2013年 2月17日 礼拝メッセージ 

「キリストの喜びに生きる教会」
Tテサロニケ4章1節―8節

 クリスチャン信仰の特徴は神様の喜びに生きることです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ(5:16−18)この言葉に尽きます。いつも繰り返すように、この言葉は命令形で読むと分からなくなります。「いつも喜ぶ」「どんな時にも感謝する」とあるのですが、 “いつも” “どんな時”にも感謝出来ない時、喜べない時が日々の中にはあるものです。むしろ、毎日の生活の中では、“喜べない”時や“感謝出来ない”時の方が多いのです。“喜べない”“感謝出来ない”時でも「喜べるように」「感謝できるように」“してあげる”という約束がその裏にあるのです。これを直接法で読むと言います。そこでこの言葉が生きるのです。神様が“喜べない”時にも“喜べる“ようにして下さるという約束であるのです。
 イエス様を信じるということはイエス様を信頼することです。イエス様の言葉、教えに生きることです。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7,8)この言葉はクリスチャンにとって大きな慰めであり力です。だからこそ「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ8:31−32)と告白できるのです。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。…わたしたちが抱いている希望は揺るぎません。」(Uコリント1:4、7)このように、どのような時にも自分だけでなく「人々」をも助け、慰め、頬笑みを与え、「喜び」を結ばせて下さることが約束されているのです。主は祈られます「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」(ヨハネ17:24)主はマタイ28章20節で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われているのです。
 「いつも喜びに生きる」ということは「神様に喜ばれて生きる」ことなのです。それは、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ12:2)とみ言葉に言われているとおりです。ですから、パウロ書簡では繰り返し「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:10)「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(Uコリント5:9)「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」(コロサイ1:10)という“喜ばれる”ことを求めています。
“主に喜ばれること”は“主の御心に従う”ことです。ですから「あなた方は、神に喜ばれる為にどのように歩むべき」(Tテサロニケ4:1)かを心するのです。イエス様の言葉、教えに生きることは神様の御心に生きることです。その「神様の御心」とは「実に、神の御心とは、あなた方が聖なる者となること」(Tテサロニケ4:3)であるのです。「御心に生きる」人は「聖なる人」であると言っています。クリスチャンはだから「聖徒」と呼ばれるのです。神様の御心に生き、神に喜ばれる人を「聖徒」というのです。神様の御心に生きる、即ち、聖なる生活を築き、聖なる生活を生きることになります。聖は純粋、混じりけのない純化した命に生きることです。
 イエス様の贖罪を信じて私たちは救われたのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)神様の前で義とされ、聖なる者とされたのは恵みによるのです。確かにヨハネによる第一の手紙は「正しい生活をしない者は皆、神に属していません」と明言しています。それだけでなくその前文には「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」(Tヨハネ3:9)キリストを信じた聖徒は「罪」を犯すことがないということは、このみ言葉による限り、クリスチャンになったら罪を犯すことがないということになる。しかし、どのようなクリスチャンでも日々の歩みを完全に過ちを犯さずに過ごすことが出来る人は一人もいないのです。聖書の原文はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語では現在の動詞は進行形で表現されます。そこで英語で訳す時には「Be動詞+ING」で訳します。「罪を犯しません」は「罪を犯し続けません」ということになります。ですから、同じ罪に“とどまり得ない”ことになります。そもそも「恵み」よって義とされることは罪を「赦される」ことであるのです。罪を犯す可能性を持ちながら赦され続け、「『内なる人』は日日新たにされて行くのです。」(Uコリント4:16)だから使徒パウロは勧めるのです「あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:20−24)。
古い人を脱ぎ捨て「神にかたどられた新しい人を身に着け…清い生活を送るようにする。」ことが求められるのです。クリスチャンは罪赦された罪びとであるのです。ですから「日々新たになる」即ち、赦され続けるのです。これは「日々悔い改める」ことを勧めているのです。ルターは「クリスチャンの人生は悔い改めの人生である」と言うのです。罪赦される喜び、神の子とされている喜びを確認する日々であるのです。「神にかたどられる」即ち、「キリストにかたどられる」ことです。聖書は言います。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)信仰の完成は自分ではなく、キリストが完成して下さるのです。クリスチャンの信仰生活は聖化の道です。キリストのみ言葉に聴き、従い、守り、実践する時に、主キリストの真理の霊、聖霊が助け、訓育し、守り、いやし、助けて下さる。それで日日新たにされ、成長するのです。
 そこで具体的に信仰生活で3つの面から聖化のあり方を示します。
第一に、クリスチャンにとって根本的な聖化とは「キリストの愛」に生きるということです。キリストを愛することであり、キリストの愛に生きることにほかならないのです。
第二に、人生を生きる喜びは、人の生命力の現れであるように、「キリストの喜び」に生きることです。キリストに愛されているという喜びにより、キリストに喜ばれる者として生きる。喜びをキリスト中心におく、そのことが聖化の成長のバロメーターとなるのです。
第三に、所有欲、食欲、名誉欲、学習欲、性欲、などに表されるように、人間の生活にはこの欲が不可欠です。それは「生きる力」でもあるのですが、自己欲、自己愛に生きる時、破滅と混乱が起こります。人間は自由であると共に、人と「共に」生きてこそ真実の人間の生きる喜びが生まれるのです。キリストの言葉に生きることは「十字架の言葉に生きる」(Tコリント1:18)ことにほかならないのです。十字架はキリストよって表された神様の完成された愛です。聖化はこの愛の成長であるのです。
 キリストの喜びの溢れるクリスチャンの喜びとは、キリストの愛に生きる喜びです。その愛が生かされ、愛がみのり、愛し合う喜びが満ち溢れることを祈り、実を結ばねばなりません。聖化の溢れたところに神の祝福が稔り、愛のリバイバルが現れるのです。

 

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