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「人間の死と希望」
死に対する疑問
 人間の生涯は必ず死で終わるが、聖書には「神は人間の心に永遠を思う思いを与えられた。」(伝道 3:11)と記されている。
人は人生の死が終わりで、消滅であることを不自然に感じる。だから、「何故、死ぬのか」死の解決を求めることになる。


日本の風土における永世観
 日本の社会風土での死をめぐる永世観は俗信、神道、仏教などの宗教が混交(シンクレティシイズム)して一般化されたものとなっている。日本的風土として人間は「死んだら仏になる」というように素朴に納得して受け入れるきらいがある。
古来の伝統によれば、死者は葬られ朽ちていくという風土に死霊を直感して、死は忌まわしく、恐ろしいものとした。そして、怨霊として人々の生活を支配し「祟(たた)る」と考えた。
日本の宗教の心的(ハビタ)習慣(タウス)は「たたり」である。「たたり」による死や災いからの厄除(やくよ)けが必要となる。やがて、仏教思想の生老病死から来る人生苦、輪廻(りんね)転生(てんせい)、因果報(いんがほう)応(おう)の消し難い人間の業(ごう)(穢れ、欲情)からの救いを与えるものとして浄土思想の念仏が説かれ、無限の穢土(えど)から安楽な浄土に至る永世観が土壌となっていく。


人生の無常
 そこでは生者と死者は死で隔絶されるものではなく、供養によって死者は祖霊となって子孫を守護し安泰とすると考えられる。盂蘭盆会(うらぼんえ)の習俗に見られるように、祖先礼拝が守られ、死者は受容されるようになる。
しかし、依然、「たたり」の恐れ、日本仏教の原風景ともいわれる恐山円通寺(青森県)に見られるように、「いたこ」(巫女)と死者との交流がおどろおどろしい鬼気を感じさせ、火山岩の丘陵を三途の川として死者の旅路を一人行く哀愁を漂わせる。
やはり日本の永世観の根底には、生死の離別は果てしなく淋しく不安と孤独、迷いの暗夜をさまよう解決のない「諦め」の凝縮をみる。


死を克服するキリストの甦り
 聖書は「死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(コリント第1 15:54)といっている。
「死のとげ」とは苦悩、孤独、不安、絶望、悲嘆で覆われている人生をいっている。
「しかし、感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜った。」(コリント第1 15:56)「勝利」とは解決である。「キリストを信じる者は、すべて永遠の生命を得る。」(ヨハネ 3:15)と聖書は約束している。


永遠を今に生きる
 永遠とは無限の時間である。死は有限の時の終わりであって、存在と時間とは切り離せない。時は未来から来て、現在となり、瞬時に過ぎて過去となる。
死とは「止まる今」、即ち、時間の消滅である。しかし、キリストは無時間となる死ではなく、永遠、即ち、無限の時間に生かして下さると約束している。
 「わたし(キリスト)を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ 11:26)といわれている。
これは正に、滅びない現在であって、将来と現在の完全な時の一致である。「永遠の今」を生きることである。


体の甦りと永遠の命
 キリスト教の信仰は事実にもとづいている。神は歴史の中で神が愛であることを啓示され続けてきた。「わたしを信じる者は永遠に生きる」といわれたキリストは、十字架に死に、三日目によみがえると予告されていた。
その言葉どおり、事実、甦られた。キリストを信じるものの復活の保証となられたのである。
「もし、キリストが甦られなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなた方の信仰も、また、むなしい。するとわたしたちは神にそむく偽証人にさえなるのだ。」(コリント第1 15:14〜15)と使徒パウロはいっている。
 死によって肉体は消滅する。しかし、終末の日、栄光の体として甦り、神の国の民として新しい創造の喜びを約束されている。永遠の時は無なる時ではなく、キリストの命に生かされている今のわたしたちの形相の変化であって、キリストにある新しい生命の時間に入れられるのである。
桃の種は成長し木となり枝となり、花を咲かせ、実をみのらせる。形相は違うが桃の命は同じである。(コリント第1、15:39〜49)
 キリストを信じる時、今、永遠の神の国に希望をもって生きるのである。それは、神の国の原則に生きることになる。神の愛を生活の原理とするクリスチャンに与えられた無上の喜び、勝利と平安の人生である。ハレルヤ、栄光、主にあれ!



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