展の基礎になったのは、言うまでもなく、川崎一、岸部勘次郎、内村誠一、徳木力という個性と信仰にあふれた指導者がいたという事です。そして、当初から関西聖会が信仰の一致と団結を確認し、信仰と新生と受霊の場となってきました。そして宣教師の協力が大きな起爆剤になるのです。御影、西灘、尼崎、三国、姫路、尾崎が開拓され、そして教区の諸教会と宣教師の協働によって、一ヶ月間の天幕伝道で都島教会が設立された事も大きな恵みです。その後、教区は1970年代、一千万救霊を合言葉に、「日本のリバイバルは関西から」を合言葉に、超教派のクルセードが展開されました。1980年代は1999年宣教推進計画により地区相互協力し、高槻、次いで岸和田、三田、そして橿原が生み出されてきました。大津と名張、橿原、古座など府県全てにアッセンブリーの教会が生まれているのです。そこには協働、協力、協助をもとに一つ一つの教会が育まれ、祈られ、導かれていると言えます。それぞれの諸教会に働きの繋がりがあるのです。三つの大きな要素によって関西教区は発展して来ているのです。その大きなきっかけこそ、一つに関西聖会であり、二つに、宣教師の宣教協力であり、第三に、関西教区諸教会の愛の協働、協力、協助なのです。

新たなる未来への決断
今や、60回の聖会を迎えています。60年は還暦です。生まれた干支に帰り、新たな時が始まる事を祝うとも言われてきました。一方、世の中では60歳が一般に現職を退職する時、現役の働きが終わった事も意味します。宣教の働きには再臨まで終わりはありません。然し、家も60年するとあちらこちらが痛み、ペンキもはがれます。リフォームが必要です。関西教区も関西聖会60回を迎え、リフォームして新たなビジョンと希望を持って始める必要があります。リフォーム、即ち、「刷新」が必要なのです。
世界にペンテコステの理解を超教派的に拡大したと言われるのは、アッセンブリーの牧師、ディビット・デュ・プレッシー牧師でした。彼を受け入れ、その働きを継続させた世界教会協議会の事務局長、ウィレム・ヴィッザート・フーフト博士の「教会の刷新」という著作に、「教会が新しくなる事は古くなる事である」という言葉があります。謎めいた言葉に聞こえますが、実際は「聖書に帰る」という事であり、言い換えれば「キリストの言葉に帰る」という事なのです。教会史を振り返ると、教会が刷新されるのは、「聖書の原点」に帰り、キリストの言葉に聴く事に帰るという、これにほかならないのです。長い歴史の中で世の変化と共に、聖書の原意、キリストの福音、「十字架の言葉」(Ⅰコリント1:18)から離れてしまうと、「力」を失い、福音の「命」を失ってしまうのです。
 聖会のテーマである「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)というこの言葉は、イエス様が、復活された最初の日に弟子達に現れて告げられた言葉です。最後の愛餐の席で余すところなく主は御心を告げられ、十字架に向かわれるのです。そして3日目に甦り、復活したその日の夕方、弟子たちが恐怖におののいて家に鍵をかけて潜んでいる時、弟子達に現れ、主が父なる神にお遣わしになられたように弟子達を遣わすと言われて、息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われ、罪の赦しの権限を与えて、「あなたの罪の許しがないものの罪は赦されない」という、教会の基本的権威の伝承の基礎を与えられるのです。弟子たちに宣教の権威としての、罪の赦しの宣告の職務を語られる聖書の箇所は、マタイによる福音書の16章であって、ペテロの「あなたはメシア、神の子です。」という答えに対して、イエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:18、19)と語られています。確かにぺテロの信仰告白の上に天の国の鍵を授けるとあります。カトリックの教会では、この御言葉が教会の権威となり “絶対性”となり、伝統的に教会の代表である教皇がその鍵を伝承して“教皇無謬説”の権威としてきたのです。それが教理として確定するのは、1870年の第一バチカン公会議です。1517年の宗教改革では、ヨハネによる福音書20章で「聖霊を受ける」約束と、「天の国への道を可能にする、福音による罪の赦しの権威」を“すべての弟子”に語られ、「聖霊を受けよ」と言って「あなたの福音を受け入れる者の罪は赦される。」それを「拒む者は赦されない」と、すべての弟子たちに権威を委ねていると言明されています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:27)明らかに教会とは一人一人の弟子達、聖霊を受けて明確に福音を信じている人々、一人一人のクリスチャンにある事を言っています。ですから、ヨハネによる福音書20章では、「彼等に息を吹きかけて言われた、『聖霊を受けよ』…《聖霊を受けて真実の福音が解り、あなた方が話す福音を聴いて、信じた人は誰でも救わる。あなた方が語った福音を受け入れれば罪は赦される。》」と言うのです。イエス様は「あなたがたを遣わす」と言っておられます。信仰と宣教の根本的な根拠は、ヨハネ20章の21-23節の御言葉にあるのです。今、関西聖会60回記念にこの御言葉を聴く事の意義をしっかり心に留めて聖霊を待ち望まねばなりません。
「聖霊を受ける」事が、今後の宣教の発展の出発点になっているのです。この事をイエス様が語られて、その日から様々な機会に復活のイエス様は現れ、最初に弟子たちに現れてから、その後、5百人以上の人達に同時に現れ、ヤコブに現れ、全ての使徒に現れられたのです。(Ⅰコリント15:5-7)イエス様は「神の国」について語り、「エルサレムから離れずに父の約束の“聖霊を受けよ”」と言われるのでした。弟子たちは「この時こそイスラエルの国が立て直される時ですか」と聞くのです。この言葉こそが、イエス様の御国の訪れの恵みを阻害して、イエス様の御心を悟りえなくしているのでした。「聖霊を受けるーあなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)とイエス様は言われました。弟子たちは、モーセの律法に基づく、ユダヤの歴史の伝承理解として、現実の国家の回復と再建こそが神の国の再建であり、その達成者がメシアであるという固定化された観念に縛られて、イエス様の福音とみ教えを理解できないでいるのです。イエスは癒しがたい歪められた神の国の理解に心を痛めながら、「父の約束」なる「聖霊の降臨」、即ち「聖霊が降る」、「聖霊を受ける」時、聖霊なる神の臨まれる時、真意が解ると言われるのです。その時に、真の神の福音、神の愛がイエス様の十字架で表され、父なる神の御心が明白に開示されると言われるのです。
 イエス様は神の国を教え、力ある業をされ、父なる神の御心を現わし、さらに不信仰な人々の罪の犠牲となって十字架に架けられ、復活のみ業を通して信じる者の永遠性を証しされました。それでも神から離れ、閉ざされた深淵の暗黒の罪から目覚めることなく、復活のイエス様に出会いながらも盲爆たる罪の覆いに隔てられて理解できないでいたのです。

