「聖書的説教とは」
 
アドバンストスクール公開講座〈説教の前提U〉
聖書解釈と文献批評の今日的課題
発題 廣瀬利男


6.聖書解釈の方法としての歴史的批評学



6.聖書解釈の方法としての歴史的批評学
1) 文献解釈の意義
聖書は文献である限り、一般の文献解釈の一部であるといえる。
「解釈」とは原理解より追理解に至る「過程」である。
人間は自然と精神という二つの世界に囲まれている。自然は説明せられ、精神は理解される。自然は所与のものであり、如何に発生したのかと「原因」を問う。精神は理解せられて、「何ゆえに」起こったかという問い、即ち、「理由」(根拠)を求める問いとなる。「原因」への問いのみをゆるされる自然に対しては、これを「説明する」が、「理由」への問いを許される精神にたいしては「理解する」のである。「説明」においては、客観的に一つの事象の「原因」が与えられ、「理解」において主観的にその「理由」が与えられる。この理解と説明が、過去において科学を、精神科学と自然科学に分類した根拠となっている。
人間は孤独な存在ではない。人間が共存的であれば相互理解を前提にしている。理解に誤解がまとう、相違の存在に気付く。そこに懐疑が生まれ「如何にして正しく理解するのか」が問題になる。この理解が本質、限界、可能性という要素が解釈学を構成するようになる。人は言葉の音声による表現から、言語の表記となり、言語を理解することから文字による表現により客観化されるようになる。
原理解(第一次的理解)を追理解(第二次的理解)する理解再生の公道があるとすると「過まれる」理解の危険があるかもしれない。それを無検査で見過ごすことになる。そこに理解検査の「関所」の検閲がなければならない。即ち、「理解」の検証をする。それを「批評」という。その性質は縦に流れる解釈の形態を横にさまたげる役をする。「解釈」と「批評」は表裏である。解釈学は解釈の法則を立て、それは帰納的な学であって、その目的は「事実」を追求する法則を立てる。一方、批評学は解釈学の法則と結果から基準を立てて、その目的である「真実」を追求する法則の樹立にある。そのために、図式的に「第一次的理解―解釈―批評―第二次的理解」になり限りなく高次に循環することになる。


2)聖書解釈の課題
聖書解釈の課題は聖書の解釈に対する正しい方法の発見である。しかし、今日までその作業は進めば進むほど不確実な現状となっている。一方、絶対的に確実なことがあるとすれば、信ずるものには、聖書が神の言葉として迫るという現実の事実であるということである。迫られる経験に立って進むことになり、換言すれば、迫られつつ、迫りつつ進むことである。
しかし、そこにはなお困難が残る。それは二つの点から出ている。一つは、解釈の対象としての聖書そのもののもつ性質から出るもの。その二は解釈者自身から出るものといえる。前者は、客体的困難であり後者は主体的困難である。

