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「無条件の赦し」-元やくざの証し-

「その愛こそが再起の力...」



「人間、まじめに苦労しても、どうせ死ねば、灰になる。それならば好き生きてやれ。」
そう考えて、四十年前、やくざの世界にとびこんだ若者がいた。
しかし、その行き着く果てに、家庭の破壊と覚醒剤中毒による身の破滅が待っていた。
もはや再起の力を失った彼に、無条件の赦しによる愛の手が伸べられ、そのときから方向転換を遂げることができた。
その人――高原芳郎さんが半生を語る。

1940年生。二男の父。やくざ生活20年
のち、クリスチャンとなり、家業の造園
業を再興し「高原造園」を経営。
「ミッション・バラバ」初代会長。
国内、米国、南米世界各地で講演活動する。


◆ミッション・バラバの仲間と共に

 先日、家族と一緒に車で信号待ちをしていた時のことです。酒酔い運転の対向車がいきなり正面からぶつかってきました。
私の車は“全損”で廃車にするしかなかったのですが、私は無傷で、家内と息子は胸を打撲しましたが、間もなく完治しました。
あとで知人に話すと、「大事故だったのによくもご無事で…。神様が守ってくださったんですね」と驚いていました。
警察官は、私が「加害者を何も処罰しないでください」と言ったものですから、驚いていました。叱られる覚悟でお見舞いに来た加害者にも、こう言いました。
「私は昔やくざでしたが、神様に罪を赦されました。だから、私もあなたを赦します。これからは飲酒運転をやめてください。それだけが願いです」同行した息子さんは涙ぐんでいました。(ああ、赦せないはずの人を赦すことができた私の心は喜びでいっぱいでした。人を無条件に赦すことがこんなにもうれしく、自分自身を自由にするものだとは・・・)
世界中の金塊を目の前に積まれても、この自由と交換する気はありません。昔の私だったら、人の過ちを赦すどころか、弱みにつけ込んでゆすり、脅し続けたでしょう。しかしイエス・キリストは、赦されるはずのない罪人の私を無条件で赦すために、クリスマスに降誕なさり、十字架にかかってくださいました。
この神様を信じた時から、神様が私を造り変えてくださったのです。

◆好き放題生きてやる!

 私の父は姫路で祖父の代から続く植木屋でしたが、女性関係をめぐって母と喧嘩が絶えず、私が小学生になったころ、家を出て他の女性と暮らし始めました。思い余った母は、一人で神戸に出て働きだしました。そうすれば夫は戻ってくると思ったのです。しかし、私の父は戻ってきませんでした。19歳になる私の兄が家業を継いだものの、生活は苦しく、生きることに疲れ果てた兄は21歳で電車に飛び込み、自殺してしまいました。

私と姉は、ひもじさのあまり梅干しの種を割って中身を食べたほどでした。2年後、私が小学5年生の時、母は熱心なクリスチャンとなって戻ってきました。母は家政婦をして働き、私もアルバイトをして家計を助けました。そのころ、母を喜ばせようと思って教会で洗礼を受けたのですが、信仰がよくわからないまま、間もなく教会を離れてしまいました。

 中学3年生の時、修学旅行費が払えず、私だけが参加できませんでした。
「俺は何でこの家に生まれてきたんやろう。」そう思うとくやしくてくやしくて、親を恨み、世間を恨みました。それでも造園業をしている親戚で懸命に社事を覚え、近所でも評判の模範青年でした。

 19歳の時、意を決しで父の家を一人で訪ね、「どうか家に戻ってください」と涙ながらに訴えました。しかし父は、私切なる願いを聞いてはくれませんでした。(これでも父親か。わが子がこんなに頼りにしても、家族を苦しめて好き勝手に生きても、どうせみんな死んだら焼かれて灰になるんだ。それだったら俺はやくざになって、好き放題生きてやる!)
 こうして、やくざの道に入り、忠誠心と律儀な性格が買われて、親分のボディーガード役と賭博に明け暮れる生活が続きました。

25歳の時、後に結婚することになる千代子と出会いました。彼女は、20歳で初めでダンスホールに行き、そこで私に引っ掛けられて付き合い始めたのです。
OLの千代子は水商売の女性にはない純情な雰囲気を持っていて、字もすごくうまかった。無学な私の片腕になってもらえると思い、惚れ込んだのです。千代子は堅実な家庭でかわいがられて育ったせいか、人を疑うことを知らず、明るく積極的で、友だちもたくさんいました。会社員だと偽っていた私を疑いもせず、9年問付き合って結婚しました。

