2011年 1月30日 礼拝メッセージ 
メッセージタイトル   「人を幸せにする心の絆」
聖書箇所  マタイによる福音書18章15−20節
 人の幸せの定義は複雑で一口で言い表せるものではありません。「衣食足りて礼節を知る」というように衣食住は幸せの前提であって、それに加えて「願いの満足」がその度合いになるといえます。どんな人にもどんな時にも、心を受け入れ、理解し、信頼して交われる人間関係こそ大きな幸せの要になるといえます。そもそも人は、家族という繋がりの中で生まれ育てられます。友達、職場の仲間、学友など人と人との交流の中で人生を送ることになります。家庭でも、どこでも人と人の心が繋がり真実に信頼し、助け合えることこそは幸せの基本の要素であるといえます。満ち足りた生活でありながら、孤独や不安が尽きない時に本当の幸せはありません。イエス様は「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)と言われています。「心を一つ」に出来る人がある時、どのような可能性も神は道を開いて下さるというのです。
人と人とを結ぶ心の絆は信頼と愛です。愛があるところに信頼があり、信頼のない愛は成り立ちえないのです。信頼が失われる原因は「罪」であるのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(ヨハネ18:15)。信頼が失われる時、交わりに亀裂が入ります。時として猜疑的になり、会話に誠実が失われ、いらだちが攻撃的になり、対立します。人間としての取り決め、約束を守らないことが「罪」であるといえます。一般に「罪」と言えば刑法のことを考えるのです。しかし、人間は刑法に触れる前に、罪深い思いや、人間としてしてはならない妬みや、怨み、憎しみ、嫉みなど心の中でいつの間にか鬱積しているものです。英語では法に触れる犯罪はクライム(crime)と言い、道徳的な罪、宗教上の罪をシン(sin)と言い分けています。人は、神様の前に、また、道徳的な面からは完全な人はいない誰も罪人であるのです。ということは、私たちのどのような交わりも罪に脅かされているといえます。そこで信頼が愛で裏付けられて「赦し合う」事によって再生できることになります。キリストは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と言われます。そして、使徒パウロは「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:32)と勧めています。
マタイ18章15節では、先ず、「罪」の解決のあり方を示し、「一つ心になる」事が神様の祝福を頂くために大切であるかを教えています。その第一が、心を一つにして祈ることが出来ることによってどのような結果が約束されているかが示されているのです。二人が一つ心で祈る、祈りは「答えられる」という約束です。これは祈りの秘訣であり、素晴らしい祈りの祝福であるのです。
第二に、自我と欲情にとらわれがちな人の心を一つにすることは不可能に近いといえます。色々な約束や、見える条件も確実な保証にはなりえません。先ず、神様との交わりがあるところにその解決の希望を見出すことが出来ます。キリストに出会うことによって神様の前に弱く、罪深い自分を知り、悔い改めることによって御子イエス・キリストの贖いによって罪赦される経験をもつことによって神の真実の愛に目覚めさせられるのです。キリストを信じる、信仰、即ち、信頼することによって神の愛が、罪の悔い改めに導き、「赦し」として忘れ、壊れ、また、反抗していた罪深い人間を「悔い改め」に導き、神様との交わりに回復して下さったのです。二人の人が、このキリストによって現わされた神様の愛を経験する時、二人は心に同じキリストにある思いになるのです。見えない心、信じられないお互いに、キリストによってお互いの心が解り、信じ合えるようになるのです。神の言葉が人を結ぶ時、そこに神の祝福の可能性が、希望が現実の中で生まれてくることになります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)そこにキリストの交わりがあり、その交わりにはキリストがいて下さる場所、即ち、「キリストの教会」があるのです。教会の交わり、そこに祈りの可能性、神の祝福の恵みがあるのです。そこに交わりがあり、喜びと協調と調和、力強い協働の働き、希望にあふれた奉仕が生まれるのです。
【今週のみことば】
マタイ18:19
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
 


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