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牧会随想

  「つれづれなるままに説教を思う」        廣瀬利男

  “少年老い易く、学成り難し 一寸の光陰 軽んずべからず。”(朱熹)過ぎた日々は瞬時のように感じられる。気が付いてみれば古希を迎えるようになっている。この五、六年は病気がちである。車と同じで体も老朽化していきているということであろう。健康の管理は自己の責任である。週に2回運動ジムで機械のメニューをこなし、エアロビックを一時間みっちりして水泳というコースをしている。わたしの悩みは食欲があることである。体質的に食べると太る。チョコレートとポップコーンに目がないときている。本当に厄介である。ひたすら禁チョコである。それでもチョコッと板チョコを買ってしまう。別に誰かに咎めだてされるのでもないが、隠れるように食べる。そんなときに大抵、説教の構想を練る。

 神学校を卒業して44年、伝道者として今も元気に説教をさせていただいている。わたしが赴任して以来、今日までわたしの説教を聴いてくれている婦人が一人いる。この人は集会を絶対に休まない。ざっと計算して週3回としてもざっと6996回になる。それを思うとただ頭が下がる。奇跡に等しい。この婦人はよく居眠りをするが、わたしもよく居眠りをするので人のことは言えない。わたしが眠るのは説教や講義がよくないんだと友達に嘯くのである。どんなに眠くても眠らせないほどひきつける話をしたいものである。

 説教は牧会者にとっては、起きていても寝ていても日々の課題である。弓山先生が「説教は40年しないと出来ない」とよく言われた。その意味がよく解らなかったが、今、わたしはその年齢に達しようとしている。新卒の頃は説教づくりが苦痛に思えた。その点、今は説教をする、いや、させてもらっている事が嬉しくも、楽しい日々である。やっと弓山先生の言葉の意味がわかってきたように思う。

 わたしにとって神学生時代から“説教とは何か”が課題である。
安斎源助先生や岸部勘次郎先生日本伝道隊の出身で面白く、ユニークなお話であった。安斎先生の「ベルリンは封鎖されても空が開き」どんなことがあっても上から主が助けてくださるという話しであるが、身振り手振りの漫談調は今も忘れることが出来ない。岸部先生の話は体験談が多く最後にお好み焼きのふりかけのようにみ言葉で締めくくる説教である。
同じ系列の高名な大衆伝道者として業績を残された本田弘慈師もその典型であった。正しく伝道隊である。そしてわたしは疑問を持った。これが神の言葉といえるのだろうか。しかし、伝道集会では人々が救われる。そこで、随分経ってから自分なりに解る。証詞と例話で面白くキリストの福音を伝えることの妙技である。そして一つの聖書の言葉が聴衆の心に残る。心に落ちる、正に、語(ことば)が腑に落ちる業である。落語である。落語は本来、人を笑わす話芸である。説教するものにとって会衆がうなずく、受け入れる。最後が、祈りで終り、主を崇め感謝できることを願って語るのである。

わたしは何時の頃か落語に関心を持つようになった。大阪の文化といえば“お笑い”で、“笑い”といえば吉本と人々は言う。大阪では春に日展がある。大抵毎年、天王寺の美術館に行く。どういうわけか昔のじゃんじゃん横丁を通って、通天閣を見ながら電気屋街を通り抜けて道具や筋を通って難波花月に出る。これが家内とのおきまりのデートコースである。二人で相談するのでもなく、毎年無意識に同じコースを歩く。なんとも雑然としたどことなく飾り気のない庶民的な大阪の風情がある。

ある時、難波花月の案内を見ていると桂文珍の出演の時があった。一回、本物の落語を聴きたいと思っていたので入ることにした。文珍とはテレビでは「日本人の質問」(NHK)や「ウエーク・アップ」(読売)でお馴染みではあったが、生の文珍にお眼にかかったのは始めてである。独演会ではないので15分ぐらいの枕(落語の導入)だけのトークであるが巧みなしゃべりに会衆を笑いに引き入れる術には感心する。人間は笑う動物であると言われるが、笑いはコミュニケーションがあって生まれる。笑いは“解る”ことが先行しないと生まれない。