驚くべき受霊経験の出来事
イエス様は「聖霊を受けよ!!!」、そうしたら「力を受けて、地の果てまで、私の証人になる」(使徒1;8)と言われました。弟子たちにとってイエス様の言葉がいぶかしく、意味がはっきり解らないのです。その言葉を聴いているうちに、イエス様は雲に包まれ天に帰って行かれました。そして天使が「主は再び、今見ているのと同じ有り様で来られる」と語りました。(使徒1:8-11)兎に角、イエス様の言葉に従って「聖霊を待ち望む」為にエルサレムに帰るのです。それから10日間、120人の弟子たちはマルコと呼ばれていたヨハネの母の家の二階座敷で祈り続けるのでした。
イエス様の最後の「聖霊を受けよ」という言葉は、使徒言行録で確かに弟子たちが地の果てまで宣教する力をきせられた事が明らかにさています。本来は、ルカ福音書と使徒言行録はルカの記述であれば継続して残すべきですが、その間に「ヨハネ福音書」が編成されているのです。聖霊を受けるという出来事は、ルカの著作では充分ではないのです。そこで特別な福音書として「ヨハネによる福音書」が最も詳しく「聖霊の意味」についての教えを記録し、「聖霊の力」「宣教の力になった意味を」を示して、ルカ福音書と使徒言行録の間に位置付けているのです。ヨハネによる福音書の特徴は、全体の3分の2でイエス様の最後の晩餐から復活までの短い日々について教え、示し、十字架と復活の出来事の真意を示されたのです。イエス様は十字架に架けられる前の夜、弟子達と最後の別れの食事をされます。その時にイエス様は御自分の使命について語られ、最後の別れの言葉と祈りをされるのです。聖霊を待ち望む前に、私達も、弟子たちが聴いた主の御心をしっかりとこころに留めなければなりません。ヨハネによる福音書13章において、最後の晩餐を始める前に弟子たちの足を洗い、残すべき御心の総括をされるのです。それは「互いに謙遜になって愛し合う」事です。「愛し合う事」が最も重大で、大切な事を示されるのです。

