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戦争と平和


 1.悲劇の衝撃

 今ほど、真実の世界平和を人々が願い、祈っている時はない。
21世紀の第一年は世界を震撼させる同時テロ事件の悲劇を通して大きく世界は変わったといえる。
「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目を留められるならば、主よ、だれが立つことができるでしょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので人に恐れかしこまれるでしょう。
わたしは主を待ち望みます。その御言葉によって、わたしは望みをいだきます。
わが魂は夜回りが暁をまつにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待望みます。
イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
主には、慈しみがあり、また豊かなあがないがあるからです。
主はイスラエルをその不義からあがなわれます。」(聖書 詩篇130篇より)
 この詩が示すように「深い淵」、即ち、不安と恐怖の深い暗黒の淵から、うめきと叫びが響いている。
今、世界の平和と生活の安定のためには、すべての人が「共に生きる」と言うことを真剣に考え、真実に求めなければ解決の糸口はない。
夜回りが深い闇の中で孤独と不安に包まれて、暁をただ単に待つと言うのでなく、朝早く日の出と共に、献身のいけにえをささげて、神を礼拝する賛美の喜びを待つことを言っているといわれている。
闇の中で、希望も失いかけ、生きることすら苦痛になる。そのとき、全能にして愛なる神に望みをいだき、主が勝利の新しい希望の光に入れてくださることを待つことが、私達を支え、慰め、励まし、振るい立たせることになるとこの詩は言っている。


2.悲劇的存在としての人間

 人間が自然のうちに生活する時は自然と生活に調和があったと考えられている。
土地を耕作して食物を獲るようになって、農耕の道具を開発し、食物を蓄えた。

ニューヨーク国連本部前の戦争否定の像
そして、道具を持てる物がより豊かになり、その欲望は土地の拡大となり、他の者の襲撃を守るために武器が生まれ、力ある者が他を征服、支配し、果てしない争いが続いてきた。今では国連が成立し、不確かなところもあるが国境も確定している。昔とは状況は違うが基本的には力の論理は同じと言える。力とは何か。それは武器であり、戦う能力であるといえる。
過去において国は自己防衛と自己統治の力がなければ、強いものがその国をどのようにしても、何をしても許されてきた。それが習慣法といわれる国際法であったという。戦争とは正義や真 実、事実でさえも意味を持たなくなる。それは非情なものであって、勝利者によって悪でさえ正義となり、黒も白とすることができ、真実も不真実となる。
人類の歴史は戦争の歴史と言える。道具の開発と科学の進歩が武器の殺傷力を高め地球さえ破滅させる核兵器を造るに及んで、真剣に平和を考えるようになっている。


3.正義とは何か

今も、国益と言う大儀名分の背景で、IT、ボーダレス国際化、経済グローバル化の中でうごめき、ぶつかり、闘争が続き、あるときは戦争となり、姿のないテロの不安となり恐怖となってあらわれているといえる。
 時が過ぎると人は冷静に学び、隠された事実などが発見され、物事の真実を知ることになる。過去の時の正義が偽善となり、敗者の言い分も理解できるようにもなる。それでも歴史は解釈であって完全な意味で復元することはできないと言える。
土地をもとに牧畜や農業が経済の土台であった時の社会の仕組み、商業が盛んになり、工業が成長するにつれ都市が中心になり、経済が投機化して資本主義が生成して発達する。
西洋列強の国々は植民地を求めて侵攻する。自立、自衛できない国を強国が支配する。
西洋文化や価値観、即ち西洋キリスト教文化以外は野蛮で未開なるものとして、それを改善することを正義とする基準で武力をもって支配を拡大していく時代が続いた。アフリカアジア諸国は植民地化されていった。
 日本では近世に先立つこと12世紀に元寇の侵略で戦った。
そして、ペリーの来航によって鎖国が解かれ国際的に生きる国として「富国強兵」に踏み出し西欧列強の国家の侵略と植民地化を防ぐ努力が始まったと言える。
西欧超大国ロシアの南攻を阻止するため、大陸に侵攻し勝利する。そして、弱体化しているといえども東アジアの大国、中国の清国破り朝鮮半島を植民地化する。
 それは、やがて、関東軍の謀略によって満州の権益獲得につながり、西洋の政略を地でいくようになり、八紘一宇の思想で西欧列強に対抗する勢力としてアジアの共栄圏構想を打ち上げ侵攻する。
 アメリカは西欧の植民地であった。先住民族のインデアンを追い詰め壊滅して来ているのである。
ハワイを併合し、フィリピンの権益を手中にして拡大主義を明らかにとってきていたのではないだろうか。西欧列強は中国で権益の勢力闘争を繰り広げていたといえる。
 ヨーロッパでは資本主義、共産主義、軍国主義の勢力圏が別れて対峙しており、日本は日独伊同盟の軍国主義の枠組みの中で英米と対峙することになる。
英米は大国として中蘭と共に経済封鎖で大陸の権益と独伊同盟の破棄を迫り、和平交渉を求めても拒否するだけであったといわれる。
日本は軍備の総力の劣勢を知りながら、元寇の乱、長篠の戦い、日露の戦勝に賭けたのか、パールハーバーの奇襲に突入する。
ヒロシマとナガサキの原爆投下で一般市民合わせて三十数万人の死者を出して敗戦を迎える。米国では原爆投下を正当化するためにこれがなければ更に100万人が死んでいたという。一方では、それはパールハーバーの報復であるとも言う。歴史始まっての大量虐殺には違いがない。
それは正義なのか?


