阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年4月5日
「死の悲しみと不安の克服」
ルカによる福音書24章1−12節

  復活祭、イースターを心よりお祝い致します。キリスト教では、クリスマスと復活祭、そして復活されてから50日目に弟子たちに聖霊が下る出来事を記念して、五旬節、即ち、ペンテコステ祭があります。今日の教会では、主にこの3つの日を記念すべき日として特別な礼拝会を致します。復活祭は、イエス・キリストが死から甦られたことを記念する日です。「記念する」という事は、聖書の言葉(新約ギリシャ語)でアナムネーシスと言います。それは「思い出す」という意味ですが、過去の事を単に思い出すというだけでなく、過去の出来事が現在にまで影響を及ぼす事であるという意味があります。過去の出来事であるけれども、その出来事を今現在も同じように実体験するというのです。
 それは、イエス様が弟子たちに繰り返し語られた、「死から甦る」という事が、現実に起こったという事実です。ベタニアのラザロが病気で死んだ時、マリアとマルタの姉妹は途方に暮れて悲しんでいました。そしてイエス様を迎えて、マルタは、もしここにいてくださったらラザロは死ななかったのにと言ったのです。しかし、イエス様ははっきりと言われるのです。「あなたの兄弟は復活する」と。マルタは、「終わりの復活の日に復活する事は知っています」(死から復活するなんて)と言います。そんな事は起こり得ないと思っているのです。「終わりの日に復活する」という「話」は知っていますと語り、知ってはいるけれども現実にはわからないという思いであるように見えるのです。言い換えれば現実にはわからない、そう思っているだけであるように見えます。今日の科学的な考え方である、根拠のない事は信じないというような事は、古代の人々も同じであったと言えます。
しかしイエス様は、「復活」がイエス様にとって現実の事であり、復活を保証する証しを明確に示されるのです。はっきりと宣言されます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25、26)神であり、救い主としてこの御言葉の真実を指し示すために、ラザロの復活、死からの癒し、再生を実現されたのです。この出来事を通して「復活」の事実を実証されたと言えます。しかし、この地上でラザロはやがてその人生を終わるのです。マルタは「終わりの日に復活する」事を知っていると言いながら、実際にはそれは単なる気慰めであって、よくわからないとさえ思っているようにも見えます。しかし、イエス様は事実、死から甦ることを見通し、それを証明するためにご自分の復活を明らかに宣言され続けられているのです。「わたしは3日目に復活する」(ルカ18:33、マタイ20:19)。
 イエス様は金曜日に十字架に死なれて、3日目の日曜日の朝、お甦りになったのです。金曜日、ゴルゴダ(されこうべという処刑場)で最後を迎えられました。その後、イエス様を慕っていたサンヒドリン(最高法院)の有力な議員であったアリマタヤのヨセフが、総督ピラトからイエス様の死体を引き取り、新しい墓に安置するのです。イエス様が生前、「3日目によみがえる」と言われていたので、イエス様を告訴した祭司や律法学者は、弟子たちがイエス様の死体を盗み、話をでっち上げようとすると警戒して、ピラトに訴え、兵士たちに墓の番をするようにさせるのでした。日曜日の朝早く、イエス様を慕う婦人たちが、遺体に香油を塗るために墓に行ったのです。しかし、そこには遺体にまかれてあった布があるだけで、イエス様の遺体は見当たらず、途方に暮れていると、輝く衣をまとった二人の人が現れ、婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:5−7)と言います。婦人たちは、イエス様の言葉を思い出して、すぐに弟子たちのいる所に行って、一部始終を報告するのですが、弟子たちは戯言(たわごと)のように思い、信じないのです。しばらくしてペテロともう一人の弟子が確認に行って、その事実を見て驚くのでした。
 そして、その日の夕方、弟子たちにイエス様は現れなさるのです。エマオの途上にある二人の弟子がイエス様に出会う出来事が起こります。コリントTの手紙15章には、イエス様が40日にわたって様々な人に出会われた復活の事実が語られています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(コリントT15:3−8)このように初代の教会は、イエス様が十字架につけられ苦しみを受けられ、死して葬られながら、なお復活された事が事実起こった事を、多くの者が見聞きし、体験しているのです。復活されたイエス様は幾度となく弟子たちに会い、弟子たちの疑いは除かれていくのです。そして聖霊の来臨を語り、聖霊を待ち望む時に、そこでイエス様の全ての「救い」を経験するのでした。
 聖霊を受けた時、疑念の雲が晴れ、イエス様が約束される十字架の罪の贖いと復活の真実の意味を悟るのでした。イエス様の教えられた真理、命の道、救いの道、神様の約束される平安と希望、唯一の道を確信するのでした。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)ですから、イエス様の復活の出来事の事実、真実こそ、クリスチャン信仰の土台であるのです。使徒パウロは、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(コリントT15:12−19)と言っています。
 第一に、どのような人も、人生は死で終わります。これは事実です。この世に生を受けて喜怒哀楽に翻弄(ほんろう)されながら、肉の欲を持つ限り、様々な罪にまみれて生きるのです。死を迎え、孤独と不安、消滅の恐怖と諦めに苛(さいな)まされて終わるのです。それは絶望であり、希望がないのです。正に、「絶望とは死に至る病」の言葉が現実なのです。絶望とは希望がない事です。人は目的がないと生きる意味を見いだせません「救い」とは、生きる意味を見出し、死を克服する事です。命と存在の根源者である神様に帰属(きぞく)する事です。
 イエス様は「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方(神様)を見るのである。わたしを信じる者が、誰も暗闇にとどまることのないように、わたしは世の光として世に来た。」(ヨハネ12:45−46)と言われました。闇とは不安です。闇とは心の闇です。その闇こそ罪の現実であり、神様を見失い、拒絶するところの不安と絶望があるのです。愛なる神は、自己を犠牲にして罪人に救いの道を開いて下さったのです。
 第二に、人を闇である死から解放するために、復活の道を明らかにされたのです。イエス様を通して神様の命、愛を回復し、平安と希望に入れられるのです。形ある人の現実の人生はやがて終わります。しかし、主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と約束されているのです。見える体の形相は変わり、失せます。しかし、内なる人こそ日々新たにされ、復活の時を目指して、希望をもって生かされるのです。「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(コリントU4:16−17)人の内なる実相は、神様の約束される「復活」の日を待ち望んで現実を克服して生きる事ができるのです。18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と使徒パウロは断言するのです。
 第三に、イエス様は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)と言われました。終末の時が語られているのです。そして、神様の言葉、約束は変わらないというのです。現在の地球物理学は、宇宙森羅万象の終わりを明確に予測しています。やがて、新天新地が再創造され、復活の時が来るのです。永遠の平安、神の愛と信頼の調和の時が約束されているのです。鳥が地上で卵を産み、育って、やがて天空を自由に飛ぶように、地上では不安と期待の交錯する飼育が続けられ、やがて時が来たなら全く違う空間に自由に高く高く舞い上がるのです。
 復活の朝、神の御国に新しく生きる喜びをもって臨もうではありませんか。そこに永遠の命の現実があるのです。その希望に生きる時こそ、永遠の時に生かされているのです。復活の希望は不安と困難を克服するカギであるのです。主イエス様の復活の約束を信じ、生きようではありませんか。

「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(コリントU5:8、9)


 ページのトップへ
  
2015年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