2013年 6月9日 礼拝メッセージ 

「主イエスはよき牧者」
ヨハネによる福音書10章7-18節

 ユダヤの諺に「人生にとって最大の幸せはよい教師と出会うことである」という言葉があります。「あなたにとって幸せとは何ですか」と問われると、経済的に困っている人は「お金があることです」と答えるかもしれません。家がほしい人は「新しい家に住みたい」となるでしょう。また、「仕事がほしい」というように、人生の中で必要なものが充足されることがその答えとなるのではないでしょうか。
しかし、どのような人生の局面においても、幸せの鍵となるのは「よい教師に出会う」ことで、これ以外にない、このほかにない、「最大の幸せ」であるといっているのです。華やかなスポーツの競技でも、輝かしい勝利者の陰には優れたコーチが必ず存在します。今では伝説となっていますが徳島の山間にある池田高校は、甲子園野球に春夏通じて出場15回、優勝3回、準優勝2回の成績を残した。人々は何故この田舎の高校が優勝したのか注目した。全国には強豪校が多くあるのです。しかし、池田には優れ指導者、蔦文也という監督がいた。この人の指導性が高校生の持っている能力を引きだしたといえます。
 創世記の1章27節には「神はご自分にかたどって人を創造された。」とあります。神様に似せて造られた大きな一つの要素は、「創造する能力」です。全ての生き物は自然の原理に従って生かされます。しかし、「人間は教育して人間になる動物」というカントの言葉があるように、人は教えられて持てる本来の創造力が引き出されるのです。「教育」Educationという言葉は、デュースduce“引き”e〈x〉“出す”という合成の言葉で、「引き出す」という原義からできています。本来持っている人間の「創造性」を、様々な教材によって興味を持たせて引き出すことを意味しているのです。人は教えられて新しい創造性を生みだす力を与えられることになり、そこに発展と文化が生まれてくることになります。
 人生にとって真実の幸せとは、「どのような時も希望を失わない」ことであると言えます。希望のあるところに可能性があるのです。聖書には、「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(フィリピ4:12,13口語)という言葉があります。どのような境遇にも対処できる解決の秘訣こそ、人生常勝の方策であるのです。人にはどうすることもできないような苦難が襲う時にも、神の言葉、イエス様の言葉には不思議な解決の力があるのです。どれほど多くの人が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ12:28)と言われるキリストの言葉で、命と恵みの道に出会ったことでしょう。
 ペテロ第一の手紙には次のようなお言葉があります「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(Tペテロ2:25。)監督は教え、指導し、訓練し、守り、目標に対応して挑戦し、忍耐と勇気を示し、あらゆる苦労を克服する技能を引き出し、勝利できる人に導き、最後は責任をとる人であるのです。ここにいう「魂の監督」はイエス・キリストです。生活に迷い、人生に迷う「羊」、それは全ての人であり、「誰でも、選別することなく、すべての人」に向けられている神様の招きの言葉であるのです。
 ヨハネによる福音書10章に「良い羊飼い」についてのイエス様の言葉があります。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」
(ヨハネ10:11−15)
 第一に、キリストの「わたしは良い羊飼いである」との言葉は、「良い監督である」(Tペテロ2:25)と理解出来るのです。聖書では羊は集団で行動し、単独では迷い出て帰路を見失うことから、象徴的に「迷える人」にたとえて教える事が多いのです。最も有名なのは詩編の23篇です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い。 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩23:1−5)牧者であり、監督者であるキリストは、迷える羊、迷える私たちを、「正しい道に導き、死の陰の谷」を行く時も、災い、恐れ、不安、絶望から守り、解決、救いを与えられるというのです。
人は充足し、満ち足りた生活にあっても、神から離れ、人間性を見失っていることで空しさ、不安を持つのです。「良い羊飼い」に対して、「責任のない雇い人(羊飼い)」は狼が襲ってくると、自分の命を守るために逃げ出してしまう。このテキストの前後を見ると、イエス様が教えられる神様の愛と赦し、福音を受け入れないで、批判し攻撃し続けるファリサイ派や律法学者の空疎な偽善性を「偽りの羊飼い」と言われているのです。生活を混乱させ、人生を破壊させ、真実の神様の御心に心を閉ざす愚かさに、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われるのです。イエス様は、ご自分が羊の為、「命」、生きる意味、生きる希望、生きる喜びを「命をかけて守り、与える真実の羊飼い」であることを言われているのです。やがてイエス様は、神の心を見失った世界の罪深いすべての人々のために十字架に架かられ犠牲となられたのです。イエス様の言葉は永遠に変わることなく人々の希望となり、真実の幸福の救いの道を示されているのです。イエスを信じる人と聖霊なる神は共にいて、人々に生ける主、キリストを表わし、教え、育て、訓練して下さるのです。「死の影を歩むとも災いを恐れない」人として教え導いて下さるのです。
 第二に、よき監督に従い目的を目指していく上での根本的なことは、監督を「信頼」することに尽きます。教育の前提要件は、「信頼」にあります。監督の訓練方法、その計画を受け入れて目的を達成するのです。イエス様は、「わたしは良い羊飼いである」と言われています。実践神学の学者である加藤常昭先生は、説教集の中で「わたしは良い羊飼いである」いう言葉を翻訳し、解釈し、「わたし“が”良い羊飼いである」という点に注目しておられます。更に、「良い」という言葉は「ほんもの」という訳もあることが紹介されていました。「わたし“が”“ほんもの”の羊飼いである」というのです。確かにファリサイ派と律法学者の批判と、その高慢な偽善的教えを前にして、「わたしは良い羊飼いである」と言う時、彼らには「わたしたちは正しい羊飼いである」という主張があり、人々が選ぶことがあり得るのです。しばしば、わたしたちは信じたと言いながらも、自分が見比べて信じた、自分の意思でそう思い選択したと考えます。しかし、イエス様は信じても信じなくても、イエス様ご自身が「わたし“が”“ほんもの”である」と言われる時、それは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われている言葉につながり、言い尽されているのです。信頼によって監督の言葉が生きるのです。
 第三に、監督の苦闘のもとに訓練を受けます。チームでの試合は選手個人がポジションを守り、メンバーと協力、共調して目的を目指します。そして一人一人が全力を尽くします。マラソンの高橋尚子の練習をテレビで見たことがあります。練習には伴走が付き、練習を補佐します。監督かある時は他のコーチであることもあります。しかし本番では一人で競技します。どのような試合でも、監督に教えられ、訓練を受けたその「言葉」が生かされて実を結ぶのです。クリスチャンにとってイエス様が「牧者であり、監督である」(Tペテ
ロ2:25)のです。
信仰の覇者を目指そうとするならば、「主の言葉」に聴くことです。監督の言葉を身に着けることです。このことは人生の勝利の基本的な前提であるのです。そして現実生活の中で熟達し、御言葉を生かすことによって約束の実が豊かに結実するのです。クリスチャンにとって魂の監督者なるイエス様の生ける言葉が命となるためには、御言葉が心の中に宿り、全ての思い、傾向、生きていく上での信条が主の御心にかなうことであるよう訓練していくことこそが重要であるのです。それは聖霊による導きの中で「祈り」、信仰の修練を積み重ねることによって達成されるのです。物事を決定し、実践しようとする時、自然と「主の御言葉」が思いだされ、聖霊の光に照らされて示される道を、真理の道を、命の道を大胆に進むことが出来るのです・そこには約束の祝福のゴールがあるのです。クリスチャンは常に勝利者であることをイエス様は支え導いて下さるのです。「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8;37口語)と告白できるのです。感謝!!

 

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