4.東京裁判の被告は誰か

 この歴史の一端だけでも何が「正義」であるのか決めることは難しいといえる。
戦争責任を問う東京裁判でも、今までの習慣法である国際法では公正に見れば裁判そのものが難しく、それを指摘して
反対したのがインドを代表する裁判官であったといわれている。
 しかし、新しい侵略戦争、領地拡大の犯罪性の枠組みができ、そして死をもって当事者に責任を問われることになったことは新しい歴史的意味ができたともいえる。
西洋列強国は日本の侵略を裁くことによって、自らを裁くことにもなったといえないだろうか。
幾多の戦争の悲劇を通して学び、負の遺産を、未来をプラスする道のステップにすることこそ平和を確かなものにすることになる。
それでも人は争を繰返す罪深く、果てしなく悲劇的な存在ではないだろうか。
 歴史は、事実にもとづいてできる限り客観的に理解し、反省して責任を自覚し相互に「赦し合う」ことがなければ友好親善、即ち「共に生きる」ということは現実化しない。世界平和の実現はそれしかないといえる。


5.歴史に学ぶ平和のいしずえ

 我々は、今の現象を見て解釈し正義、不正義を決めようとする。
昨年の同時テロ事件のその甚大さと激烈な出来事に強烈なインパクトを受け、さまざまな反応が出た。
米国ではテロの根絶を叫び大統領は「この戦いは正義の戦いである」と宣言した。被害を受けた超大国の威信に掛けてもゆるされない、ゆるしがたい出来事であり、全く関係のない人々を無差別に予告もなく殺害し、社会の仕組み、国際社会の枠組みをも崩壊する恐怖を与えたのである。
為政者は、先ず国民の生命と国家の安全を守ることが至上命題と言える。国民の前に現実の不安と恐怖の原因を明らかにし、その原因を取り除き、再発を防止することが国家の威信に掛けておこなわれるのが必然といえる。そして、国際社会がアメリカを理解し、報復を肯定して参戦している。
しかし、同時テロ行為を許しがたいという現実があっても、歴史の流れを理解してこの悲劇の真の意味を学び、真実の平和を築づかねばならない。

米国防総省―ペンタゴン
 今や、アメリカはあらゆる分野で最もすぐれた水準を保有する超大国である。情報の進歩がグローバル化し、富の一極集中化が貧富の格差を生み、民族や地域の誇り高い文化や伝統が強国の価値基準で消し去られるときの反発と怒りと憎しみが紛争となると言える。
 同時テロ事件の犠牲者の死を、誤爆で死んだアフガンの市民の死を無駄にしてはならないといえる。
米国の国際環境汚染条約、小武器輸出禁止条約反対などは正に大国エゴと映る姿勢に見え、目先の利害で政治選択をすることは地球の平和と安全と共存を損なうことになる。
ソ連とアフガンとの戦争ではイスラム諸国の志願兵のパキスタンでの軍事費用をアメリカは提供しており、その50%は、過激な原理主義者に渡ったといわれ、今も、米国から渡ったステンガ―ミサイルの500基の所在がわからないという。
そして、その過激的原理主義者が同時多発テロの首謀者となっているのである。
「共に生きる」という理念から真に幸福で平和に生きると言うことを米国と世界が反省し、考え、求める機会である。
米国の負っている責任は、その力の大きさの故に重い。米国の政治の責任が問われるのである。


6.矛盾と挫折と真理のはざ間

 宗教は絶対的な価値観の世界で、政治は相対的な価値観の世界である。
理想と現実の問題でもある。政治に理想がなければ腐敗の泥水の流れとなり人々はうめき苦しむことになる。また現実を忘れて理想だけでは反って混乱と停滞と挫折の連続となるもといえる。国や政治、人の営みは妥協の産物の変化に過ぎない。
 真実の正義は真理にもとづかねばならない。米国の独立宣言は「全ての人は生まれながらにして自由で、平等であり、幸福を求める権利を有している」と記しているといわれている。
しかし、独立宣言の起草者T.ジェフアーソンは自らの邸宅に65人の黒人奴隷を置いていたといわれる。
当時の米国南部では奴隷なくして経済も生活も成り立たなかったといわれている。
人間はいつも矛盾した存在であるといえる。しかし、自由と平等は民主主義、個人所有、思想、信条の自由の原則となり普遍的な人間の尊厳を裏付けている。
生きるために、平和を求めて争い、人の命を犠牲にして幸せになろうとする。この矛盾する現実の中でも自由と平等の真理の実現を信じ目指すことによって希望を共有することができる。
文化や、伝統、習慣、宗教などの違いを認めながら、人間が自由と平等の真理の光に照らして対話し、協調する努力が真に一つになる世界が実現することになる。


