9月21日 礼拝メッセージ

「神の国と永遠の命」  ヨハネによる福音書3章16節

 人間には「永遠を思う心が与えられている」(コレヒトの言葉3:11)。人間は死という終わりを迎えることはごく自然なことであるが、誰でも死を迎えるときに悲しみ、惻隠の情をもって悼むのが自然である。この現実を思うと死ぬことが自然であるとしながら、悲しみ、悼み、人の情、本心として死は不自然であると思うのである。身近で愛している人が死ぬとき誰でも“死なないで”という気持ちを持つのがごく自然であると言える。聖書が示している「永遠を思う思い」は、人の本性である。言い換えれば、本来、人間は死なないのが自然であった。

 「永遠の命」は永遠の存在であり、永遠に変わらない命に生きることにほかならない。「神の国」は消滅を繰り返す世界でなく、永遠に変わらない真理に根ざした国である。「神は愛である」(ヨハネT、4;8、16)聖にして義なる神、善にして憐れみ深い方である。全能にして全知、完全にして命と存在の根源である。神の国には栄光と平和、調和と躍動が約束されている。神を見失い、神を忘れるとき人は自己の欲望に走る。

「人はそれぞれ、自分自身の欲望に惹かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望はらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1;14、15)神を忘れる、信じない、拒むことは自分を中心に生きることになる。人間中心の世界には揉め事と争いが絶えない。罪深い世界となる。理性も科学も尽きることのない便利な道具を作り、一見幸福を人に与えているようであるが、自然を破壊し、極度に自然消費は混乱と破滅を予測する。

地球の最期を誰も否定することができないようになっている。人生にも、世界にも、宇宙にもおわりがないと誰も言えなくなっている。人の人生は確かに死で終わる。実存哲学者ハイデッカーは「人は死に至る存在である」と言う。死、それは空しく、儚く、絶望的であり、悲しい。言い換えれば「人は、空しく、儚く、絶望的、孤独で悲しいものである。」ということになる。

 しかし、主イエスは「神はその独り子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3;16)と言われている。「独り子」とはイエス・キリストのことであり、神として人になり、神の御心、神の愛を現された方である。神を信じることは神の愛に生きることにほかならない。そこに「神の国」があることを示された。

 大阪の高津で伝道している金沢泰浩という牧師は、クリスチャンの両親の元で生まれたが中学時代にぐれて暴走族に入り18の時に仲間に誘われてヤクザの世界に入り、ご他聞に洩れず麻薬と抗争の日をすごす。刺せば監獄、刺されれば地獄、不安と恐怖の日々は麻薬に走らせる。ある時、お父さんが危篤であるとの知らせに、脳梗塞で倒れた父を前に、心配と苦労をかけた思いが、思わず「オヤジ意を助けて」と言う叫びとなり、傍にいた牧師先生に祈りを請うと、お父さんが胸に手を当ててかすかに祈った。その敬虔な姿を見たとき、「神様は生きておられる」をいう思いがこみ上げ、自分も祈られてきた子共であると気付き、それから回心してクリスチャンとして回復する。そして多くの闇の世界に悩む青少年をキリストに導き、やがて、献身して聖書学校に学び、更に、神戸の改革派神学校に学び牧師として用いられている。

 人間は生きていて神のない生活、地獄に生きることもある。今、神の御心に生きる、神の愛を生活原理とするところに「神の国」がある。「神の国は、あなたがたの間にある。」(ルカ17:21)と主イエスは言われている。

今を「神の国」に生きるときにこそ、死を超えて「永遠の命」に生きる希望を与えられる。神と共に永遠に平安と喜びに生きる希望こそ天国とも呼ぶ。そして召されて人は天国で永遠に神との交わりを楽しめ、確かなる真実の愛の絆で神の家族は喜びと感謝をささげることになる。



今週の聖書    コリントU、4章18節




 ページのトップへ    2008年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