a)聖書解釈の客体的困難とは 
聖書の二重対象性による困難である。聖書は二つの形式的性格を有している。「正典」としての性格と「文献」としての性格である。聖書の解釈はその性格に即したものとなる。一つの学の方法が、「自己解釈的概念」(ヘーゲル)であるとすれば、この聖書の有する二つの相異なった性質は、当然それぞれの自己解釈的概念としての相異なれる解釈方法を持つことになる。一般文献解釈にない困難性がそこにある。
聖書が「文献」と考えられる場合には解釈の目的は過去の事実の保存である。「時・所・事」とを正確にとどめるためである。文献にも「公」と「私」との別を有する。個人的書簡(ピレモン書、伝道の書)、歴史記録で「公的」なもの(歴代志略、列王紀略)。これらがある時代に一つに纏められると一種の「公的記録」の性格になる。「文献」であることには変わりはない。ここでは「文献」は「基準」的への参考であって必然的性格ではない。どこまでも方法であって真の対象となるのは「事実」を保存するためである。
聖書内の個々の発生条件がどうであろうと、結集せられて「正典」となると、そこに新しい性格を持たせられる。解釈の問題は「正典」としての聖書の「言葉」の言うことであって、その背後に想定される「事実」ではない。背後の資料は多い方がよいが、それはあくまでも第二次的重要性しかもたない。聖書正典にたいする傍系資料との対照研究の結果、誤っていることがあっても、聖書の言葉は捨てられない。正典の「言葉」の意味を明らかにする補助である。
「文献」としての聖書解釈は、記録の「背後」の「事実」のために生まれた方法として解釈せられるし、聖書学的立場に立つ限りにおいて、「正典」としての聖書解釈の場合にはそれ自身の「言葉」の言うことが目的であってその背後の事実は、どこまでも参考にすぎない。
聖書66巻、その発生の一切の条件を異にした諸書が、「正典」として結集せられたときは、すでに「正典」としての意味が付与せられ、かつ「正典」としての理解が求められるのであって、「キリスト教会の正典」としての客観的な正典性がそこに存在する。それは歴史的事実であるとともに客観的事実であるので、もしこれを否定し認識しないとすれば、その解釈者の前には「聖書」という書物は存在しないことになる。聖書は単なる古代イスラエル宗教文献、原始キリスト教文献でしかないことになる。歴史的事実としての「正典」なる事実を認識しないとすれば、その人は聖書解釈者になることはできない。何故なら、その人にはその「対象」がなく、研究目標の聖書なるものの「対象性」が失われてしまっているからである。
一方、聖書の「正典性」のみを肯定して、その文献性を否定し、聖書の文献性を無視する人もある。現実的な事実として、聖書が一つの文献であることは、より事実であり、正典であること以上の現実性を持っているといえる。二つの性格の解釈存在を見る。そこに相違性がある。「文献」としての聖書解釈は文献的歴史解釈であり、「正典」としての解釈は正典的神学的解釈である。
18世紀よりの啓蒙合理的解釈が主導する過去では、文献的歴史的解釈のみが学問的環境の中で認められ、正典的神学的解釈は考えられなかったのであった。そこで、正典性の理論を理解するときこの二つの解釈は認めるべきであるといえる。しかし、そこには如何にして関係づけるかという困難がある。
更に、文献として聖書解釈は「著者」を目標とする解釈であり、「正典」としての解釈は聖書の「結集者」を目標とする解釈となる。著者を目標とする解釈とは聖書の個々の書物を構成している資料の個々の著者の方向に目的を置いて解釈することであって、聖書を史料別に解体して、その著者の方向に解釈していくことである。一方、正典としての解釈はこれと反対で聖書の「結集者なる教会」の結集意図―即ち、信仰−にしたがって聖書の現在の一巻としての形で解釈することを意味する。(現代聖書学はこれを認めない)正典は原型の一巻としての聖書しかない。聖書の正典性を信じることは個人の自由であるが、聖書が一巻の正典である事実を無視することはできない。正典としての聖書を解釈するとは一巻としての現形の聖書をそのまま解釈することの意味を言う。しかし、「正典としての解釈」の問題は教会(結集者)の結集意図が各巻の著者の意図に代わって解釈者の解釈目標になる。そこに矛盾があり、困難がある。この矛盾のために近代聖書学の解釈は正典的聖書解釈を無視してきている。もちろん保守的神学者の正統主義的神学論はあるが、学的一般妥当性を欠いているという批判があり、対抗する一般理論の確立なく受容した結果であると見られている。聖書は「文献」であり「正典」であるがそれは現実的には一巻である。その性格に即せる二つの解釈も、二つの解釈として放置されるべきでなく、その差異が止揚せられるべき事になる。これは聖書の二重対象性からくる困難な課題である。