イエス様の遺された最後の願い
最後の言葉を残される前、12章では御自分の真実な姿と使命を明らかにされます。「イエスは叫んで言われた。」(ヨハネ12:44)のです。全ての人に公然と御自分の存在の事実を宣言されるのです。「イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。』」(12:44-46)イエス様は明らかに御自分を見る者は、父なる神を見たのであると言われるのです。見えない神が、イエス様によって見えるようになったのです。イエス様の語られた事は、父なる神が語られたと宣言されています。(12:49)そして、「父の命令は永遠の命」(12:50)であると示されるのです。全ての人が「永遠の命に生きる」事が御心であり、神の願いなのです。「永遠」は神様の御国を意味します。私達は「有限の世界」に生きているのです。それは変わり行く、失せて行く、移り変わる、空しく、儚い消滅の世界です。「永遠の命」、変わらない命、永遠こそ「神の国」です。神の国とは神様の臨在される国です。神は「永遠の命に生きよ」と言われているのです。
 聖書ははっきり教えています。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Ⅰヨハネ4:12)互いに愛し合う事によって『そこに神が臨在される。言換えれば、私達が愛し合う事の間に神様の臨在があり、神の国がそこにあると言うのです。イエス様はルカによる福音書で、ファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」と尋ねたので、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(17:20、21)と指摘されています。今こそは「永遠」の今なのです。永遠に生きる事は、「神の愛に生きる」事であるのです。神の愛に生きる事こそ、神の国に生きる、永遠に生きる事なのです。見える者は消滅し、変化します。然し、主イエスは、再び再臨される時、新しい復活と栄光の体に再創造されるのです。聖書の約束は、霊肉の分離でなく、統合された一体的な新しい創造であるのです。神様の「命令」が、「永遠の命」であるという事は、神の愛に目覚め、神の愛に生きる事です。神の愛のあるところには人は一つになるのです。一致こそは、和合であり、和解であり。平和と安らぎの前提であるのです、イエス様は「神の御心、命令は永遠の命」であると言われるのです。
 最後の晩餐が進み、12弟子の中にはイエスがメシアとして王となり支配されるはずなのに、もどかしさを感じる弟子もいました。疑う弟子もいる事を見通して、イエス様は改めて「愛し合う事」の大切さを示されるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
この「新しい掟」の「掟」は、エントレー(έντολή)という言葉であって、同じく12章50節の「父の命令は永遠の命」であるという御言葉の「命令」は、同じエントレーです。又、「永遠の命」の説明をなさいました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17:3)神様を知る事とイエス様が神に遣わされ、その使命である、十字架で死に、復活され、罪からの救いを告げられた事を、神の愛の現実を「知る」事であるのです。遣わされた証しとしての復活のメッセージを認識する事なのです。「愛されている私」の発見です。イエス様の示された、「神の愛によって愛し合う」事にほかなりません。それが神の御心である「掟」であり、「命令」であるのです。それは神の幸せに生きる、神の愛に生きる事に尽きます。その愛こそ神と人を一つにさせ、人と人とを完全に一つにさせるのです。

イエスの最後の祈り「完全な一致」
 その愛の願いが神の御心であり、イエス様の最後の祈りであると言えます。ヨハネによる福音書17章で、イエス様は最後の祈りをされます。弟子達だけでなく、弟子たちがやがて主を伝え、主を信じる人々の為にも祈られるのです。(17:20)そして「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」…わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(17:21-23)と、続けられます。完全に一つになる。この事をイエス様は使命の最後に願われ祈られたのです。イエス様が完全に父子として一つであられたように、主の臨在によって一つであるという事です。この完全こそ、「主が赦しを与えられたように“赦す神の愛”」であり、その愛こそは「完成させる絆」(コロサイ3:14)です。口語訳では「いっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」とあります。お互いの絆が完成されるのです。この愛は、イエス様が十字架で示された愛です。その愛による絆こそ、「キリストの平和」「平安」であり、(:15)この平和に生きるために「一体とされた」のです。一体こそ平和と平安の前提であるのです。一致は赦しと和解です。一致は和合であり、交流の絆です。平和のあるところに安らぎがあり安心があるのです。

悲しい弟子達の不確かな信仰
 しかし、現実にはイエス様は繰り返し、御自分が御子なる神として父なる神に遣わされたメシアであると告白されました。御業をもって示し、御言葉によって御心を解き明かしながら弟子達に教え示されてきた事を、弟子たちが受け入れた事を話されるのです。「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとからでてきたことを信じたからである。」(16:27)と言われるのです。弟子たちが「あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。」と言うのです。そこでイエス様は「今ようやく、信じる者になったのか。」と言っておられます。
しかし、弟子達は、ユダヤの長い伝承である、メシアが地上に神の国、王国を築く事を今もって期待し、その時の政権の中枢、右大臣や、左大臣になる事を夢見ていたのです。モーセの律法を守る事こそが永遠の命であり、その王国の建設者として認められるという事に執着していたのです。イザヤ書には「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:3-6)とあります。イスラエルの人々は、この言葉を受難こそイスラエルであり、イスラエルこそやがて地上の王国として栄光の覇者になると信じていたのです。イスカリオテのユダには様々な見方もありますが、実際は最後の晩餐まで主と共にあり、イエス様に期待しているのです。イエス様が時の権力と対決されれば、今までの軌跡、その教えからいって必ず奇跡をもって地上のメシアとして支配され、苦悩するイスラエルを解放し、支配者を殲滅して理想の王国を実現されると確信していたのです。すでに決意し、行動に移すユダの心をイエス様は見抜かれています。イエス様の御心とかけ離れた決意をしているのですが、イエス様はそのままにされます。ユダは、確信し、行動し、イエス様の所に官憲を導くのです。そしてイエス様は逮捕され、ユダヤの大祭司カイアファの庭での尋問、最高法院サンヒドリンの裁き、ピラトの法廷の裁きを通して十字架への道を歩まれる事になるのです。このイエス様の全く違う姿を見て、ユダは自分が分からなくなるのです。愛し、慕い、尊敬していた、メシアと信じていたイエス様が屈辱、恥辱を受け、罪ある人として十字架に架けられる事が起こったのです。彼は、イエス様の罪の赦し、神様の愛を見る事が出来ず、苦悩により自死の道を選んだのでした。
弟子の長老格のペテロも、「あなたのためなら命を捨てます」と言いますが、イエス様はペテロの曖昧な信仰の心を見通して、「鶏が鳴くまでにあなたは三度、わたしを知らないと言う。」(ヨハネ13:36-38)と予告されるのです。イエス様はゲッセマネで逮捕され、大祭司カイアファの庭で尋問を受けるのですが、その時、ペテロも門の内に入っていたのでした。そこで大祭司の女中が、「あなたもあの人の弟子ではないか」言いました。しかし、ペテロは「違う」ときっぱり否定するのです。他の人が「お前はあの人の仲間だ」と言うと、「そんな人は知らない」と言うのです。そして暫くして他の人が「確かに、この人も一緒だった。言葉使いで分かる。ガリラヤの者だから」(マタイ26:73、ルカ22:59、ヨハネ18:25)と言うのです、しかし、ペテロは「違う」と言います。そこでペテロに耳を切り落とされた大祭司の僕の身内の者が言うのです。「園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。」(ヨハネ18:26)。ペテロが再び否定すると、鶏が鳴くのでした。イエス様を信じると告白し、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)とさえ言ったペテロでした。しかし、今、裁きの座に立たされ、迫害されるイエス様を見ると、現実から逃れようとするのです。

