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「十字架の愛と復活のいのち」
人の生涯と希望
 五木寛之の「人生の目的」という本がロングセラーになっているという。読んでみると「万人に共通の目的などと言うものはない」といっている。結論は「生きることが目的である」という。何のために生きるのか?これが目的ではないのだろうか。
 聖書は「自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい。」(聖書 第1コリント 6:20)といっている。人生の目的は神の栄光をあらわすことに尽きる。神の栄光とは神の偉大さ、素晴らしさ、充全にして完全をあらわすことを意味している。神は世界と人類を創造された。神の栄光をあらわすため、神そのお方が自己啓示されるためである。

人間の罪と悲劇
 しかし、現実は全ての人は「死に至る存在」であって、死が人生の終着駅である。
死後のことを考えると不安と恐怖が人を襲う。神の栄光を表すどころか、その人生は不安と孤独と絶望であるといえる。果てしなく淋しく、悲しいのである。聖書はその原因を「全ての人は罪を犯したために、神の栄光を受けられなくなっている。」(聖書 ロマ 3:23)と指摘している。
 創造の始め、神は神の栄光をあらわし満足された(聖書 創世記 1:31)。又、神はご自分の愛を表すために人をご自分に似せて創造された。そして、神は愛の証として人が生きる事ができるように万物を創造されている。
人類の始祖アダムとエバは神を信頼する美しい交わりをもっていた。
 聖書は人間の死について、聖書 創世記の2〜3章で述べている。
神は愛の証しとして禁断の木を置かれた。しかし、アダム達は神の真意を疑い、約束を破り不従順と自己中心となり自己に頼るという罪を犯してしまった。罪は神を見失うことによって生じ、交わりを失い、祝福を失った。聖書は死を自然の成り行きとして証言していない。
それは、神との断絶によってもたらされた罪の結果であると宣言している。「罪の支払う報酬は死である。」(聖書 ロマ 6:23)
神との交わりを失うことが罪の原因である。
人の罪性―原罪は人の生活の全ての中で果てしなく続く争い、憎しみ、欲情の奴隷、罪深い現実として現れる。そして、生きる目的を見失い、死が生きることの虚しさと不安と隣り合わせになる。人間の霊の死が肉体の死と一つになる。


神の愛とキリストの救い
 神は真実の愛を歴史の中で示されている。それは「敵をも愛する愛」(聖書 マタイ 5:44)としてキリストが示されている。
自分にとって価値の無いものを愛し、そのためにでも犠牲をいとわない愛である。
神は栄光と祝福を失った人間に神が愛であるが故に救いの道を示された。それがキリストの十字架の出来事である。「私たちの罪のためにあがないの供え物として、御子(イエス・キリスト)をおつかわしになった。ここに愛がある。」(聖書 第1ヨハネ 4:10)そして、イエスは三日目に甦り、キリストを信じる者がやがて再臨の時、甦る保証となられた。


復活の保証と力
 「わたしはよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとえ死んでも生きる。」(聖書 ヨハネ 11:25)と約束されたのである。キリストの復活が終末の復活の保証となる。
そして、いまキリストにあって、信仰によってその終末が始まっている。真実に罪を悔改め、キリストを受け入れ神との交わりを回復する時、死は永遠の生に変えられる。それが、人生の目標となる。神を信じ、愛する者にのみ約束される永遠の命の愛の原理を今生きる者とされる。キリストを信じることは罪に死んだ生活が変えられ、神に喜ばれる栄光の人生に変えられることである。それは、永遠の命の「しるし」としての証である。


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