「聖書的説教とは」
 
アドバンストスクール公開講座〈説教の前提U〉
聖書解釈と文献批評の今日的課題
発題 廣瀬利男


7.聖書の正典性と歴史的文献批評学の相克と克服



7.聖書の正典性と歴史的文献批評学の相克と克服

1)聖書正典論の意義
  キリスト教会の絶対的権威なる聖書は理解されるときにその権威性が表される。原著者のうちにあった「原理解」が人の「解釈」によって、解釈者のうちに「追理解」として再現されるのである。文書の理解はその「解釈」によって、「追理解」として再生される。そこには正しい解釈があって教会の絶対権威なる聖書の権威の具現性の決定的条件になる。聖書を解釈することは聖書の語る意味に聞くことであって、(Exegesis)を読み込むことではない(Eisegesis強釈)。前者は文書自身の要求する「解釈せられ方」であり、後者はこれを無視して解釈者の主観によって理解しようとするものであり過てる解釈である。
  聖書の二つの性格、即ち、個々の原著者自身の理解があり、これらの書が一冊の「正典」として結集せられたとき、結集者なる教会は、一巻とせられた書物に教会自身の理解をもっていた。そこに私的文書としての性格と公的文書の性格、即ち、「正典」としての理解があることになる。そこには公私両性格の文書に即応して解釈方法が求められる。新教の歴史では前半の時期において聖書は公を中心にもっぱら解釈がおこなわれ、後半では私的文章としての「文献」として解釈のみがおこなわれてきた。その中間の過渡期では、この両解釈が相克しつつ相対峙しておこなわれた。これらの両性格に対する両解釈がそれぞれの独自性を認められながら会い並んで相補的におこなわれることはなかった。そして後半では私的「文献」の発生的違いが追求されていている。そして公的性格の「正典」としての性格が見失われ、否定されてきている。私的文章の研究は進んだが、公的文章の資格を無視したことは批判さるべきである。そこに残るのは聖書の正典性を破棄するのか、これを堅持するのかになる。この差異はプロテスタントの信仰の根本的本質を問われていることになる。
それへの応答は聖書が一巻の書物であって「正典性」と「文献性」とを不可分離的に同時に持っているゆえに、両性格が両極的に把握せられて緊張に関係付けられて可能となるといえる。

2)正典性理解の確立
近代において自由主義神学は聖書の神言性と正典性を相対的に無視してきた。一方、聖書の神言性は真剣な研究がされているが正典性への関心は殆どない。神言性のみがあって正典性が考えられないところには聖書の正しい権威は確立できない。聖書の神言性と正典とは本質と形態―機能の関係であって絶対に付加分離の関係であるといえる。だから聖書が神言であるときは必然的に正典であり基準となるべきものである。聖書が正典として受け止められるときには聖書は神言として受け止められることになる。これらは二つにして一つ、一つにして二つであるといえる。両者は付加分離である。(聖書の神言性のみが考えられて正典性が考えられないときには正しい聖書の正典性は考えられない。“新正統主義”)
聖書の権威の裏づけは聖書の正しい解釈にかかっている。聖書の正しい理解と解釈とはその正典の正しき理解なしには構築できない。
聖書を正典として容認することは、聖書を歴史批評的に解体して史料化しその部分を神言化して信じるのではない。正典は教会が結集し、今日の「現形」の聖書をいい、一体となっている一巻の書物を言うのである。資料的に解体されたものは正典ではない。それはイスラエル宗教古典であり原始キリスト教文献でしかないのである。それは生きた一人の人間の体と解剖しばらばらになった肢体や臓器の総和との関係のようなものである。
この両者の間にどのような差異があるのかと問うのは、それが精神によって統一され生命の躍動する「生きた人間」であったときの記憶おいて設問しているのであって、この両者と呼ばれる今、別々の存在たることを認識しているのではない。この不認識が矛盾と感じる原因であるといえる。一方では全体と部分の論理が理解されず、部分の総和が全体であると考えた誤謬にも原因がある。確認しておくべきは「一つの全体をなしている現形の聖書正典」ということである。
正典性の理解は、一面的であったり、部分的であったりしてはならない。正典としての聖書理解の基本的な要件から考察すると、「時、所、位」の面から理解することができる。@「時」とは時間的、歴史的理解であり、理解の対象を「時間」において理解することを求めることである。発生的歴史的理解である。A「所」とは場所的論理理解の意であって、理解の対象を「空間」、それが置かれている場所において理解することである。B「位」とは位置的理解であって理解の対象からその位置しているところで理解することであってその対象が所属している「全体」、とくに「統体」における部分としての位置づけからの理解を言う。以上のことは正典理解になくてならない要件であるといえる。三つの理解は三つの立場を示している。それはより低きから高いものへと、それ自身の不十分性を顕わにしつつ上昇する断絶的上昇を表しているといえる。
このような論理を理性的に理解し、究極点では信仰によらずしては理解不可能なることを示すことになる。

