阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年7月31日
真の平安
ヨハネ2章1−12節

 
今日も共に礼拝を捧げることのできる恵みを心から感謝します。
7月25日に梶本葆(しげる)兄が召されました。先週のユタカ姉のお証で状態をくわしくお聞きしていましたが、翌日の急逝でした。梶本兄は、昭和5年1月30日のお生まれですので、享年86歳の長寿を全うされました。穏やかな召天でした。26日納棺式、27日告別式でした。
梶本兄の召天と告別は、悲しみの中に平安があり、また、まだ主イエスを信じておられないご親族などへの信仰の最期の良い証となりました。これもまたすばらしい慰めであったと思います。これからの梶本家の更なる祝福のためにお祈りください。
詩編116編15節に、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価(あたい)高い」という御言葉があります。主イエスを信じて贖われた者の死は、神の前に価値が高いという意味です。キリストに贖われた者は、地上にあっても召されても神の前に高価で尊い者なのです。そして、私たちは、一人の聖徒を天に送る時、今地上にある自らの処遇についても考え合わせる機会となります。昔牧会していた教会でのことですが、ある姉妹が、「私が死んだら、家族にすべて委ねなければならないのだから、家族が仏式でもなんでもどういう形で葬儀をしてもかまわない」と言われたことがありました。ご家族は信仰をもっておられませんでした。それを聞いていた別の姉妹が、「それはどうだろうか。葬儀は最後の信仰の証の場になるから、教会中心にするよう、元気な時に家族にしっかりと伝えておかなければいけないと思う」と言われたのです。私が言うべきことを言って下さったのです。クリスチャンにとっての死は、神の目に価(あたい)高いもので、忌むべき事ではありません。真の故郷、備えられている「天にある永遠の住みか」(Uコリント5:1)に帰ることで、パウロは、「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Uコリント5:8−9)と告白しています。
考えたくはありませんが、充分元気な時に自分自身の葬儀はどのようにしたいか、祈りながら考え備え、書き残すなどして、意志を表明しておくことは大切であると思います。聖霊は、信じる者の内におられて、常に「命と平和(平安)」(ローマ8:6)に満たされるお方です。生きていても召されても命と平安に満たされ続けられることは、神の素晴らしい祝福です。
さて、主イエスは、公生涯最初のしるしを、ガリラヤのカナという所であらわされました。ある家で結婚式が行われ、主イエスの母、マリアがそこで結婚式のための様々な用をしておられました。ユダヤの結婚式は、非常に重要な行事で、夕方以降に行われて、それから一週間、花嫁花婿は家で冠をつけて、王と王妃のように扱われ、一生の内で一番素晴らしい一週間を送ることになります。結婚式には招待客も多く、もてなすことは神聖な務めとされていました。
この婚宴の席上、困ったことが起きました。ぶどう酒が足りなくなってしまったのです。新郎新婦にとって、大変面目がたたない事態となってしまいます。そこで、母マリアは、主イエスのところへやってきて、「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。主 イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と、お答えになりました。しかし、母マリアは召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と伝えました。そこには80リットルから120リットル入りの甕が6つ、清めのために置いてありました。水はまず家に入る時、足を洗うために必要でした。また、手を洗うために必要でした。厳格なユダヤ人は、食事の前に手を洗い、食事中も献立ごとに手を洗いました。ユダヤ教の規定ではこのように定められていたのです。主イエスは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と召使に言われました。召使は水がめの縁まで水を入れ、主イエスが言われるように、宴会の世話役のところへ持って行きました。世話役はこのぶどう酒がどこから来たのか知らなかったので、花婿を呼び、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と言いました。最上質のぶどう酒でした。
この出来事は、母マリアのイエスに対する信仰を示しています。困った事態が起きた時、そして、それを容易に解決することができない時、どうするのかという事です。主イエスに頼る時、事態は最善に変わるのです。ぶどう酒をすぐにどこかで用意する手段はまったくありませんでした。主は、マリアに「わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われました。それは、主がこの世に来てくださった目的を表しています。十字架の贖いの死と復活です。主イエスはご自分の生涯の目的を良くご存じであり、そのために歩まれた方でした。全人類の罪の贖いのために命を捨てる事、そして、仕えるために来られたことをお伝えになりました。
そして、「あなたは、この出来事についてこの先どうなるかわからないでしょう。この困った事態を心配しないでわたしに任せなさい。そうすれば、わたしがわたしの方法で解決しましょう」と言われているのです。心強いお言葉です。実際に、主イエスが具体的にどうされるのかはお答えになりませんでした。人はそのような時は不安を覚えるものです。この事態がどう収拾(しゅうしゅう)されるのかわからない。今、困難に直面しているなら、それがいつ、どのように解決されていくのかわからないことに心が乱れるのです。
マリアは主がどのようにされるか理解できませんでした。しかし、主を信じたのです。「この方が言われることは、その通りに何でもしてください」。これが信仰の言葉です。「私にはこの先どのようになるかわかりませんが、必ず主イエスが最善の方法で必要を満たして下さる」と、信じたのです。主イエスは、大量の最良のぶどう酒を備えてくださいました。足りないことはありません。満ち足りて何も困らないようにしてくださったのです。主イエスは、私たちが生きていく上で必要なものは与えてくださると言われています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)明日の事は明日神様が備えられるから、心配しないで、今日精いっぱい御心に従って励みなさいと、教えられています。主イエスと、その御言葉を心から信じるとき、魂に平安が沸き上がるのです。この世の平安ではありません。この世の平安はすぐに失われてしまうものです。病気、悩み、アクシデント、ストレス、さまざまなことで心を悩ませることが多いのです。生きている限りそれらから逃げることはできません。主イエスが下さる平安は、たとえ多くの困難に取り囲まれていても、心の内、魂の奥深くは主イエスの平安に満たされ続けるという体験なのです。十字架の贖いによって罪が許され、永遠の命の保証が与えられているのです。神に高価な者として受け入れられているのです。内から泉のように沸き上がる平安があります。母マリアは主にこの問題を委ねてから、何をしてくださるか、落ち着いて待ったと思います。主イエスが解決してくださるのです。主はみなさんの心のうちに今日真の平安を与えておられます。それは、他の誰も与えることのできない主の平安、魂の平安です。委ねる事、落ち着いて待つこと、平安を喜ぶ事、すべて恵みです。主を心から信じ従って行きましょう。
「わたしは平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)


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