聖霊を待ち望む弟子達
主は裁かれ十字架の道を歩まれるのです。3日目に甦るとかねて弟子たちに告げられていながら、誰一人として信じていなかったのです。依然として「御国が来る」事の真意が分かりませんでした。イエス様がお甦りになって弟子たちに現れました。それを疑うトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われるのです。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」(:29)と答えます。しかし、40日の間、幾度となく復活の主と出会いながら、彼等は、依然として「御国はいつ来るのか」を問い続けるのです。イエス様は「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:7、8)と明言されるのです。聖霊こそ、わたしの話した事をすべて思い出させて下さる。(14:26)今は理解できないが、聖霊、即ち真理の霊が来ると、あなたがたを導いてことごとく悟らせる(16:12,13)と言われるのでした。
弟子たちはイエス様の言葉を受け入れ待ち望むのです。五旬節の日を迎えました。エルサレムの二階座敷で120人のイエス様を慕う人々が祈っていました。激しい風が吹いてくるような音が天から響き渡り、舌のような炎が別れ別れに一人一人の上にとどまり、彼らは霊が語らせるままに、他の国の言葉で話し始めるのでした。五旬節でエルサレムに来ていたデアスポラ(離散した)の信心深いユダヤ人が、この声を聞いて何事が起ったのだろうと集まって来たのです。自分達が住んでいる国々の言葉で、大声で神様を褒め称えているのを見て怪しむのでした。どうした事だろう。朝なのに新しい酒にでも酔っているのだろうといぶかっていると、突然、ペテロが他の使徒と共に立ちあがって、「わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」(使徒2:14,15)と言い、ヨエル書の言葉を語り、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。…主の御名を呼び求める者は皆、救われる。」(2:17,21)はっきり宣言します。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」(:22)イエス様の死と復活について、それは神の救いの計画であった事を明らかに示し、イスラエルが十字架にかけて殺したイエス様こそメシアであり、罪を悔い改める時、救いはイスラエルを始め、「遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いて下さる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と語るのでした。(使徒2:36-39)そしてそれを聴いていた人々は、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねるのでした。ペテロははっきりというのです、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:38,39)そしてその他にも色々な証しをして、「邪悪な罪の世」から救われる事を勧めるのでした。ペテロの勧めを聴いてイエス様を受け入れた人々は3千人に及びました。受け入れた人々は弟子たちの仲間に加わり、使徒たちの教えを聴き、お互いの交わりを持って食事を共にし、熱心に祈るのでした。そうこうするうちに祈りによって病が癒され、不思議な事が起されるようになるのです。人々はいよいよ一つになって神を崇め、賛美をします。キリストを信じる信仰によって一つになったのです。ここに教会が建て上げられ、キリストは見えないが、キリストは生きておられ、聖霊の働きは人々によって始まったのです。

聖霊の驚くべきみ業
 これがイエス様が約束された、「聖霊を受ける」事の経験でした。イエス様に従いながら、信じていると告白しながら、奇跡を見ながら、神を褒め称えていたのですが、懐疑と無理解の雲の中で迷っていた自分が、「聖霊を受ける」事によって異言で祈り、賛美し、受霊であると示され、イエス様のお言葉の真意が鮮やかに甦ったのです。主イエスが言われた「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(16:13)という言葉を思い出すのでした。聖霊を受ける事によって、モーセの律法を基本に作られ、長い間社会を構成し、生活を規制していた様々なミシュナー(律法の実行規定)が愛を失い、神様の御心から外れ、人を奴隷化してきたという矛盾に気付いたのでした。その矛盾を矛盾と自覚しないで生きている自分を知らされたのです。律法を守り、生きているのに、神を知らない他民族ローマに虐げられ、圧迫され、搾取される事からの解放を、メシア、救い主が成し遂げられると待ち望んでいたのです。
 このユダヤのモーセの律法とミシュナー、律法解釈によって構成されている社会の慣習に縛られている指導者、祭司、律法学者には、イエス様の愛と赦しによる神の国来臨の福音はまったく反社会的なものであるのです。エルサレムの指導者たちは、ペテロがペンテコステの日に宣教し、イエス様を信じて大勢救われた後、福音を伝える事を禁じます。  しかし、神殿の「美しの門」の前で、生まれながらの足萎えの人が癒される奇跡の後、大勢の人が関心を持って集まり、官憲の取り締まりがあるのに、ペテロの話を聞いて男の人だけでも5千人の人々が福音を信じるのです。いよいよエルサレムでは大迫害が起ります。衆議所の議員(長老、祭司、律法学者)たちに逮捕されて尋問を受けるペテロとヨハネは、足が癒された人の癒しについて尋問を受けながらも、「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:10-12)最高法院の議員達にきっぱり言います。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(4:19,20)そしてステファノが殉教する事件から使徒の他は地方に散らされていくのです。

