2008年4月27日 礼拝メッセージ


「人は愛によって生きる」  ルカによる福音書15章11−24節

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」(コリントT、13:4)

 聖書の中で最も有名なたとえ話はルカによる福音書にある「放蕩息子」であると言われる。教会では多くの場合、この話はキリスト教を知らない人に語られることでも知られている。しかし、これはイエスが、差別され罪人とさげすまれている人たちと親しくしていることを批判する律法学者やファリサイ人を諭される話である。

ファリサイ人は厳格に律法を守る人々であり、律法学者は神の戒めの専門家であった。言い換えれば、神の御心を知り尽くしている人々である。その人々にイエスは真実の神の御心は、人を批判的に差別したり、軽蔑したりすることではなく、“人を愛する”ことこそ神の御心である事を教えられたのが「放蕩息子」の話であった。

 神を信じることは、神を愛することであり、イエスは、旧約聖書のモーセの律法に対して、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われており、他のところにも「互いに愛し合うこと、これがあなたがたが初めから聞いている教えです」(ヨハネT、3:11)と記されている。

イエスが示された神の愛は「赦し合う」ことに尽きる。和解である。そこに平和と平安があり、一致と共助と協力が生まれる。共に生きる喜びと希望が善意と感謝に包まれる。イエス・キリストを信じて神様のみ心に生きるところにキリストの交わり、キリスト教会が生まれる。

 放蕩息子は父の愛と恵、その財産を受ける権利を与えられていた。しかし、父の思いに反して受け継いだ財産を欲情の放蕩に使い破産者となり、孤独とさげすみの中で呻吟していた。この逆境の中で父の思いを回想して自分の間違いと罪深さに気付き悔い改めて、父のところに帰ることになる。父は、自分を裏切ったこの息子を一時も忘れることなく毎日帰りを待っていた。父には死んだも同然のこの息子が「われに返って(罪深い自分を悔い改めて)」帰ってきたことを無条件で受け入れる。

そこで初めから父親の思いをくんで忠実に父に仕えていた兄が、以前と同じように弟を受け入れて優しくいたわり受け入れる父を批判する。その時父は「お前はよく私に仕えてくれている。すべてのものはお前のものだ。しかし、弟は死んでいたのに生き返ってきたのだ。喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ15:32)と言う。

この愛こそは、神の御心であり、「愛し合う」ことこそは神の御心に生きることを教えている。弟を批判した兄こそ、ファリサイ人であり律法学者であるといわれている。

 神の愛は、「忍耐」である。「忍耐」は「待つ」ことであり、解決を信じる、即ち、「解決」を望むことでもある。また、愛することは、愛している人に「責任」を持つことである。責任は「与える」ことでもあり、「思いやる」、即ち「情け深い」ことでもある。互いに忍耐して、互いに責任を持つことが「愛し合う」ことになる。愛のあるところ「忍耐」と「責任」がある。

そこにこそ希望と喜びと和合が生まれる。共助と一致が力となり、キリストにある祝福を生むことになる。これがキリストの教会である。立派な十字架のついた建物があっても、集う人々の心にキリストの愛がなければ、愛が生かされていなければ、それは教会とはいえない。

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。
人を愛する者は、神の律法を全うしているのです。」(ロマ13:8)

神の愛に生きることこそは、神の臨在の経験であり、リバイバルの証しであり、徴しでもある。




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