「クリスマスの訪れ」 イザヤ9章1-7節
「一人のみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」(イザヤ9:6)
クリスマスはイエスキリストの降誕を記念する日である。クリスマスを前4週の日曜からアドベント(待降節)にはいる。クリスマスの訪れを待つ週間である。聖書は人類の救いの歴史の記録である。旧約聖書と新約聖書に分かれ旧約聖書は人類の救い主であるキリストの来臨の予告を記し、新約聖書はその成就の事実を記録している。イザヤは紀元前8世紀の預言者であってイザヤ書の中にはキリストについての多くの預言の言葉がある
イザヤ書の9章の6節はキリストの降誕の予告の言葉として有名である。6節に先立って2節には「暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗闇の地に住んでいた人々の上に光が照った。」とある。この「暗闇」は4節の「負っているくびき」「肩の杖」「しえたげる者の鞭」を指している。それは人間性、すなわち自由と自立を失った奴隷、希望のない生活苦、容赦ない弾圧と恐怖、悲惨な戦争がある。このような「暗闇」に救いの光、解決の光、希望の光を送ると神が約束しておられると予告している言葉である。そして5節と7節は、救い主キリストは真実の平和と解放、公平と秩序を回復し希望を与えるという約束の言葉である。
一人のみどりごが生まれる。キリストとして、その意は、「救い主」である。
「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」(ピリピ2:6-7)と新約聖書が云っているように、みどりごは救い主として神であられたが人となられて神を現された。
その使命として3つの職務が示されている。
その一つが、「霊妙なる議士」である。これは英語ではワンダフル・カウンセラーであり、「卓越した相談者」であり、物事を采配し公平と正義をもって治めるものである。その基本は「神の愛」である。一人の人間が尊ばれ、回復し、再生されることを可能にするとしている。
その二は、「大能の神」である。キリストは公正と正義を持って治められる。しかし、統治能力がないときには混乱と破滅があることになる。キリストは神として、神の固有の「神の愛」の力をもって人々に真実の力を示される。人々はそこに神の愛と偉大さに出会い、心打たれたのである。キリストの愛、神の愛と赦しこそは人を再生する力であるとした。懐疑者トマスは復活の主に出会って「わが主よ、わが神よ」と告白している。
その三は、「とこしえの父」。これは、正に、父としての神をキリストが現されていることを告白している。森羅万象の創造主であり,命の根源、全ての存在の道筋の原理であるとしている。人生に明確な目的を与え、支え、導き、共に歩まれる方を示している。
その四は、「平和の君」である。キリストが神として真実の赦しの道となったことの目的は、平和と平安を約束することにある。
クリスマスの訪れを前にしてキリストの平和の福音を心にとめて待ち望もうではないか。