b)聖書解釈の主体的困難とは
聖書解釈の主体的困難とは解釈者の主体的な面を意味する。解釈者自身における恒久的被制約性による困難である。聖書解釈の本来の目的は聖書本文の述べていることを、それが意味するとおりに理解することである。聖書の言うことに傾聴せず、解釈者自身の前提、また、先入観を聖書に読み込むことは強釈(Eisegesis)であって解釈(Exegesis)ではない。「彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこし、自分の滅亡を招いている」。(Uペテロ3:16)と聖書は強釈への警告を言っている。解釈者自身の見解で聖書の意味を曲解することになる。聖書理解には無前提性、換言すれば虚心に望むことが求められる。しかし、現実には個人の民族として文化や習俗に恒常的な被制約者であることは免れ得ない。そこに、無前提性が要求せられ、一方では、絶対的制約が現実にあるということである。そこには聖書解釈のジレンマがある。過去の聖書解釈者はそこに矛盾を自覚していた。また、誤れる多くの聖書解釈法はそれを解決しようとする信仰的願望であったといえる。
即ち、無前提的理解と解釈の要求を持ちながら、他方には絶対的制約の事実(現実)の狭間で解釈上の矛盾と困難が存在する。

c) 正しき聖書解釈の「条件」
聖書解釈の正しさの「条件」とは何か。
@、聖書解釈に対する要請を満たしうる解釈であること。
A、不可避的困難を超克する解釈である。
 @、第一「条件」たる聖書解釈の要請は、聖書解釈が「聖書」の解釈として目標を見失うことのなきようにする解釈である。「聖書の性格」を明らかにする解釈である。聖書が聖書でなくなり、単なる古代イスラエル宗教の文献、原始キリスト教の文献の集成の解釈で終わることは本来の意味を失うことになる。聖書の解釈は進めば進むほど対象である「聖書の性格」がますます明らかになる解釈に意義がある。歴史的文献批評や宗教史学的解釈は卓越せる特徴を有しながらこの条件はまったく不十分であり、不完全であるといえる。
 A、第二の「条件」、不可避なる二つの困難を超克する解釈とは相容れない文献的歴史的解釈と正典的神学解釈との完全な理論的関係解明である。そのいずれを否定しても(無視)しても満たされない。ただ一つに、聖書を記録として解釈する文献的歴史的解釈が、それ自身の論理によって、それ自身の不十分性を暴露するようにさせることによってのみ、この条件は果たされる。「文献」として聖書を見ること自身、正しくはない。また否定できないことではあるが、それが「聖書」である以上、不十分なのであるから、その文献性に即せるこの解釈も不十分であるべきはずである。そうだとすれば、それ自身、不十分な論理の上に立っているはずであるから、その不十分性が当然その論理によって、暴露せられるべきはずである。ゆえにこの性格に即したるこの解釈も、同様にまた、それ自身は不十分であることを、それ自身の方法論的論理により、自己暴露することになるはずである。しかしてそのとき、はじめてそれ自身で「正典」としての聖書解釈に飛躍することができる。このとき上述した二つの解釈がはじめてその矛盾を止揚し得たということができる。
人間の営みと聖書解釈は不十分たることを免れえないし不断に不十分性を知らされる。正しき解釈をのぞみ得ないのか、しかし、一つのことによってのみ正しい解釈が得られる。人言としての聖書の神言とされるための唯一の条件は「聖霊によって内示的証明」によってである。換言すれば、聖書は人の言葉で記録されているが「聖書」そのものが語りかけるとき「聖書」を通して聖霊が正しい解釈へと導かれる。「主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く槌のようではないか。」(エレミヤ書23:29)霊感された正典としての聖書を通して聖霊は解釈者に人の言葉で表記された聖書を、人に神の言葉と認識されるのである。通時的な相対的一般史の中で全歴史を通して神の計画を啓示されたが、絶対的にして決定的な一回的な神の出来事をとうして神の真意を啓示された。それがイエスキリストの出来事である。その福音の真理を聖霊に教示され、受容ないところには正しい解釈は成り立ち得ないことになる。正典としての聖書がそれぞれの書巻としての文献性でありながら福音の光(聖霊)によって神の御心を解明し、すべてのテキストは神の言葉、預言の言葉、説教として「あなたのみ言葉はわが足のともし火、わが道の光です。」(詩篇119:105)と告白するのである。





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