7.愛に生きる道

 キリストは「真理はあなたがたに自由を得させる」と言われている。その約束は「十字架によって、二つのものを一の体として神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(聖書 エペソ2:16)という言葉に裏付けられている。
敵意にかえて神の愛に生きる者えと変わるとき協調と平和が生まれる。神の愛は「赦し」であり、赦しは愛が与える「忍耐」によって協調と平和が生まれる。そこに真実の自由がある。そこに「共に生きる」ことが現実となる。
 キリスト教は、4世紀までキリストの赦しの愛を生きた。それはローマ帝国の人々の心に広がった。
コンスタンチヌスがキリストに帰依し、公認され、やがて4世末に国教化し政治と一体化することによって赦す宗教から戦う宗教と化していった。そして、十字軍の戦いによる宣教が、領地拡大の野望と一つになっていった。
キリスト教はキリストの愛から違ったものになっていった。
 16世紀にドイツの修道僧マルチン・ルターが聖書に帰り、イエスキリストの愛と赦し、十字架の赦し、即ち、福音に生きることを掲げた。一人の人の自立が、即ち、自由の自覚がうまれ、精神的奴隷からの解放の道筋がついたことになる。近代の始まりである。
 政権が変われば宗教が変わり、宗派の違いで弾圧が続いた。政教一致の呪縛から逃れ西欧から逃れ、アメリカ大陸に、自由を求めて建国されたのが米国である。
神は米国に人間の尊厳である自由と平等の真理を歴史的使命として委ねておられるといえる。
 


米国の自由のシンボル

8.愛が平和の力となる

 自由と神の愛はまた資本主義の原理の土台であるといわれている。経済の運営は「勤勉と節制と正直」がなければ成り立たない。
そして、「愛」がなければ発展はないといわれる。愛は思いやりであり、共に分かち合う心の実践の力である。
富と祝福は分かち合うために与えられていると言う、愛の原則が不可欠である。
そこに成長があり発展がある。
米国も世界の国も、この犠牲の痛みを通して、更に、「共に生きるための分かち合い」によって平和と繁栄の絆を目指していかねばならない。


9.生活の試練を克服するには

 日本の生活、経済不安は、勤勉と節制はあるが正直と愛のない資本主義経済の破綻であることに気づかねばならない。
人類が経験したことのない成熟した経済成長を達し、既成の経済理論ではどうにもならないのである。陽資陰封とでも申しましょうか。表向きは資本主義自由経済で裏は封建主義システムと変わらない規制と統制。市民不在の政治と企業の利権構造。
それは国家的な道徳感覚の喪失である。大蔵省(いま、財務省)を中心にした腐敗構造が今もって外務官僚の公金不正流用が明らかになってきている。行政機構、金融、企業、教育システムなど社会がもう動かなくなっているのが現状である。
日本社会のシステムであった終身雇用、官僚の利権としての公社システムが問われている。そして、がんじがらめの規制の網、公園一つでも遊具の規制がある始末である。
 全てのものが自由な環境の中で競合することで更に、現実を突破することになる。競争こそ強者の支配社会となり弱者が追詰められる社会であってもならない。
そこには、痛みを分かち合う「愛」の心がなくてならないといえる。
人は愛し合うことで、希望が湧き、信じあえるときにどんな時にも勇気が生まれ、努力が生まれると言える。
 日本は明治維新で政治も行政システムも、官僚であった武士は地位と収入を同時に全員が失った。
第二次大戦では300万人が死に、兵士は全部が失業した。海外から百数十万の人々が帰国した。
家なく、着物のなく、食べるものもない。政府は壊滅していた。
米国の戦後調査委員としてドイツを調べ、日本の調査顧問であったガルブレイスは「爆撃の効果についての評価」では「ドイツや日本ヘの爆撃の効果は結果的に両国の経済発展に大きく寄与した」というものであったという。逆境こそチャンスである
2002年に直面している国家的試練は過去の経験とは比べることのできない可能性を持った社会状況であると言える。
1400兆円の国民資産、140兆円の海外資産は世界で類を見ない最大である。生産ファンダメンタル・システムも健在であるといわれている。
 しかし、構造上の改革は容赦なく職場の喪失と転換を迫られる。それは家庭を直撃している。今こそ一人一人が、自分を見失うことなく、期待と勇気をもって試練をのり越えよう。
 「夜回りが暁を待つにまさって主を待望みます。」というこの言葉のように、明日が来るという希望を持つ限り、忍耐と努力が支えとなるといえる。
「弱ったものには力を与え、勢いのない者には強さをまし加えられる。
 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者もつかれはてて倒れる。
 しかし、主を待望む者は、新たなる力を得、わしのように翼を貼って登ることができる。
 走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(聖書 イザヤ書40:29〜31)
能の神を信じるということは、神の知識と力を体験することである。神を信じることは、希望を生み出し、希望は神を愛する熱意でその答えを必ず見ることになる。


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