3)宗教改革以降の正典観の変遷
正典観の変遷を概観し、その性質を理解することによって現在の問題を始めて検討することができることになる。宗教改革以後2百年は正統主義、その後、自由主義神学の台頭、その経過の中庸主義、そして弁証法神学の正典観である。

a)正統主義の正典観
正統主義の正典観は一般的に逐語霊感説と言われる。これは聖書66巻は直接的霊感によって記されたものであり、著者は聖霊の「書記」であり「手」または「筆」であるとし、人為的な参与を否定する立場。一面的に聖書の正典性によって文献性を理解することになり、事実的に聖書の人言性と文献性は否定される結果、聖書無謬説となる。宗教改革以後においてローマ教皇の絶対権への新教の対抗として「聖書のみ」の信仰原理に基づき「人の教皇」に対して「紙の教皇」擁立の結果、逐語霊感説を立てた。それは極端になり、旧約聖書のヒブル語母音の霊感説となる。欧州では大きな影響の流れになりえず、米国のプリンストン神学校のB・ウオ―フィールドによって受け継がれる。彼は、「神言にして人言なりと一息でいう」べきと主張した。人間の言語や表現で、人間の手で書かれ、現実に実在する聖書を絶対的に無謬とすることによって「人言なり」といわれる側面が事実的に否定されることになる。この観点で聖書の神言性と正典性を主張することによって聖書の権威が保たれ、旧約外典編入問題おも克服したことは評価されている。その評価とは別にして一方では聖書の神言性と正典性の一面的主張において神言性と人言性、正典性と文献性の両極的性格は失われて、その緊張的理解も失われることになる。そこでは聖書正典観の基準は無視せられてしまうことになろう。

b)自由主義神学の正典観
自由主義神学の聖書観は自動的結集観に立つ。それは聖書正典を人為的歴史的な生成とし、その背後に神的なる働きを認めない。聖書の文献性によって正典性を理解する。聖書の正典性と文献性との両極性は失われ、正統主義神学の聖書観とは正反対の誤謬があることになる。これは啓蒙主義の台頭とともに合理主義による歴史的批評聖書研究から生み出されてきた。J・アイヒホルンからF・シュライエルマッハーを経てチュービンゲン学派、そしてヴエルハウゼン学派の宗教史学派の聖書学となり神言性と正典性の全き否定となる。そこでは正典性否定が神言性の否定に先行したのである。ここでは聖書の神言性人言性、正典性文献性の両極的把握とか緊張理解がまったく無意味になってしまった。正典性は棄却するべきものとなる。

c)中庸主義の聖書観
この聖書観は自動的結集観に立ち、正典性と文献性を並列的に理解する。それはひとつの歴史的人為行為にすぎず、個人は必ず正典を認めるべきとはせず、個人の信仰において正典の一部を自己の正典として受け取るにある。即ち正典中に正典と文献とを自己の任意で分離することを意味する。以上の二つを並列的に理解する。それをするのは「内なる聖霊の証示」である。それは教会の正典結集という歴史事実の聖霊の導きを否定することになる。個々人の聖霊の内的証示による選択の結果が正典決定の基準とするという。
聖書の歴史的研究が発達した19世紀中葉に正典結集が必ず、確定的になされたものでないという見解から、正典結集者の神的起源中心的指導を見ることができなくなった結果である。正統主義と自由主義の間にあって、「聖書の一部は神の言葉である」と「聖書の言葉は人言である」ということをともに肯定し、「聖書は神の言葉を含む」という立場に立つことになった。聖書の神言と人言よりなる両極性を恣意的に解体、分離し一方を神言、一方を人言とし聖書の主観的評価と客観的評価とが生じることになる。どの部分が神言か、人言かを「聖霊の内的証示」として都合のいい主観的判断に依存する結果となる。

d)弁証法神学の聖書観
弁証学神学の聖書正典の他動的結集観である。正典性と文献性を区別し、そして行くところこれを分離することになり、そこに特徴と誤謬がある。他動的結集とは教会による結集であることから歴史的人為的であることを認め、しかもそれを越えたところに聖霊の導きを信じることを意味する。正典性に二性格が付加分離なるものではあるが、絶対的に区別せられるといい、区別が限界を超えたために両者の緊張関係が切断されて、そこに分離が生じる。それは現正典を確実なものと見づ、神による「原正典」と人間によって受け取られた可謬性かつ、永久性を欠き、正典が限界性の否定に終わっている。そこに正典性と文献性の分離のきわみとなり正典性の限界性否定が明らかになる。
特徴的な聖書本質観は「聖書の神言と人言の緊張関係に立ち、聖書は神言であり人言であるといい、しかしこの神言で《ある》のは、それが聖霊によって神言に《なる》のである」と主張する立場である。
以上の聖書正典観をまとめてみると
a、 正統主義―聖書は神の言である。
b、 自由主義―聖書は人の言である。
c、 中庸主義―聖書は神の言を含む。
d、 新正統主義―聖書は神の言となる。   
  弁証法神学は一つの矛盾を抱えている。聖書の人言が聖霊によって神言と「なる」とすることになると、当然聖書の文献が聖霊によって正典に「なる」というべきである。しかし、ここでは前者は主張されるが、後者はその半分しか主張されない。聖書の正典性の絶対性にはその永久性と限界性の否定において認めるのである。
  正典の限界否定はもしケリュグマ(福音宣教)を含んでいるなら、その限りにおいて正典外の書物、即ち、外典的書物をも「聖書」として認容するとした。(バルト1923年キリスト教世界)
さらにバルトは教会教義学(第1巻、1編)で「正典は決して人間の決定の理由によって正典になるのではない。それは正典であるから正典である」と言う。しかし、その2編では天的正典に対して地的正典、神的正典に対する人的正典、可謬の正典に対する不加謬の正典という峻別となる。そこでは正典の限界性の否定となる。そこには神的なるものと人的なるもの、地と天の厳密な異質性による思考原理によるものといえる。
ここでは聖霊の内的証示が語られても主観的なる正典観に対する一つの言い逃れに過ぎなくなっている。「聖書は神言であって人言であり、それが神の言であるのは、それが聖霊によって神言となることにおいてである」という聖書の本質観を基本にする正典観は必然的に、聖書は正典にして文献であり、それが正典になるのは、それが聖霊によって正典になるべきであったが、そうならなかったところに欠陥があるといわざるを得ない。




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