阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2014年12月21日
「祝福の訪れクリスマスの出来事」
マタイによる福音書2章1−12節

  寒い冬の夜空、輝く星空は美しい。闇が深ければ深い程、星も美しく輝く。オリエントの国の古都バビロンは、世界の文明の発祥の地として輝かしい伝統がありました。古代のバビロン、ペルシャと続く王朝文化の背景には、権力制覇の限りない闘争があり、その輝きも、やがてマケドニア帝国の台頭によるギリシャ文化の支配の下で屈辱を受け、さらにローマ帝国が興り、衰退したバビロンは栄華の過去を回想し、嘆きの暗い日々を送っていたのです。そのような中に、かつては屈辱的な敗北をし、イスラエルから捕囚で連れてこられたユダヤ人の末裔たちが住んでいました。この人たちは苦難の中でも、常に世界の平和を築く救い主、メシアが来られる事を、絶えず待ち望んでいました。それはユダヤ人が祖先からの伝承として持ってきた書物、(聖書・モーセの律法、預言書、詩歌書)によるものでした。そして、その伝承には、メシアがお生まれになる時は、星が現れてそれを告げるとあるのです。
 バビロンの都に住んでいた「星」を研究する学者の間では、大きな興味をもって探求されていたのです。そのうち、日常見る事のない、赤星が現れているのを発見するのでした。そして、ユダヤの人々に伝わる伝承についての「希望」と「確信」を持ったのです。ユダヤの人々の唱える希望の平和とは、「(来る王)その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。」(イザヤ11:2−5)という事でした。この地上の弱肉強食の悲しい自然の不条理さえも解消される調和と融合、真実の平和の姿、すなわち、「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」(イザヤ11:6−10)という言葉を聞いたのではないかと言われているのです。夢のような王の来臨を聞いていたのです。ペルシャに残っていたユダヤ人の多くは、異民族の囚われ人として、蔑みと差別、虐げを受けてきました。ユダヤの捕囚の人々は、国政を動かす能力者が中心であったのですが、バビロンやペルシャの治世では重宝がられていました。しかし、絶えず、民族差別と偏見に虐げられていたのです。その悲しみと抑圧のもとでいつも希望と確信をもって忍耐する人々に、征服者の国々の人々は関心と興味をもったと言えます。おそらく、当時はマケドニアに支配され、文化と歴史を否定され、支配される屈辱を受け、虐げられる悲しみを受けながら、イスラエルの悲しみを回想しているのです。占星術の学者たちは、このイスラエルの伝承と、夜空に輝く不思議な星を結び付け、その星が表す平和と、真実の幸せを約束する王に会いに行こうと決意するのです。
 現在の世界では、クリスマスを前にして、148人の子供たちが無差別に殺害されるという事件がパキスタンで起こりました。何故、どうして意味のない、むごい、無抵抗の未来のある子供たちを殺戮するのか、できるのか。何も見えない闇に包まれた世界。人の心を失う時、人は悪魔になると言えます。人が人として持つ心とは、「愛し合う」事です。悪魔とは、神に与えられた「愛し合う心」をなくした人間の実態であるのです。イエス様は、「愛し合うところに神がいます」と教え、「愛し合う」事は人の生きる道であり「戒め」掟であると言われています。(ヨハネ13:34)
3人の博士は、未来の見えない現実の中で、「世界の平和」を実現するという、ユダヤにお生まれになる「王」を求めて、夜空に輝く不思議な星をたよりにユダヤに着くのです。エルサレムに至り、ユダヤの王ヘロデに、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)と尋ねました。それは、「救い主メシアの、王の星が出ると、かねて聞いていました。その星だと確信して、その星に導かれて、それをたよりに来ました。」という事です。これを聞いてヘロデ王もエルサレムの人々も「不安」を抱いたのです。イエス様のお生まれになる頃、ユダヤは長い間ローマの支配を受けていました。