8月24日 礼拝メッセージ

「人を幸せにする生き方」 マタイによる福音書20章20−28節

幸せの基準は人によって異なる。オリンピックでメダルを取った選手が「最高の幸せです」と言っているのを聞いたとき「そうだなー」と共感する。歴然と勝敗がわかる球技なら理解できるが、競泳や走る競技は1秒の00何秒、一瞬の違いで勝敗が決まるにいたっては金・銀・銅のメダルの差はない。ましてや、演技の点数となるシンクロや体操、飛び込みなどの競技は傍観者は何が一番なのか二
番なのか全くわからないことが多い。みんなにメダルをあげたい気持ちになる。なでしこジャパンと言われている日本サッカーの選手のゲームを見てメダルを取れなかったが、「もういい、よくやった」と言いたくなる。自分の娘がゲームをしていればきっと両親はそう思って涙したであろうと思う。

金を取ったソフトはピッチャーが大きな存在であった。しかし、野球は点を取らねば勝てない。打たれないで点を取る。それが勝利となる。
柔道の谷亮子選手には金を取ってほしいと思った人が多かった。結果は「銅」で終わった。それも素人には勝敗の差がわからない注意である。しかしご主人の谷さんは「私には銅でも金」と言っていた。家族愛が伝わる。一生懸命その人の力を全部出し切る、その一所懸命が人の共感を得る。

人生も競争だと言われている。島根の田舎のある小さい町では、殆どが学校を出ると都会に出て行く。人々が正月やお盆に帰ってくると「だれが一番出世した」かが噂となる。その基準がどこにあるのか判然としない。お金を儲けたとか財を築いたとか、偉い人になったとかであるようである。そのようなところから差別や偏見が生まれ、人を商品でもあるように等級で分けてうらやましく思い、また卑下したりすることになる。人の人生には、生まれながら障害のある人もある。思わぬ事故にあう人、過酷な戦争、大災害に出会うと言ったこともある。社会の不況で倒産に出遭うことすらある。

 聖書は、人間がどんな時でも人として生きる真実の道、そのあり方を教えている。イエス様の弟子たちは、イエス様に理想を求めて弟子になった。しかし、イエス様の御心を理解するためには色々な事を学ばなければならなかった。弟子たちはイエス様がこの世の政権を手中に収め王につかれることを夢見た。

確かに人々はその教えと愛の業に驚嘆してイエス様を「王」にしようとした。(ヨハネ6:15)ある時、ヤコブとヨハネの母はイエス様に「王座につくとには息子を左大臣・右大臣に就かせてください」とひれ伏して頼んだ。今も昔も「息子の出世を望む親の姿」というのは変わらない。

また他の弟子たちは、一番年下のヨハネまでも大臣にしてくれとは何という事かと腹を立てる始末である。
この世の人の基準は「経済力がある」「権力がある」事であり、名誉や地位が立て関係をつくり、人間を支配してきた。しかしイエス様は「あなたがたの間では、そうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。・・・人の子は仕えられる為でなく、人に仕える為に来たのである。」(マタイ20:26−28)と言われている。そして自ら進む十字架の道を示して、自分を愛する者の為に犠牲となることこそが自分の使命であると言われた。

 イエス様は「偉い人とはだれですか」と問われて「子供のようになる人が天国で一番偉いのだ」(マタイ18:4)と答えられた。子供は疑うことなく素直に神様を信じる。神様への深い信頼こそは、人をへりくだらせる。へりくだった心をもった人こそ、偉大なる神様の愛を受け入れ、神様の愛の中で幸せに生きることになる。神様の愛に生き、人を愛する心をもつことこそが人を幸せにする原点である。人間が本当に幸せに生きる道とは、人に誉められるのではなく、神様に喜ばれ神に誉められることである。


今週のみことば
「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:14)




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