 私たちは母に誘われて、教会に通いだしました。家内は「お義母さんの信じている神様なら、絶対間違いない」と言い、洗礼を受けました。でも私たちは、名ばかりのクリスチャンでした。私は賭博で儲けても、舎弟におごったり、商売女に貢いだりしてすぐに使い果たしてしまい、家内の貯金を使い込み、彼女の実家にも借金しました。それを家内になじられると、気が狂ったように暴力を振るい、物を投げつけました。

この人は人間と違う。狂ってると家内が嘆いたのも無埋はありません。親からも殴られたことのない家内が、身も心もボロボロになって、たまりかねて実家に戻ってしまうと、私は追いかけていき、包丁をかざして義父を脅します。仕方なく家内は戻ってきますが、義父が連れ戻しに来ると、私は「連れて帰えれるものなら帰ってみい!」と啖呵を切って、クルッともろ肌を脱いで、刺青を見せて脅迫しました。

そんな生活でしたが、結婚一年半で長男が生まれました。この子は生まれつき脳性小児マヒでした。その原因を家内は夫婦げんかのたびに私が家内の腹を殴ったせいだと思い、私への恨みを募らせていったのです。

◆覚醒剤中毒からいやされて

 2年後に次男が生まれました。子煩悩の私は、子供たちのためにも何とかしてやくざの道から足を洗わなければと思って、焦りだしました。

やくざの世界では、巨額な覚醒剤の密売事件が時々報道されて世間を騒がせています。しかし覚醒剤をやくざが自分で使いだしたら、仲間から嫌われます。いったん中毒に陥ったなら、覚醒剤欲しさに仲間に嘘をついたりで、手段を選ばなくなるからです。そうなれば組織から追い出されます。覚醒剤中毒の怖さをいちばんよく知っているのはやくざかもしれません。

私はやくざ組織から出るために、あえて中毒になるまで覚醒剤を使い続けました。その費用を作るためにサラ金から借金をし、家内の着物や電気器具まで質に入れるという始末でした。

 家内はついに息子たちを連れて実家に帰ってしまいましたが、私は息子たちを強引に連れ戻しました。でも私の体は、覚醒剤中毒によって恐ろしい幻覚にさいなまれるようになっていましたから、幼い息子たちを世話するどころではありません。そんな自分に愛想が尽きて、ひと思いに父子心中してしまおうと考えました。

 息子達に「お父さんと死んでくれるか?」と聞くと、二人とも死の意味もわからないままうなずきました。それで二人を寝かせ、まず長男の首を絞めようとしたら、私の顔を見て、にっこり笑ったのです。私はもうそれ以上手を下せなくなって、子供たちを家内の実家に帰すしかありませんでした。

 家内は家庭裁判所に離婚の調停を申し立て、離婚が成立して旧姓に戻りました。間もなく彼女は、私に内緒で市営住宅に移って、内職をしながら5歳と7歳の息子を育てていったのです。覚醒剤による幻覚はますますひどくなり、半年後には精神科に入院しました。その際、医師が義兄に「まだ大丈夫、治ります」と言っている声を聞いて安心するとともに、初めて「神様、助けてください」と祈りました。

 いつも私のために涙をもって祈り続けていてくれた母や姉夫婦、そして教会の牧師先生や教会員たちは、私の回復を熱心に祈ってくれました。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主(神)はその人を立たせてくださいます。」(ヤコブの手紙5章15節)聖書がこう語るとおり、私はわずか1週間という、常識では考えられない速さで回復しました。それを機に、20年間のやくざの生活から足を洗って、親戚の造園業を手伝い始めました。切り詰めた生活に耐え、サラ金への数百万円もの借金も、きちきちと返していきました。親不孝を重ねてきた罪を神様と母親におわびして、教会にも通い始めました。