説教の工夫の足しにでもなればと文珍のフアンになる。彼の「新落語的学問のすすめ」(慶応大学での講義録)などを読んでいよいよ楽しむようになる。年とともにわたしの説教は面白さがなくなるのを感じる。説教は面白くなければならないというものではないが、リラックスして聴けることは心を開き、対話ができる準備ができるということである。

やがて文珍のライブに出会う。「心中恋の電脳(バーチャル)」と「地獄八景亡者の戯れ」を聴いてその構成と巧みな話術に魅せられる。彼、曰く、落語は自己処理完結型の芸であると。一人で脚本、演出、主演をこなすのである。心中恋の電脳は曽根崎心中のお初、徳兵衛を今の生活の中へパソコンで引き込んで夫婦の絡みを笑いにする。それは、又誰にでも起こる日常感が斬新な現代創作落語となるのである。地獄八景亡者の戯れは落語の始祖と言われている安楽庵策伝の「醒睡笑」に載っている古典である。文珍の特徴の一つは古典を現代風にアレンジして復活させることである。

わたしはまもなく桂三枝の創作落語のことを知り、毎月一回、梅田花月で発表会があって何回か行った。昨年の10月17日125作目、最後の独演会にいそいそと行った。「大阪ルネサンス」の演題で締めくくり5年間続いた最後の年、彼は還暦を迎えていた。挨拶のあと彼は舞台の上で泣き始めた。笑いの裏に涙があったのだ。わたしも泣いた。笑いを創る苦しみ、アイデアの切れたときの苦悩。一ヶ月に二作である。説教者として自分がどれだけ説教のために祈り、取り組み、苦悩してきただろうか。このような思いがオーバーラップした。三枝の創作落語はとにかく枕でも同じものはない。筋書きは現代人にぴったりである。

中には「生れ変わり」のように「地獄八景亡者の戯れ」をモデルにしていると思われるものもある。しかし、導入の鳴りものから違う。グレゴリアンチャントで始まるのである。キリスト教の礼拝音楽で始まる落語には出会ったことがない。「妻の旅行」「背なで老いてる唐獅子牡丹」「喜寿ラッパー」「さようなら動物園」などよくもこのようなネタがあるものかと感心する。

文珍や三枝は名人の域に達していると思わせられる。その創作に苦しみが耐えず挑戦する意欲となり、芸の道にすごさが生まれる。数年前に亡くなった桂枝雀の独創に挑戦する情熱はすごかった。彼は英語落語の道を切り開いた。ユニークな芸は笑いを生み出す苦悩に耐えかねて自殺に追い込まれていった。落語家が笑いを創作するためにどれだけの苦悩を背負わねばないないのかが解るような気がする。芸の道の厳しさである。

 説教のための神学的な学びと共に、福音を語る、伝える工夫の厳しい修行をしてきたのかと深く反省させられる。
そもそも、今でこそ説教といえばキリスト教の用語のようになっているが、聖書の中には説教という言葉は出てこない。落語の歴史は説教に始まるといわれている。「寄席」と言う言葉は寺の少ない不便なところにもうけられた説教所であって、庶民の娯楽場でもあったといわれている。“人を大勢寄せる所”、“寄せ場”で説教所が「寄席」となった。

説教は仏教で経典を説く講釈で説法、法話、法談、説戒、説経などと表現されてきた。説教は多様な話芸に発展し、日本では宗教と生活と娯楽(芸能や娯楽)が渾然と一体となった生活構造ができるようになるのであった。説教は仏教の布教であると共に、民衆の娯楽的要求に答えるものとなっていった。説教者の巧妙な話芸にうっとりとして、いつのまにか浄土への往生を実感し「受け念仏」(あいずち)を唱名し、聴き手が話し手の説教に完全に吸収されるとき会衆の中から鯨波(とき)のような念仏の声が起こったと言われている。

説教はもともと法理を説くものであるが、俗受けを狙って芸能化を辿ることになる。落語はもとより、講談、講釈、浪曲、浄瑠璃など日本の伝統的芸能の発展を辿って見ると説教に行きつくとさえいわれているのである。その特性は情念に訴える説教で、「節談(ふしだん)説教」と言われている。節談説教は節をつけて美声と声の抑揚で情景を演出して会衆の感覚に訴える。教義を理屈でなく情に訴えるのである。

