11月7日 礼拝メッセージ

「福音に生きる力と喜び」 コリントT、9章19−23節

人は毎日の生活で「気になること」があれば何も手につかないものです。気にかけることは心配することでもあるのです。心配する、「気になる」ことは身近な人への「こころくばり」心配です。気にかけることは心配することであり、また、愛していることでもあると言えます。子供のことが気になる。親のことが気になる。友達のことが気になる。愛の深さは、気にかける気持ちで推しはかれます。その愛の深さが生活の中で表されるようになります。 使徒パウロは「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(コリントT、9:19)と言っています。自由な者とは、誰にも拘束されないで自分の気ままに出来ることです。「が」と言う言葉は、そうだけれども、「すべての人の奴隷になりました」と言うのです。今日では奴隷は死語でもあります。奴隷は、人としての権利や自由が認められず、働かされて、物のように売り買いされることを言うのです。言いかえれば、「すべての」人の奴隷になるとは「自分を犠牲にしてでもその人のために生きる」ことを言っているのです。「愛は、自分を犠牲にすることである」と言います。イエス様は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と言われます。ここにクリスチャンとしての生きる喜びと幸せの道筋を示されているのです。
第一に、人の幸せは、人と人との繋がりにあります。家族のつながりです。幸せな家族は自立して助け合うことに、証しがあります。イエス様を信じ、神様の愛に生かされる時に家庭は主にあって同じ思いとなり一致が約束されます。そこに平和で、穏やかな交わりが生まれることになります。人間は、いつも同じでなく食い違いや、好き嫌い、わがままや、自己主張があるものです。しかし、イエス様が十字架で示された神様の真実の愛を思い、生かされている自分を振り返りながら、イエス様の愛で譲り、いたわり、忍耐し、理解し、赦し、和解する道を祈り求め、生きる時に平和と恵みが約束されるといえます。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネT、4:12)「愛し合う」ところに神がとどまると言われています。神のいて下さるところこそ、そこを「神の国」と言うのです。今の時は、様々な困難や試練があります。地獄と形容される現実です。しかし、その現実の中でイエス様の信仰の恵みは、勝利と希望となり天国としての喜びと力となるのです。
第二に、パウロは「すべての人のために奴隷となる」と言うのです。愛の成長は、人の交わりの拡大を意味するのです。信仰生活は家庭を中心に愛の実践を教えられ、神様の愛は地域に生きる人々と共に幸せを分かち合う恵みであるのです。広く人々と共に生きる喜びを、キリストを信じる信仰の愛によって分かち合うのです。主に助けられ人々の重荷を共に背負う勇気と力を祈りによって目覚め、愛の証しを表そうではありませんか。人々は、イエス様を信じる人たちの愛の証で、そこに神様の恵みを思い、知り、経験することでしょう。 
第三に、さらにパウロは「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」(9:21,22)ここで律法を持っている人とは、規則を守り、正しい人間であることを主張している人であり、「弱い人」とは規則を守れず、正しいと思っている人々からは見下げられ、差別されているような人たちを指しています。それぞれの人々は考えも生き方も違っています。これは現在で言えば様々な人の考えや生き方があるだろうけれども、その人たちを理解して、共に、生きる重荷を分かち合うことを通して「キリストの愛と希望」、即ち、福音を共に知り、福音に生きる喜びを味わってもらいためには「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」(9:23)と言うのです。キリストを信じる真実の愛は成長し広がり、人々を神の恵みの輪として広げていくことになります。キリストの愛、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(テモテU、4:2)



今週のみ言葉 
コリントT、9章23節




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