大胆に変えられる弟子達
 イエスがおられた時は迫害を恐れ、イエスの弟子である事さえ隠し、否定し、言い訳する弟子たちが、「聖霊」を受ける経験を通して、迫害を恐れず、批判から逃げず、「イエスは救い主」である事を堂々と語り、証しし、主の御名で祈って奇跡をもって主が活きておられる事を証しするのでした。フィリポは家族とも別れ、逃れてサマリアに行きます。彼は、伝統と因習、信仰観の違う土地で、「喜び」に満ち溢れ、確信を持って活ける主の福音を語るのでした。人々は救われ、病は癒され、町中に喜びが満ち溢れました。初代のクリスチャンたちは、「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(Ⅱコリント6:4-10)という信仰に生かされるのです。そして「たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(フィリピ2:17、18)と言うのです。

受霊の証しとしての異言
 聖霊は宣教の力です。「一同は聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(使徒2:4)のです。使徒言行録の記録では、サマリアでフィリポが伝道して、救われる人が起されて、町に喜びが満ち溢れて後、エルサレムからペテロとヨハネが駆け付け、洗礼を受けていた人々に聖霊を受けるように勧めると、聖霊が降りました。人々が聖霊を受けたと記録しています。他の国の言葉を語ったということは書いていないが、確実なしるしを見ているのです。また、カイサリアのコルネリウスの家では、ペテロが導かれて福音を語ると、語っている時に聖霊が降るのです。「ペテロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである」(使徒10:44-46)そこでペテロは言うのでした。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と。(使徒10:47)更に、やがてパウロがエフェソに行った時、「何人かの弟子に出会い『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。」とあります。(使徒19:2)その後、どのような洗礼を受けたのかと聞いたら「ヨハネの洗礼を受けた」と言うのです。そこでパウロは既に信仰に入っているのでイエスの名によって洗礼を授けて、按手して祈ると聖霊が下り、「異言」を語り出したのです。
 使徒言行録には、受霊の経験を記した個所が四ヶ所あります。1、異言を語っているのはペンテコステの日に起こったエルサレムの出来事、コルネリウスの家での出来事、エフェソでの出来事の3ヶ所でした。サマリアでは、聖霊を受けた時、異言の現象は明記していないが、そこにいたシモンが、「聖霊が与えられるのを見て」と描写している事から、何らかの客観的なはっきりと認識できる現象があったのです。そしてペテロや割礼を受けている信者が、コルネリウスの家で「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。」(10:45,46)と明確に記録している事からも、「受霊」のしるしとして「異言」を語る現象を共通した経験であると指摘しているのです。
 2、共通している事は、明確にイエス様が救い主メシアとして十字架で罪を贖って下さった事を信じ、目覚める時に受霊をしているのです。イエスの名によって洗礼を受けた後で受霊しているのは、サマリアとエフェソです。洗礼を受ける前に受霊しているという事は、救い主メシアの贖いを受け入れ、目覚めさせられているのです。ペンテコステの日、最初に受霊した120人の人々は、すでにイエス様に教えられ、薫陶を受け、十字架の出来事に直面し、復活の主に出会って教えられていた人々でした。明確にイエス様が神の御子である事を信じ、復活された主に出会い、受霊をした時に“永遠の命”“神の国”の現実に目覚めたのです。悟り、全人格的に完全に変化したのです。愛されている自分を自覚したのです。そこから人々の心、人格、全存在がキリストを信じる者とせられたのです。人々はキリストを信じる信仰によって一つとなり、一つ体、「キリストの教会」がそこに生起したのです。
3、サマリア、コルネリウスの家、エフェソでの受霊経験においても、イエス様の十字架の御救いと復活の出来事を通して明らかにされた“永遠の命”が受け入れられ、信じられた時に、受霊の経験をしているのです。初代教会の時代は、福音を信じる事は全人格的な救いの確信であると見ていたのです。