◆罪赦されて復縁して

 家内と何とか縒りを戻したい、息子たちにも会いたい。その一心で私は市内をくまなく巡って居所を捜し歩き、間もなく不思議なくらいあっけなく見つけだしました。神様の導きと言うしかありません。
 早速おもちやを手みやげに訪ねていくと、玄関に息子たちが飛び出してきて「あっ!お父ちゃんや、お父ちゃんや」と口々に言って大喜びで飛び付いてきました。

でも家内は復縁する気がありませんでしたから、私も玄関の外で立ち話をするだけにしました。
しかし、何度も訪問するうちに、家内は玄関の中に入れてくれて、やがて部屋に上げてもらえるようになり、「晩ご飯、食べて帰る?」と聞かれるまでに関係が修復していきました。

 毎月わずかでしたが、私は子供の養育費を欠かさず届けました。息子たち、ことに体の悪い長男を見捨てたなら、世間から大畜生にも劣ると思われる、それだけはしたくない。
そんな私の気持ちが、家内にも通じたのでしょう。

「人を赦さないなら、あなたがたの父(神)もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイの福音書6章15節)。

市内の教会に通っていた家内の心に、聖書のこのことばが、(さあ、あなたはどうするのですが?)と促すように問いかけてきたそうです。

◆家内は“宇宙一”

 「息子たちは私の手で立派に育てて見せる。あんなやくざ者の主人なんか、おらんほうがええ」 家内は私と暮らしていたころからそんな気持ちになっており、長男の手足の機能回復訓練に夢中でした。
「主人に寂しい思いをさせていた私も悪かった。主人を赦さないと、私も神様から赦していただけないのではないか……」家内は心の中で自分にそんな問いかけを繰り返し、神様の導きを祈り求めていく中で、自分なりに結論を出したのです。

「子供たちのためにも、もう一度主人とやり直そう。あの人は、根は優しい人やから。」
こうして1980年、離婚5年目にして復縁しました。家内があとで一言いました。
「長男は、神様が私たちに下さった“かすがい”だったんやね。今になってそれがよくわかります。」

 復縁して問もなく、大阪・日生球場で行なわれたキリスト教の大集会に一家で参加し、ビリー・グラハム(歴代合衆国大統領とも親交のある、有名なアメリカ人伝道者)の話を間いて信仰が強められました。その時から一家そろって教会に通いだしました。

 かつては、人問はどうせ死んだら一巻の終わりで、死んだらみんな灰になるんだと思っていました。でも、そうではない。イエス・キリストを信じるなら、どんな罪人でも赦されて永遠のいのちをいただき、天国に行けるとわかったのです。
 「神は、実に、そのひとり子(イエスキリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書3章16節)
聖書も、このことばでそれを保証しています。

そればかりか神を信じる者は、この世で生きている間も、神様の祝福をいただけるのです。
私の場合、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(ルカの福音書6章31節)と言われる神様に従って働き、1985年には独立開業することができました。

名刺の裏には所属教会と所在地を印刷し、「私はクリスチャンです」と名乗ります。酒もたばこもやらず一心に働く私を見て、一度頼んでくださったお客様が次々と知り合いを紹介してくださり、一軒のお客様から始めたこの仕事が、今では百十軒にまで増えました。

 1993年にはかつてやくざだったクリスチヤンのグループ「ミッション・バラバ」に加わり、翌年、皆でアメリカ、カナダへと1ヵ月間伝道旅行を行ないました。中学生のころ、修学旅行にも行けなかった私が、この旅行を皮切りに、何と米国、韓国、プラジル、イスラエル等へと伝道旅行に行くようになったのです。人間の想像を超えたことをなしてくださる。それが私の信じる神様です。

 家内は9年前から、長男の通う身障者施設でボランティアを続けています。長男(27歳)は市の授産施設で陶芸に打ち込み、次男(25歳)は会社員です。2人とも親孝行で、私と家内を温泉旅行に招待してくれたこともあります。
2000年3月には、土地付き新築住宅を購入できました。300坪の土地も仕事用に無償で使わせていただいております。

 かつては放蕩のため、親譲りの広い家と土地を手放しでしまった私ですが、神様が取り戻してくださいました。家内は「高原と結婚してよかった。今は本当に幸せです」と言ってくれます。
こんな私を赦して支えてくれる家内は世界一、いや“宇宙一”です。

それにしても、キリストを信じることほど幸せな人生はありません。このことを生涯命懸けで伝えたい。そのためなら、どこにでも行くつもりです。


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