情に訴えるテクニックは説教の特別な修行が求められるようになる。理論的な法理や教義は本山でなされているが、説教の技巧を伝授する説教塾が江戸後期にあらわれる。播州は太子、東保福専寺に説教訓練所、獲麟寮が設けられる。全国から大説教家を目指して集まったといわれる。宗学に忠実で、台本の言文一致でそのままの説教を実演するのであった。獲麟寮には研学と説教の二科があって特に説教技術に力を入れたと言われる。独特な口調技術があった。和上といわれる人が弟子をつれて伝道に出る。実際に師匠の講座(高座)の前に前座を努める。そして師匠の話しを聴いて真似る、そしていろいろな作法を教えられるのである。

落語の世界で高座、前座、真打など、手ぬぐいをマンダラといい、扇子は僧侶の中啓(ちゅうけい)(上の開いた扇子)の名残といわれて落語の用語になっている。高名な名説教家をを呼ぶと末寺の貧しい寺はお堂を新築できたとも言われる。会衆受けすることが世俗化し話芸に化していくことになる。落語の始祖と言われる安楽庵策伝は浄土宗の僧侶であった。彼の著作である「醒睡笑」は本来仏教の説教の内容の本であると言われている。文珍の十八番の一つになっている「地獄八景亡者の戯れ」などがある。

やがて明治になり文明開化の波に伝統の批判、西洋の合理主義的志向と宗門の説教の俗化に対する行き過ぎを批判する声から説教と話芸の分化が進む。そして、太平洋戦争までその説教の伝統は続く。そして、戦後、仏教の説教は庶民の世間では聴かれなくなる。

もちろん、江戸時代後期には神・儒・仏などの教えが「心学」という形で庶民に教えをわかり易く解き明かす運動の流れが生まれていた。大正と昭和初期に救世軍の山室軍平は心学を取り入れて分かり易い「平民の福音」を説いた。典型的な大衆伝道者である。

日本の話芸と説教を考えながら、仏教の説教の歴史に触れその伝統文化の命脈を垣間見ることが出来た。わたしがクリスチャンになった50年前から、教えられるままに世俗を否定する信仰生活であった。1955年頃は映画も罪とされた。もちろん禁酒禁煙、女性はパーマ、化粧はご法度のように言われた。日本の伝統芸能も罪の世界と見られていた。今は、大きく変わった。しかし、西洋キリスト教の宣教は、生活の西洋化である。異教と異文化を否定する構図は植民地拡大主義を生み出し20世紀の悲劇となった。

わたしは‘60年代に新約ゼミでブルトマンの「新約神学」をテキストに指導を受けた。史的イエスの根拠が確証されないまま実存的に聖書を解釈する。ブルトマンの様式史批評による聖書を非神話化するという説は肯定できない。現代人の思惟で聖書を読込ことになる。Exegese(解釈)は本来、“引き出す”(έκ)であって、Eisgese (έις) “読み込む”ことではない。聖書は“読む”のでなく“聴く”ことから“キリストの使信”となるといえる。そこに説教がる。
又、一方では、旧約聖書はユダヤ文化の歴史であって、それぞれの民族には固有の文化があり歴史がある。それこそがその人々の旧約であるという。わたしは日本の伝統、芸術、風俗、歴史などが全面的に否定される傾向にある西洋キリスト教に疑問をもつていた。

やがて、クルマンの「キリストと時」に出会う。彼はブルトマンの旧約理解に賛同しながら、なおキリストに出会うことによって旧約の歴史の意味が普遍的に真実の神に至らせ、救いの歴史を見出す。このことから今までの多様な文化や歴史との相関関係において理解する道を見つけた。

 わたしは自分の国、日本を、そして自分が日本人として生まれてきたことの意味を摂理的に理解することができるようになる。内村鑑三が二つのJ(JapanとJesus)を愛するという言葉をわたしなりに理解した。そして、渡辺善太の「聖書的説教とは?」に出会う。1970年頃のことである。先生は、説教の技巧を磨くために義太夫を聴きに行くと言われる記事に出くわし説教の持ち味を出す工夫を考えるようになり、やがて渡辺善太の聖書神学三部作に出合うのである。そして、救済史と聖書の正典性について信仰の自己理解のホームにたどり着く。