人を生かす聖霊のみ業
 長い信仰の歴史の経過の中で、「イエスは主である」と信じる信仰が、時に文字に書かれた福音を認めて受け入れる時、聖霊の働きを見過ごし、忘れ、無視し、形骸化し、否定するようになるのです。使徒パウロは、「文字は殺しますが、霊は生かします」(Ⅱコリント3:6)「文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(ローマ7:6)と言うのです。この言葉は形骸化した律法に対する言葉ですが、イエス様の十字架の出来事、復活の事実に出会っても、その真理は聖霊によって弟子達の心が開示されなければ正しく理解できなかったのです。教理として受け入れ信じても、中世の黙従信仰であったり、宗教改革で命を吹き返しながら、信条承認の信仰になっては霊性を失って死んだ信仰になるのです。
 「聖霊を受ける」即ち、聖霊のバプテスマを受ける時、「力を受ける」のです。主イエス様は「地の果てまでわたし“キリスト”の証人となる」(使徒1:8)と約束されるのです。イエス・キリストの福音の事実を証しする能力と情熱を与えられると言うのです。それは単なる宣教の力なのでしょうか。異言の伴う“聖霊のバプテスマ”を受ける時に“宣教する力”を受けて伝道するようになる。確かに、使徒言行録の記録によると鮮やかな弟子達の変化があり、臆病から、懐疑的から、優柔不断から、迷いの中から変えられ、どのような困難も、どのような試練も、どのような迫害も顧みず大胆に、喜びに満たされて福音を伝え、証しするのです。
聖霊のバプテスマの力は「物理的」な力、エレルギーであるのでしょうか。自動車が走るオイルの力、電車が走る電気の力、動力の原子の力と同じように聖霊の力は宣教させる力なのでしょうか。決してそうではありません。人が生き、働けるのは食物のエネルギーによります。しかし、人を生かし、人が人として動き、生かすのは、人間の霊的生命の躍動にあるのです。自動車は自動車そのものが動くのではなく、運転する人の意志と目的で動きます。それで初めてその存在の意味があるのです。人は無機物ではなく、創造された意味がある霊的存在であるのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)のです。「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:8)ように、愛する情緒を持って人は生きるのです。又、「万物を創造された神」(創世記1:1)であるように、人も「自然の中で創造する」、思考し、造り出すのです。創造は思考と理性によります。物事を観察して、理解し、組み立てる事は自然の動物にはできないのです。神様の創造の御業の素晴らしさ、栄光を現わす事こそ、人が生きる目的です。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19,20)神様を信じる事、出合う事は“自分自身”に出会う事、知る事に他ならないのです。真実に神様に出会うという事は、霊性の回復です。言い換えれば真実の人間の回復の自覚であるのです。神様の永遠の命の回復です。変化と消滅の有限の自然でなく、始めもなく終わりもない永遠の命、神様にある真実な愛の生こそ、変わらない交わりと平安と平和の神の国であるのです。

人を根底から変革する聖霊の能力
 聖霊のバプテスマ、異言体験を通して示されている霊的体験は、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8:26,27)という御言葉を体験として知る事ができます。ここにある、「どう祈るべきかを知らない」というのは、人間の理解、意識を越えた、自分の意識しえない自分の苦悩を言い表しており、その深い魂の奥底にある憂い、嘆きを“聖霊”は“うめき”を持って執り成されるのです。この言葉にならない“うめき”こそは、人の理解を越えたグロッソラリア“異言”であるのです。自分でも理解しがたい苦悩、心の闇は、自分が自覚しない、認識しないもう一人の“わたし”、心理学的の言葉では無意識のもう一人の隠れた心の自分であるのです。人間は意識している現実の自分が、自分だと思っているのですが、実際は、自分の心の無意識の中に自分が意識しない自分が居るのです。人は、辛いこと、嫌いな事、怖い事、心の傷などが性格として心の深層に形成されるものです。更に、育った環境、風土に国々の人の性格が出来るのです。そして国々を越えて人間の忘れ去った長い歴史の心の“ひだ”が人を形成しているのです。それを普遍的な潜在意識と言います。果てしなく空しく、何の為に生きているのか解らないでさまよう消滅と孤独の虚無の中で、「聖霊」は「執り成される」のです。その呻きこそが、言葉にならない言葉、意味を理解しない言葉で祈る祈りであるのです。この呻きの祈りが、開かれなかった自己の暗く奥深い心の扉を開き、解放するのです。そして神様が創造された喜びをイエス・キリストの、あの十字架の出来事に向けるのです。イエス様の十字架に出会って、目的を見失い、迷い苦しみ、欲情と欲望に生きる罪深い自分を自覚するのです。弟子たちは、「聖霊を受けて」から、歴史に伝承されてきた歪んだ神の国の縛りから解き放たれ、神の愛による十字架の犠牲、神の愛で神との交わりの回復を確実に経験するのです。それは外見的な言葉や、単なる教えでなく、神様が事実、出来事として十字架に御子を架け、犠牲にして究極の神様の愛を表わされたのです。それは言葉でなく、事実、起こった出来事により、事実の行為として表されたのです。だからこそ「十字架の言葉」「十字架の出来事」は「神の力」(Ⅰコリント1:18)なのです。ですから、イエス様を受け入れない人にとっては「愚か」であるのです。
 「聖霊を受ける」という事は、人間の表も裏も、心の無意識の最奥まで、全人格的に神様の恵みと愛によって罪の赦しと回復を経験させていただく事です。神様の臨在を経験するのです。ですから「聖霊を受ける」事によって、イエス様の復活、罪の赦し、永遠の命、神の国の真実を人々に示し、永遠の今に生かして下さる確信が与えられるのです。
 「聖霊が降る時…証人として力を受ける」(使徒1:8)“力”、この聖霊の力によって、イエス様は真実に神様の御心を弟子たちに明らかにされたのでした。

