「福音の喜びは地の果てまで」  マルコによる福音書16章14-18節

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:14)

 人は、喜びのあるときには隠すことは出来ない。顔に表れ、態度に表れ、喜びを人に語り伝えたくなる。聖書は「福音」の書ともいわれる。「福音」とは英語ではグッド・ニュースであり「よい知らせ」嬉しい知らせという意味である。キリスト教の歴史はキリストの十字架の出来事に始まる。それは受難であり悲劇である。そのときは混乱と罵声が飛び交つった。やがてキリストは以前から言われていたとおりに死からよみがえられると言うことが起こる。

失望と悲嘆にくれていた弟子たちはキリストの言葉、即ち、復活されたことが、事実であることがわかる。やがて祈っている彼らに聖霊が降り、キリストの十字架と復活の真意を認識する。その真意が「福音」である。キリストは罪深く、欲情に支配される人間の争いと不信に悩み続ける現実。正に神のない世界、地獄の世界から人を救う道筋を備えられたのである。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛がある。」(ヨハネⅠ4:10)人間の根本的な罪の迷いと争いの現実を救うために、その罪を身代わりになって十字架に死に贖ってくださった。神を信頼して罪を悔い改めるものを受け入れ赦すことによって神の愛を表わされた。キリストは現実に死からよみがえり、罪の結果として死で終わる悲嘆の人生に終止符を打たれた。

「死」から来る不安と恐怖はキリストの復活の約束によって解決された。「死が払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)そして「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」(コリントⅠ、15:55)と言っている。そこには迷いもなく、不安もなく、勝利と平安がある。そして「喜び」が魂の底から泉のごとくに湧いてくる。

 福音は「栄光の福音」(コリントⅡ、4:4)「和解の福音」(コリントⅡ、5:19)(「平和の福音」(エペソ6:15)と聖書は言う。福音のあるところには神の栄光の輝き、その愛と恵が溢れる。和解と平和が人生の真実の喜びとなる。そこで、いかなる人生の試練にあっても「喜び」と「確信」があり「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)と宣言し、力強く生きるものとなる。

 使徒言行禄8章のフィリピは、エルサレムで迫害のために家族とも離別し、仕事も失い、追放された。しかし、サマリヤの町ではフィリピはキリストにある喜びと確信を持って「福音」を語り、町中が喜びに満ちたと記録している。イスラエルの小さな町から始まったキリストの福音はいまや全世界の人々の希望として16億人とも言われる人々がこの福音に生かされている。1548年日本にザビエルが渡来した。数年にして信長の理解を得たが、戦乱の世で秀吉の禁教令から、光家の徹底したキリシタン弾圧で苦難の道をたどり、明治になって外圧から禁教令が廃止される。

しかし、昭和になり軍国政治の下で再び弾圧が始まる。戦後、信教の自由と共に新しい宣教の世紀を迎える。今日、われわれの教会アッセンブリーは共産圏、イスラム教圏にも宣教師を派遣し、世界で最も多くの宣教師を送っている教会である。それは聖霊に満たされ「福音」の「喜び」が宣教の情熱と力となっているからである。

「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りのはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(コリントⅠ、9:16)


今週のみ言葉  「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかるものとなるためです。」 (コリントⅠ、9章23)



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2007年10月7日の礼拝メッセージ