マケドニア帝国にローマが勝利し、ギリシャ化された文化への反動をユダヤの人々も持っていたので、厚意をもって優遇してきたのですが、やがてエルサレムの神殿税などを廃止しようとする動きや、容赦のない差別と抑圧意識に転換するようになっていたのです。ヘロデ大王は、ローマの傀儡のようになっていながら、ユダヤを治める為に、巧妙な迎合政策をとり、神殿の修復などに取り組み、巧みな政治力をもって祭司たちや律法学者たちを取り込んでいたのです。そのような世情の中で、新しいメシア、救い主が生まれるという事は、ローマとの間の新しい混乱となる事を心配したのです。それと共に、王位を奪われる事にもなりかねないヘロデ大王にとっては、緊急に止めざるを得ない事態であったと言えます。彼は不安を感じつつ、律法学者たちに調べさせ、ミカ書からメシア誕生の地は「ユダのベツレヘム」(ミカ5:1)である事を知り、3人の学者にそれを教えました。そして、「ベツレヘムに行って、幼子の事を詳しく調べよ、私も拝みに行こう」と言うのでした。
 ここで注目すべき事は、本来、イスラエルにメシア、救い主なる王が生まれ、神の国を実現し、真実の平和で公平な国を実現されるという事が、神の言葉の約束として、預言者の文に記されていたのです。しかし、現実には、世的な権力争いにしか心を向けていないのでした。3人の学者は、ベツレヘムで星が導く救い主、王である方に出会うのです。メシア、王として生まれたイエス様を礼拝し、心からの贈り物を捧げ、御使いの言葉に従ってそこを去り、故国に帰るのでした。その事を知ったヘロデ王は激怒して、ベツレヘムに幼児殺戮隊を派遣するのです。イエス様の両親は御告げを受けてエジプトに逃れます。神様の祝福の救いの出来事が、幼児殺害の悲劇で始まるのです。現在、我々の住んでいる世界で、148人の子供が犠牲になり、多くの子供が傷ついている現実に深い悲しみを覚えると共に、クリスマス、神の御子がお生まれになった出来事の意義を深く噛みしめましょう。イエス様はその生涯を通して神様の力と愛を示されました。神様が「愛」である事の意味を示され続けました。イエス様が十字架で死なれた事が、真実の神様の愛のメッセージである事を悟らなければなりません。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)神様、即ち、子なる神イエス・キリストがご自分を犠牲としてその「愛」を現して下さったのです。
イエス様の現された真実の愛のあるところに、神様が存在されるのです。神が存在され、治められるところこそ神の国であるのです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(Tコリント13:4−8)クリスマスの贈り物、それは神様の愛です。神様の愛に生きるところに神様の国が実現するのです。それがクリスマスのメッセージです。神様の愛があるところに、「和解」が生まれます。「一致」が生まれます。そこに「平和」が実現するのです。平和は安全です。平和は人の生きる命です。
3人の星の学者は、幼いイエス様に3つの贈り物を捧げました。クリスマスの心を心として生きる平和の子クリスチャンは、「黄金」、即ち、信仰の心を捧げる事です。平和の神、愛なる神、命と存在の根源である神を信頼する事を表します。黄金は尊さ、大切なもの、自分自身を捧げ、神様に喜ばれるように生きる、信頼を表すのです。「乳香」はかぐわしき香り、心から生まれる命、それは「祈り」であると言われます。日々に祈りの香り、香をたく生活、神様の御心に生きる事を指すのです。そして、「没薬」、人が死を迎えるときに用いる香りです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」ガラテヤ(2:20)クリスマスに生きる事は、自分に死んでキリストに生きる事であるのです。没薬、それは自分に死ぬ事を告白する事、新しくなってイエス・キリストの心を心として生きる時に、そこに神の国の平和と愛による和解と希望が約束されるのです。
パキスタンの148人の子供たち死を悼み、その痛みを無駄な犠牲にしないで平和と愛を求めて神様の国の実現を待ち望もうではありませんか。

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