2013年 7月28日 礼拝メッセージ 

「試練を克服する鍵」
マタイによる福音書7章24−29節

 マタイによる福音書の5章から7章までは「山上の説教」として知られていて、イエス様の中心的な教えが凝縮されています。旧約聖書の「モーセの十戒」に対して、「新約の十戒」とも言われます。十戒は、人が幸せに生きる為の基本的な戒めであって、前半は神様に対して人が守るべきことを示し、後半は人が人と共に幸せに生きるために守るべきことを示しています。人は互いに人と共に生きて、生活と人生をおくることになります。そして共に生きる上で、相手に願望や充足を求めることになります。そこでお互いの求めるところによる摩擦を起こし、ぶつかることになるのです。ですから協調と譲歩、犠牲と思いやりが求められます。幸せに生きる、平和に生きる約束がなくては共に生きる生活は成り立ちえないのです。その約束の根源にある約束こそ「十戒」です。十戒はモーセがシナイ山で神から与えられた啓示です。前半の神様と人との交わりの約束は1、創造主なる唯一の神を神とする、2、偶像を作って礼拝してはならない、3、神の御名を妄りに唱え、汚してはならない、4、神が森羅万象を創造されて休まれた日を安息日として仕事を休み、神の恵みを覚える、ということです。
 更に、人と人とが平和に生活し、幸せに生きるという神様の御心、戒めを示しておられるのです。その1、父母を敬いなさい、2、人を殺してはならない、3、姦淫するな、4、盗んではならない、5、偽証するな、嘘をついてはならない、6、人の物を欲しがってはならない。という戒めこそは、今日の家庭や社会を構成し、根源的に幸せに生きるための法律の脈絡であるのです。この戒めを中心に、律法学者や祭儀をつかさどる祭司、神様の御心を解き明かす預言者などによって生活上の様々な律法が形成され、生活原理となっていったのです。その律法を守ることが、神様の御心に生きることであり、神の民であると信じられるようになって行きました。律法を守る人だけが神の国に受け入れられると信じるようになりました。律法学者や祭司は、永遠の命に生きる者とされるというように律法を解釈し、教え指導したのです。しかし、イエス様は実際に「人を殺すな、人を殺した人は裁きを受ける」という律法を守っても(マタイ5:21)、「兄弟を憎む者は裁きを受ける」と言われるのです。又、「姦淫するな」という戒めも、人は心にみだらな思いで異性を見る人は既に姦淫しているのだと心の中を指摘されるのです。「盗むな」ということも心の中で「人のものを欲しい」という動機が昂じて「盗む」罪となるのであり、どのような人でも心は罪意識にさいなまされていることを指摘され、どのような人間も罪ある現実から逃れることはできないと教えられたのです。だからこそイエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)と叫ばれたのです。
律法学者や祭司たちは、律法を守るには、律法を知らなければならない。律法を読めなければ、守ることが出来ないと考えたのでした。当時のユダヤでは多くの庶民は教育を受ける機会もなく、生活の中で伝承されている律法の適応の決まりを守っていながら充分であるとはいい得ないのです。庶民は律法学者や祭司、とりわけ律法を厳密に守ることを実践していると思っているパリサイ(派)人達から、律法を知らないものとして見下げられ、汚れた人間、罪深い人間、救いようのない者として差別されていたのです。イエス様はこのような偽善性を暴露して、真実の神様は「罪を認め、悔い改める人はどのような人でも赦し、受け入れて下さる愛なる神様である」ことをお示しになるのでした。
 ユダヤ人の指導階層である律法学者や祭司、パリサイ派の人々は、イエス様は神の御心を表している律法を否定する、恐ろしい人間であると譴責するのでした。しかし、はっきりと次のように言われるのでした「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17,18)と。真実の神様の御心である律法の真髄を指し示されたのでした。律法の目的は「裁き」ではなく、神の「愛」の救いと回復を示すことにあることを示されているのです。正に、イエス様がこれから十字架の道へ進まれ、十字架の出来事を通して示された「福音」、神様の愛と恵みによって、初めて神様の律法が生かされることを教えておられるのです。