わたしは渡辺善太先生とは一度もお会いすることはなかったが、わたしにとって渡辺先生は今もご指導いただいている偉大な先生である。わたしが渡辺善太全集の第6巻(聖書神学三部作)を求めようとしたときは絶版であった。いつも上京すると今も大抵、神田の友愛書房に行く。ある時、何時ものように行くと、求めていた本、渡辺善太全集の第六巻が一冊あるではないか。早速、手にとって見るとなんと3200円の定価が、25000円である。一瞬、考えたが。これを逃してはもう手に入らないと大枚を叩いて手に入れた。そのときは何にもまさって嬉しかったことを覚えている。

 日本の歴史と文化を思い、都おどりの“よーいやさー”の掛け声に三味の音が響くと京都に春がくる。都は櫻で彩られる。京都は日本の歴史と文化、哲学と宗教の結実した古里である。今年は、桜吹雪く蹴上から哲学の道を家内と歩いた。四季はめぐり、時は過ぎる。9歳の時、戦争で京都から逃げるように知らない西国の田舎へ疎開した。そこで福音に出会った。もう人生はロスタイムに入っている。お召しのホイッスルが鳴るまで説教の奉仕ができることはこの上もない幸せである。

 説教は預言である。聖書はすべての人が預言するようにと勧めている。(コリント14:1,39)預言とは「神の言葉」を預かることである。教える言葉ではなく、神の言葉を伝えることである。そして、それは「神の語りかけ」Anredeである。聴く人はこたえなければならない。信じるか、従うかを迫る言葉である。神の言葉を預かる人は聖霊によって支配され、聖霊にゆだね、聖霊に導かれていることが大切である。霊性を整えることが主のみ心を悟らしめることになる。預言者に召され、神のみ言葉を預かるものとしてみ言葉の真意を伝えなければならない。その道の厳しさを自覚して残された奉仕のときを励みたいと思うこのごろである。

 聖霊に満たされること、霊言、異言を語らされることとは何か。理解できない霊の言葉、それこそは神の言葉である。それは、自分が理解できないことを認識する契機となる出来事であるのではないだろうか。人間の有限を教え、神については何も解らない無知なる自分との遭遇である。“何も知らないことを知る”“無知の知”(ソクラテス)そしてなすところ知らないで生きる愚かさ、罪深さが全人格的に認識されてくる。

聖書は異言を訳せと言う。(コリントⅠ、14:13)理解できない異言を訳すには聖霊によらなければならない。そこでも人間の理性や知性は役に立たないことを知らされるのである。聖霊に満たされることは、無知を知り、弱さを知る。「口に言い表わせない、人が語ってはならない言葉」(コリントⅡ、12:4)を聴いたときパウロは自分の弱さを誇る人になる。自分の力、理解力、人間として生きる力は弱いところ、無知なる、罪深いところに完全に現れると言う(コリントⅡ、12:1-10)。その鍵は、神の恵み、キリストにある。キリストを信じるときに自分に出会う。「わたしはキリスト共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19-20)。

キリストにあることは、正に無知を認識する自己否定である。そこから謙遜が生まれる。聖化とは謙遜が人格を支配することである。そこから愛の現実化、生活となり、宣教への限りない力となってあらわされてくるのではないか。「おのれをむなしくして僕になられたキリスト」(ピリピ2:7)の謙遜―ケノオウ(κεν ό ω)にこそ聖霊の認識の契機がある。「十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」(コリントⅠ、1;18)。

十字架の出来事が、「御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈」(コリントⅡ、2:13)され、聖霊によって神の真意を内実化させてくださる業となる。聖霊に満たされ異言を語る経験はキリストにあって自己の有限性と“無知の知”に目覚めることにある。そこから神のドゥナミス(δόναμις―力)が宣教の業として結実する。

話芸の道の厳しさ、修行は自己を殺して道に徹することであろう。聖霊に委ねきることは自己をどれだけキリストと共に十字架に明渡すかに通じると思う。そこから生きた説教、人を生かす説教が生まれるのではないだろうか。

 本来、説教はケリュグマ(κήρυγμα)であって、告知(Verkündigung使信)である。わたしたちの教会では“説教”と言う言葉は使わない。“メッセージ”〔お告げ〕と言う。(「講壇」誌33号より)


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