ペンテコステ信仰と聖書と啓示

廣瀬利男


はじめに

今日的なペンテコステ神学の課題は聖書観と啓示,それと霊の賜物との関連についての問題である。ここであらためてペンテコステ信仰の独自性を課題に沿って検証する事にする。

(1) ぺンテコステ信仰とは何か

1.ぺンテコステ運動の神学理解

ペテコステ運動は,思想史的には抑圧された霊性の回復の運動である。より確かな信仰の確証を求めたウエスレ―神学思想の霊的系譜から,原始キリスト教の原点へ回帰する運動となったといえる。もちろん,真剣に霊的刷新を求める人々の教派を越える運動となる。 教会刷新運動が一般的に時の経過で歴史を批判し否定する。ペンテコステ運動は無媒介に聖書の原点からの再建を意味し,神学と組織の否定が、無神学の強調となり、モダンにおける啓蒙合理思想による聖書の権威と霊性の喪失への危機意識の反動となって運動が進んだといえる。

無神学は神学することを停止することにあるのではない。無神学は「否定の神学」であるといえる。否定する神学思想を知ってこそ、自己の拠り所を確立することができる。現在の現象は歴史経過の継続を全く抜きに考えることはできない。ペンテコステの聖霊降臨で教会の歴史が始まる。その時点で現有の聖書があり,既成の教会組織があったわけでもない。初代教会は3世紀を経てイエスのキリスト論を確立することとなる。そして4世紀に現有の聖書の正典性が確立する。

11世紀に至って贖罪論が提起される。そして、16世紀になって救拯論が教会の原理的理解とともに提起されるのである。義認論は聖化論として具体的な信仰実践を強調するウエスレ―のメソジスト運動が生起する。そして20世紀に至って再び、教会の本質的なあり方を問うかたちで聖霊論が運動として問われることになる。

このように歴史の中で問われる課題の中でキリスト教思想は確立してきているといえる。とりわけ、ルネッサンスと並行して宗教改革が始まり、いわゆる西洋における近代が始まるのであるが、それはとりもなおさず“個”の解放であった。個の人権思想が社会学的に芽生えることと啓蒙思想の普及とは並行しているといえる。そして、合理主義的思想が経験哲学思想とあいまって社会学的に社会の仕組みとしての政治経済に大きく変革をもたらし、世界に拡大されている構図がある。中世や近世の単一的な価値観は多様化の世情に変化している。

啓蒙思想は民主主義、すなわち人権思想を結果的に醸成する構図を含有している。西洋社会のキリスト教単一の社会はある意味で完成されたキリスト教社会であった。しかし、啓蒙思想発展とともに相対的社会として、いわゆる世俗化を辿るのである。20世紀はキリスト教にとって社会的に衰退するといわれているのである。歴史学者トインビーはキリスト教の時代の終わりを予告してきているし、P.テイリッヒも「プロテスタントの終焉」という著書の中でプロテスタンテイズムは残るが、プロテスタントの時代は終わるということをいっている。

そして、何もしないで手を打たなければ21世紀はカトリックか社会主義的な社会が残るといっている。@確かに、批判的聖書学で今日的な思惟をもって実存的に神学を構築するRブルトマン、あるいは神の言葉の主権の回復の神学としてのK.バルトの思想などは、時代的な役割を果たしてきているといわれるが、実際のフイールドにおける宣教や教会形成、ことに世界宣教と言う視点では近代の神学ではどうにもならないと言うのが切実な教会の声となっている。

「今日欧州の諸教会が派遣する宣教師達は、教会の礼拝、教会を拠点とした伝道洗礼入会への招きを中核とする伝道に殆ど関心を持たなくなった。これは米国からの宣教師についても言える。教会の伝統に対する極端な無関心時に見られる反発は、日本の教会を損なってさえいる。」A「学問としての説教学の浩瀚緻密な叙述と,礼拝も説教も例外を除いて実際には殆ど無視されているというギャップは,まことに奇妙な印象を与えつづけてきた。

しかも,その説教を生み出す神学教授達が熱心に教会の礼拝をささげてきたかといえば,これはまた例外はあっても、否としか答え様がない。学的水準を誇るドイツ的神学と教会の現実との乖離は,むしろ以上であったが,それをまた止むを得ない事として受け入れられてきた。」

B「われわれはここで、現代思想をどう受け取るかという思想上の問題に直面しているのであるが、同時に、現代の課題を負おうとするキリスト教の宣教の課題、あるいはより身近なところで起こっている、教会や教会学校の礼拝説教が、部外者たる現代人に悲しいかな殆ど全く届ないという問題に直面しているのである。神学ならびに新約聖書学にたいするこのような批判は根本的かつ全的なものであり、・・・・神学的思考の枠組みそのものの解体を含む根源的再検討を迫るものであるといえよう。」

C昨年(2002年12月刊)暮れに刊行されたA.マクグラスは著書「キリスト教の将来」の中でプロテスタント教派には、未来はないとまで示唆している。「学術的な神学と教会の開きがますます大きくなっていることは、最近の神学が、教会の信仰生活や宣教と全く無関係な問題に焦点を当てているように見えるという事実に見られる。・・・・学者の神学は信者には今ではすっかり信憑性を失っているのではないかと考えている人も多い。」

D神学が宣教と教会形成に全く役に立たなくなっているといえる。それは、神学者や学会の自己満足であることに気付かないのである。「主流の教派に未来があるとすれば、それは、小さくなっていく自分達の教派の内側からの刷新運動によってだけである。その様な刷新運動をつき動かす力は、通常、ことに教派的綱領や方法ではなく、福音的か、カリスマ的な運動である。

その点を考えると、未来のキリスト教を決定する要素としては、主流の教派よりもむしろ、これらの運動を考えたほうがよさそうである。あるプロテスタントの教会が生き残れるかどうかを決定するのは、それが、聖公会でるか、メソジストであるか、長老派教会であるかではなく、それが、福音派か、カリスマ的であるかである。」

E高度な学問性を持った神学が根本から問われているのである。

 @「プロテスタント時代の終焉」P.テイリッヒ著、古屋訳。P.201
 A「愛の手紙・説教」加藤常昭著p124
 B前括書「愛の手紙・説教」P219
 C「聖書解釈の歴史」宗教改革から現代まで。木田・高橋著p234
 D「キリスト教の将来」A・マクグラス著p188
 E前括書「キリスト教の将来」145)

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