聖霊の力を求めてー新しくされる
第一に、聖霊の力とは、イエス様を理解出来る力です。言い換えれば、イエス様を聖霊によって「理解させられた」事によって経験する力であるのです。弟子たちはイエス様が何故十字架に架かり復活されたのか、その“意義”が、その“意味”が分からなかったのです。十字架と復活の出来事の意味、そのメッセージが明らかに、完全に解ったのです。「聖霊の力」とは、神様の御心、愛されている自分の発見であるのです。それは自己の理性や知性の知識ではありません。イエス様は「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを《意味を》教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)そして「今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(16:12、13)と語られたのです。十字架の出来事と復活が何故起ったのか、その意味をことごとく“悟らせる”(共同訳)のです。口語訳では「あらゆる真理に“導く”」とあります。この言葉はホデーゲオー(όδηγέω)といい、“案内する”“導く”“手引きをする”という事から、導かれる人にとっては“悟る”即ち、“目覚める”事を意味するのです。
このイエス様の出来事が「分かる」「理解する」という機能、働きはいったいどういう事であるのでしょうか。人間には認識する機能があって、それは理性であり真偽を洞察する力です。又、人は、感情を持っています。普通は感情的な情緒は理性に反すると考えられますが、事実は感情も判断の能力であるのです。感情は感受性で物事を判断するのですが、好き嫌いでも判断し、判別します。或る意味で共通した認識の力であるといえます。又、人には、感覚の力があり、体に備わる“視覚”“聴覚”“臭覚”“味覚” “触覚”などの感覚で物事を把握するのです。これも生きる基本になるものです。そして、人にはこれを越えた不思議な判断の働きとして“直感”があるのです。自分の存在や意識を越えた“第六感”としかいい得ない感性こそ、霊的な認識機能なのです。“悟り”こそ、本来、覚めという意味があり、神の語りかけ、啓示こそは「真理」、それはアレーセイア(άλήθεια)です。即ち、覆いを取り除くという意味ですが、真理は物事を明らかにするという事です。聖書は言います。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(Ⅰコリント2:10、11)
私は、東京の小岩教会で救われました。当時、宣教師の住まいの六畳二間で集会をしていました。神学生が派遣されていて、勢いのある説教をされていたのです。人間は全て神の前に罪を犯している。悔い改めてイエス様を信ぜよという単純な話でした。私は、何も悪い事をしていないと思い、どうして悔い改めなければならないのか解らないのです。田舎から出てきていて淋しい事もあって、続けて出席はするのですが、罪を悔い改めよと言う罪がどうしても解らないのです。或る時、ローマ書の1章を開いて、人の罪を指摘している箇所28節から読み始めるのでした。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(1:28-32)依然として私には関係ないと思いながら他人事のように聞いていたのですが、「親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲」という言葉が心にかかり、「親に逆らう」事が罪である事に心が刺されるのです。母親を思い出しました。実は、私の生みの母は妹を22歳で産み、23歳で死にました。その時私は4歳でした。その妹は2歳で死に、次の年、父は昭和14年に再婚します。然し、昭和16年太平洋戦争が始まると、十数人いた弟子たちは出征してしまう。絵を生活の糧とする父は家族を連れ、戦争激化の中で島根へ疎開しました。絵しか描けない父にはなすすべもなく、経済的な苦悩が襲うのです。その後4人の弟妹が生まれ、貧しさの中、家族八人で生活するのです。食べる物、着る物、履く物、何かにつけいざこざが起きます。そして反抗期の私は、母の気持ちを理解しないでひねくれ、反抗し、逆らうのです。母が良くしてくれれば、本当の生みの親ならもっと良くしてくれると僻み、酷く怒られると本当の親なら優しくしてくれると反抗するのでした。母は嫁いできた時、多くの和服を持ってきました。戦争が激化し食糧難になると、家族の為に惜しげもなく米や野菜に変えて家族を養ったのです。
聖書に「親に逆らう」事を罪と示され、湧き上がってくる思い出は、小さい時の優しい母の姿であり、母に対する罪が示さるのでした。それが罪を示されるきっかけとなったのです。そしてイエス様の贖いの恵みを受け、洗礼に導かれました。母の愛が解ったのです。そして神様の愛をイエス様によって知る事が出来たのです。愛されていながら愛を自覚しない自分と出会ったのです。それは知性や理性の理解では解らないのです。神様の働きかけ、聖霊の導きと働きが閉ざされた心を開かせて下さった経験でした。
イエス様は「真理」(ヨハネ14:6)、真理の霊、イエスの霊が、神の国の愛を十字架の出来事において表し、人を目覚めさせられたのです。ペテロは聖霊を注がれ目覚めました。彼は立ちあがり、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。…主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒2:17-21)と語るのです。そして明言します。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(:36)そこで神様の窮極の愛を知らされたのです。正に、神の愛によって、恵みによって原罪の暗黒を明らかにされ、その愛によって救われ、永遠の命の自覚が甦った喜びです。
 イエス様によって神の愛を知り、愛されている自分に出会った喜び、それが「聖霊の力」であるのです。聖霊の満たしのあるところには“喜び”が溢れるのです。その“喜び”が、命であり、力であると言えます。ハレルヤ!!
 第二に、イエス様の十字架と復活を真実に聖霊によって理解させられ、受け入れ信じる時、永遠の命、神の国への「希望」に生きる者になります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)聖霊による目覚めによって、初めて信じる事が出来るのです。信じる事は未来の希望です。完全な神の国の現実は再臨によります。それは完成であり、約束です。福音は神の国の完成の確かな約束であり保障であるのです。その約束の確かさが十字架であり、復活なのです。「聖霊の力」はキリストによって与えられる「希望の力」です。希望は約束の確かさによる喜びです。希望は「力」です。約束された希望が、聖霊により信仰の目覚めを通して約束として十字架で救いの完成が約束されたのです。信仰による「希望の力」こそ「聖霊の力」であるのです。
  第三に、愛と希望から湧きあがる「喜びの力」こそ「聖霊の力」です。「愛されている喜びは力であり命」です。愛のあるところに喜びがあります。交わり、和合、親しみ、融合、赦しと和解、信頼と絆、一致があるのです。イエス・キリストは平和の根源(ローマ15:33)であるのです。「聖霊の力」はキリストに表された「神の愛」による一致の力です。
 イエス様は「彼らが完全に一つになるように」(ヨハネ17:23)と最後に祈られました。この祈りは、「イエス・キリスト、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになるのです。」(ヘブル7:25)今も、イエス様は生きて執り成し続けておられるのです。
 今こそ、この60回聖会を記念して、教区の諸教会は聖霊に満たされ、聖霊の力、その生命に満たされ、キリストの愛に満たされ、キリストにあって堅く一つにされなければなりません。もう一度、主イエス様の身元にひざまずき、聖霊に満たされ、求めましょう。
 キリストを信じる信仰の愛が失われる時、聖霊の命、力は失せるのです。愛が裏切られる時、愛の反意の言葉アントニーは何か。憎しみ、嫉妬、復讐であろうか。いや、その愛の根源的な反意語は、「無関心」アパシィーであるのです。神様の愛は一人も滅びる事の無い、切なる徹底した、愛であるのです。一人の人の救いを求め、関心を持ち続ける愛です。「無関心」こそ愛の喪失であり、最悪の罪悪であるのです。聖霊を拒む事は霊的命の拒絶であり、愛の喪失です。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
(Ⅰヨハネ4:12)愛し合う愛のあるところに神の臨在があり、神の臨在こそ、神の御心が支配するところであってそれが神の国です。今こそ、信仰の原点である主イエス様の愛に立ち返り、聖霊の満たしを受けなければなりません。愛のあるところに一致があり、団結があり、協働、協調、協助が聖霊の証し、神様の恵み、大きな宣教の力となるのです。
 不可能を可能とされる聖霊の力に満たされましょう。
 新しい未来の為に主を待ち望みましょう。
「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31)

