「光、愛、命のクリスマス」   ヨハネ福音書 1章1-18 節

「神を見た者はまだひとりもいない。
ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのでる。」(ヨハネ1:18)

 今年も、年末をひかえ十大ニュースが報じられる頃となった。恒例の清水寺管主の年の字は「命」であった。子供の自殺と言う、何とも痛ましい出来事が連続して全国で起こっている。一方、家庭での幼児虐待、親子の殺傷という悲劇が絶えない。安倍内閣が「美しい日本」をスローガンに就任してから立て続けに青少年のいじめや自殺が深刻な問題となっている。心の闇が現れている。

歴史は進歩すると考える人もあるが、現実には果てしない逃走と混乱が続き、人の心の底を象徴する出来事がマグマのように出てくる。

 クリスマスはこの闇の世に「真の光」、「救いの光」を照らし出すときである。「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)光は道筋をはっきり示すものである。光こそ人を見えるものとして勇気付け、希望を与える。キリストは「わたしは世の光である。わたしに来るものは,やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」(ヨハネ8:12)」と言われた。

命に至らしめる光である。人間を困惑させ、混乱と騒乱の中で不安と孤独に悩む人の心、人の世にその暗黒の罪を解消する光としてキリストはこの世に来られた。「光に闇は勝つことはできない。」(ヨハネ1:5)

 キリストは、神の愛を教え、現すために生涯を終えられた。赦しと和解こそは真実の平和と幸せの根源であることを教え、「敵をも赦す愛」こそが、人を真実に人として平和に生かす道であることを示された。現実に、多くの人々がキリストこそ王であると歓呼の声を上げるのを為政者は政争と当時の因習に縛られてキリストを処刑する。キリストは十字架に架けられながら、その敵を赦し、とりなしの言葉を持って祝福された。人々は、このキリストを見て「この方こそ神である。」と告白した。キリストは世事の権力でなく、神の愛の原則による赦しと和解を身をもって示し、自ら人々の犠牲となられた。キリストの十字架は人の罪を表し、神の愛、すなわち罪の赦しを現す。

 和解は2つの意味を持つ。一つは、人と人との和解である。神の国は平和であってキリストの十字架の教えを受け入れるときに初めて真実に人は一つになれる。真実の和解は真実の平和を生み出す。明るく楽しく心通わせて生きる幸せを保証するといえる。

人として神の御心に生きる喜びを生きることになる。第二に、これこそがすべてを平和にする補償であるが、神との和解である。人間の赦しがたい罪深さをその悔い改めによって、赦し、キリストが十字架で犠牲になられた贖いによって、神から遠いものが神様との和解を与えられる。そこに「神の国」が経験される。「神の国」は永遠である。有限な人の人生は、永遠の平和、永遠の命に生きるものとせられる。

 クリスマスは、キリストによって表された神の愛をもって、人々に真実の平和と希望を実現されることを記念するときである。人として生きる命の意味と永遠に生きる希望を革新される喜びのときである。暗い世相にクリスマスの光がすべての人々に輝くように切に祈らなければならない。




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2006年12月24日クリスマス礼拝メッセージ