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時の流れと希望


「患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、
錬達は希望を生み出すことを知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」(ローマ 5章 3〜5節)

 世界には色々な川がある。川には個性がある。川は地形によってその個性が決まる。
私は砂漠を流れるエジプトのナイル、雄大な中国の長江、果てしなく広いブラジルのアマゾン、オーストリアの美しきドナウ、そしてドイツのライン、イグアスの滝、ナイアガラの滝、グランドキャニオンを侵食するコロラドの激流,イエロウストーンの景観を作る激流、麗しい凛江の流れ、多くの河を見て来た。そこには自然の偉大な造形美があり、感動がある。河のあるところに人が集まり水のあるところに産業が生まれる。富が生まれ、文化の花が咲く。歴史が刻まれる。河の流れのように歴史のながれも予測しないところを流れ、流の様相はあるときは穏やかに、あるときは曲水となり、あるときは激流となって人を飲み込むことさえある。
2003年の年が明けた。日本の社会は経済、金融機構、社会構造の激変で極度の不安が現実となって生活を直激している。一方、北朝鮮関係の核ミサイルの危機の不安は不気味な恐怖となって現実味を帯びてきている。
 社会は窃盗、強盗の類が不安に拍車をかけ、流通では企業の悪質な商品管理が犯罪化して有名企業が消滅していく。
企業モラル、経済界、政治の退廃が人間不信となって生活を直撃する。成熟した資本主義社会が根本的な改造を迫られている。
 社会の仕組みが崩れ、激変するとき多くの痛みが社会に走る。政府がどれだけセフティ・ガードを持って支えても誰かが、どこかがで苦しむのである。
 日本の近代化の歴史をみても何回かの激変を経験し、それを乗り越えてきた。幕末から明治に変ったとき全人口の1割 約300万の武士階級の人々は職を失い、未経験な生活に変らなければならなかった。
経済機構は全く変り、政治の仕組みも変った。そこには計り知れない苦悩が家庭を襲った。価値観も文化も、生活様式も激変した。
今とは比べることができない不安と困難があった。
 また、60年前の太平洋戦争終戦のあと600万人の人々が国内外、アジアで死んだといわれる。
外地から300万の人々が内地に無一文で帰還した。食も、住む家もなく。着の身着のままである。
昭和21年ではもし米軍の食糧援助がなければ東京の70%の人々は餓死したといわれている。このときの政府は国民に対して全く無力であったという。
 どんな時でも、最後は家族が助け合って、支え合って試練を乗り越えることになる。
家族さえにも恵まれないときは友達や人々の助もえなければならないときもある。しかし、家族も、友達も、誰よりも、自分の心が最後の支えであることを覚えて置くことが大切と言える。

 聖書は“患難をも喜んでいる”(ロマ5章3節)という。また、他のところでは “主(キリスト)にあっていつも喜びなさい。・・・何事も思い煩ってはならない。・ ・・そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。”(ピリピ4章4〜7節)といっている。
 人間は自然の中で生きることができるように備えられている。神の創造の叡智であると言える。
神は人を慈しむ愛なる、活けるお方である。その神が共におられるときにこそ“患難をも喜び”得る力といのちが試練の道を切り開かせてくれることになる。
聖書の言葉の命令は、約束である。“喜べ”は“喜べるようにしてあげよう”という約束でと言える。
 長い、長い人生の河の流も色々な “時”の地形を通っていかねばならない。
あるときは静かな瀞の谷間で小鳥のさえずりを楽しむこともあり、あるときは激流で音が聞こえなくなり、大きな瀑布に直面するかも知れない。
流れの先はいつも見えない。ただ解っていることは、創造主なる神を信じる時、神はいつも共にいて知恵と力を与え、人間の理性や知性でははかりしれない平安を与えてくださる。
 全能の神への信頼は、希望を与えるのです。試練が忍耐を生み、練達は人の品性を磨き、人生の勝利者としての練達を生むと聖書は約束している。
 



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