一致して聖霊の満たしを待ち望みリバイバルを祈ろう
 人は、試練や迷いの内にある時、悩み、困惑で自分を見えなくします。来年、中央聖書神学校の通信科で学んで卒業する姉妹が、私達の教会にいます。この姉妹は20数年前に中国語にあこがれて関西の外国語学校に入学しました。そこで夫となった兄弟と出会うのです。やがて二人は思いを寄せ合い結婚を決意しました。若くして結ばれた二人には、結ばれた喜びと共に厳しい現実の生活が待ち受けていたのです。兄弟は中国から野菜を中心に輸入する小さい商社に勤めたのです。まだ、たどたどしい中国語ですので、与えられた仕事は梅田地下街で“天津焼き栗”を売る仕事でした。夢中になりながらも、考え込む日々が続くのです。やがて、中国を行き来する取引の仕事をするようになりますが、経済的にも問題があり、不安定な仕事に戸惑い、迷うのでした。やがて他の商社に変わり、20代で北京の駐在員として事務所の設立にかかわるのです。尼崎の教会ではこの家族が単に仕事だけでなく、中国でクリスチャンとしての働きに実を結ぶ事を祈りました。兄弟は厳しい仕事で、帰国する度に今度こそは転社すると悩むのです。その事業の厳しい現実にいつも祈り続けました。やがて、上海に移る事になり、超教派のクリスチャンの交わりに加わるのです。共に信仰を分かち合いながら、様々な立場で集まっているため、聖霊信仰に無理解な出来事などもあり、自分達のペンテコステ信仰を基本にした賛美と祈りの場を求めて祈っていました。反面、兄弟は相変わらず様々な試練と社風の難しさなどの為に苦しんでいました。その様な時、神戸のクリスチャン事業家を紹介されて、その会社の中国駐在として新しい工場を設立する働きに入るのです。そして、無錫の広大な工業団地に工場を設立し、今では120人からの従業員が働く会社へと成長し、総経理、現地社長として奮闘しているのです。深刻な経済問題、仕事の鬱積など試練を越えて、国状の困難な中、祈っていた聖霊信仰の群れを立ち上げる決意をして、妻である姉妹の卒業を待ち、来年を目指しています。信仰による祈りと聖霊の力に支えられて現在まで導かれたのです。

どのような時にも、主を見上げ、聖霊の力、愛の力で一つになる時、主は道を開き、答えて下さいます。今こそ、教会の一致、教区の教会の一致、そこに祝福が約束されているのです。関西のリバイバル、日本のリバイバルは聖霊による、愛の証し、一致にあるのです。主イエス様を見上げ、心と思いを一つにして、新たに聖霊の力を待ち望もうではありませんか。
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ3:13口語)


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