 神様の愛と恵みによって罪赦されたものであるからこそ、神様の御心に生き、神の国に生き、神様を見る(5:8)日々を送ることを「山上の説教」で示されたのです。勿論、マタイによる福音書の5章から7章に纏められている「8つの祝福」や「主の祈り」などの多くの教えは、ガリラヤ湖のほとりの小高い丘で全てを語られたのでなく、その生涯に主イエス様が教えられた教えを纏めて記録したものです。
マタイは山上の説教の最後に記録して勧めています。「わたし(イエス)のこれらの言葉(山上の説教)を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:24−27)ユダヤの指導者たちが、イエス様が神様の愛と赦しを教えられることに対して、律法を無視するもの、人の生きる道としての律法を破壊するように言っていることに対して、イエス様は「律法を完成させる」ものであり、律法の使命を真実に生かすことにあることを「山上の説教」で教えられたのです。ですから「わたしの語った言葉」を守り実践することを明言し、神様の真実の御心に生きて人の根源的な幸せを実現しなさいと勧められるのです。
ここで示されているのは「賢い人」と「愚かな人」です。「賢い人」は「イエス様の言葉を聴いて行う人」であるというのです。その人は「岩の上に自分の家を建てた人」であるというのです。「愚かな人」は、「イエス様の言葉を聞いても行わない人」であり、そのような人は「砂の上に家を建てる」ようなものであるというのです。雨が降り、洪水になり、強風が吹くと倒壊するのです。これは何を意味するのでしょうか。聖書に記録されている「愚かさ」は、「愚かな者は心のうちに“神はない”と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。」(詩14:1)とあるのです。「愚かさ」は「神を否定」し、自己中心になり、自己欺瞞に堕ちるというのです。命と存在の根源である創造主なる神様を信じ、知る時にその雄大さ、無限、無窮、慈善にして、慈愛、尊厳に自己の存在の真実を知ることになります。カルヴインは「神様を信じることは、自分を知ることである」と言いました。創造主であり父なる神様を信じ、その偉大さを知る時、与えられる大きな恵みは「謙遜」と「感謝」であるのです。「謙遜」と「感謝」は神様に愛されている自分の発見から得られる徳であると言えます。神様の愛に支えられている自己の認識こそ、神様を信じる「賢さ」であるのです。
 イエス様の教え、福音に生かされる時にこそ、真実の神様の民として永遠の命を今に生きるのです。やがて嵐が来る、その嵐こそは全ての人が経験する「死」の試練を通し人が通らねばならない審判の時であるのです。復活を約束されているクリスチャンにとって、その試練は栄光の救いの時であり、永遠の命を確かなものにする祝福の時であるのです。
 「愚かな人」は、外面的な、見せかけだけの、偽善的な信仰しかなく、イエス様の御言葉、福音を無視する人々であり、砂の上に建てた家のように嵐と洪水が来る時、正に、終末の裁きの時に、虚無と悲惨、絶望の奈落が待っていることを教えているのです。
 「山上の説教」の言葉とは、人が真実の命、永遠の命に生きる言葉であり、メッセージであるのです。人の愛と自由、真実の幸せの道、救いの道がそこに語られ教えられているのです。イエス様は、「敵を愛せよ」と命じられます。「復讐はするな」「天に宝を積みなさい」「神を信じて諦めるな」「求め続けよ、門をたたけ、尋ね続けよ」、「見せかけの偽善的な信仰に生きるな」そして、「御国が来ますように、御心が行なわれますように、天におけるように地の上にもあるように」と祈るように教えられたのです。律法の強制に偽善と奴隷化した人間としてではなく、神様の真実な愛と神様から与えられた自由、自主によって真の神様を信じ、従い、御言葉に生きるところに平和と平安、自由と愛が約束されているのです。「山上で教えられた御言葉」を、イエス様の十字架の福音を基本に実践しようではありませんか。
私たちの人生には楽しい日もありますが、様々な試練に直面することも多くあります。病気、事故、経済的な試練、人間関係のトラブルなどがあるものです。そして「死」をもって終わりを迎えます。しかし、活ける創造主であり愛と恵みにと見たもう神様を信じ、み言葉に生きる時、希望と自信を与え、試練を克服する道を示して下さるのです。
イエスは「山上の説教」で「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31−34)
と言われるのです。そして人生最大の試練である「死」を克服し、永遠の命を約束し、復活の希望に生かして下さるのです。


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