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「素晴らしい祈りの世界」


 クリスチャンにとって素晴らしいことは、「祈りの生活」があるということである。
「祈り」は、神様に対するお願いをする事だけを考える人もあるし、一般的に日本の風俗では、神様を信じていなくても、信じていても、「ご多幸をお祈りします」と、習慣的に言う。
 それが本当の祈りかどうかということではなくて、祈りは生ける神様との交わりであって、礼拝を意味している。クリスチャンの生活は、祈りの生活であるという時、「いつもあなたと共にいる」といわれたイエス・キリストの言葉が祈りによって体験されるのである。
 クリスチャンにとって、神と共に歩むことは生活の基本であって、神様は見えないけれど聖なる霊の人格者として、私たち信じる人の心と体、生活の中にいて、教え、導き、支え、励まし、慰めて下さるのである。祈りを通して生活の中で、神を体験するのである。
 フオーサイスという神学者は、「祈りの精神」という本の中で、「祈らないことはクリスチャンにとって最大の罪である」といっている。「祈り」は、キリストを信じている証しであり、キリストを信じて神の子とされた人は、「祈り」なくして霊的に生きることはできない。
「祈り」は、神の恵みを数え、称える感謝で始まり、神の偉大さとその力を崇めることである。
更に、その豊かな恵みを称える、即ち、賛美する時である。それは、信じていることの告白であるといえる。
 そして、神の助けの力を求め、嘆願するのである。
「信仰による祈りは病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる」(ヤコブ 5:15)と、聖書は約束している。
聖霊の力が祈りによって解決に導くのである。
 第一に、「祈り」は、キリストの十字架を崇めることから始められなければならない。「義人の祈りは、大いに力がある」(ヤコブ 5:16)と、記されている。十字架の恵みは人の全ての罪をゆるす恵みである。
「清い人は神を見る」(マタイ 5:8)と、約束されている。神とまみえることは、みことばの約束である。
「わたしたちは、イエスの血によって、はばかることなく、聖所にはいることができる。」聖書 ヘブル 10:19
イエス・キリストによって人は自分の穢れと罪を教えられ、反省して罪を悔改めて、キリストに現された神様の愛によって罪赦される時に、初めて神様に「願い求めること」ができる。
神の恵みとして、いつも、どこでも生ける神は答えを与えてくださる。エリヤも同じ人間であるが、雨が三年六ヶ月も降らないで人々は苦しんでいる人々のためにエリヤは、真実の神の力を信じて祈った。
 祈りは「雨を降らせた」のであった。それは今も信じる人によって、神の恵みを体験させてくださると言う約束の確認である。


あなたも祈ってほしい事があればいつでも教会にお出でください。お祈りします。
「全て重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。」
イエス・キリスト (マタイ 11章28節)






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