阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年12月4日
「神の民」
Tペトロ2章9−10節

 アドベント第二週に入りました。11日は、いよいよクリスマス・ゴスペル・コンサートです。御霊によって一つとなってこのコンサートが祝福されるよう、祈り備えましょう。
ペトロの手紙は、1章のはじめにあるように、各地に離散している
クリスチャンたちに宛てて記された手紙です。地名が何ヶ所か記されていますが、ほとんどが今のトルコにあった町々で、読み終わったら次の町の教会に次々に回覧されていました。ペトロの手紙は、迫害にあいながらも信仰に励んだ人々に希望と慰めが記されています。
イエス・キリストを信じる者は、決して失望することがない事、しかし、御言葉を信じないと躓いてしまうことが教えられました。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが、広く伝えるためなのです。」(Tペトロ2:9)
イエス・キリストを信じる者は、この御言葉のような者にされていることを教えています。クリスチャンは、神に選ばれた民であり、王の系統の祭司であるとあります。祭司とは、神と人の中にあって、人を神の許に導くという役割を持っていました。また、祭司という言葉に、「橋を架ける人」という意味があります。神がキリストの十字架という救いの橋をかけてくださったように、クリスチャンも救いの橋を架ける人であれという意味があります。
また、祭司は神にささげものをする者でした。旧約の時代には、動物の犠牲が何度も繰り返してささげられてとりなしがされました。しかし、イエス・キリストはたった一度ご自分を捧げられて贖いを完成されたのです。「キリストは・・・この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ9:11、12)今、私たちはキリストによる罪の贖いを受け、聖なる祭司にされました。そのささげものは神に対する礼拝です。礼拝は義務ではありません。神へのささげものなのです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)真の礼拝者であるなら、なんと幸いな事でしょうか。
また、賛美も霊のささげものです。「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」(ヘブライ13:15)とあります。
賛美は人を喜ばせ楽しませるものではありません。讃美歌とあるように、賛美すなわち歌と考えてしまうのですが、賛美とは神を崇め、褒め称えることです。ですから、神を崇める心が伴わないなら、どんなに言葉をつくしてもそれはただの歌であって、賛美にはならないのです。また、信仰がなければ賛美をすることもできません。生きておられるキリストを体験として知っている者だけが賛美のいけにえをささげられるのです。  
詩編106編は、出エジプトを記した詩編ですが、大きな奇跡を体験しながらもその御業を忘れ、不信仰のために荒野の試みを受けても、なお神に逆らい続けたイスラエルを、神はご自分の民に選んだという契約を忘れずに、最後まで憐れまれたことがうたわれています。「あなたを賛美し、ほめたたえさせてください」(詩編106:47)とあります。心からの祈りなのです。祈りと賛美は切り離すことができません。
更に、「暗闇の中から、驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため」とあります。罪の闇の中から救い上げ、神の栄光の光の中に招き入れられた、驚くべき御業を語り伝える事、これが救われた目的です。
神を第一として賛美し、救いを感謝し、いつも喜び、どんな時にも祈る姿、また教会の礼拝、諸集会に喜んで集い、力を得て平安に過ごす姿が伝道にならないはずがありません。すべてを神に委ねる姿は人の心を打つのです。ことばと生活による証しは、必ず実を結びます。
10節に「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐みを受けなかったが、今は憐みを受けている」とあります。
神は御自分の民ではなかった者を神の民にされたとあります。救いとも恵みとも関係なく生きてきた者を、神の民としてくださったのです。無益な者から有益な者へと造り替えられたのです。
フィレモンへの手紙の中に、オネシモについての記述があります。
オネシモとは、「有益」という意味があるのですが、彼はコロサイのフィレモンというクリスチャンの家の奴隷でした。フィレモンの許からお金を持ち出しローマへと逃亡したのです。そして、ローマで監禁されていたパウロと出会い、そこで回心してクリスチャンとなりました。パウロはフィレモンとは親しい間柄でした。パウロはオネシモを自分の許においておきたかったのですが、主人に送り返すのが妥当と思い、フィレモンに手紙を書いたのです。オネシモは、かつてあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにも私にも役立つ者になっていますと書き送りました。文字通り「オネシモ」に変わったのです。
当時逃亡した奴隷、しかも主人のお金を盗んだ奴隷は厳しい制裁を受けなくてはなりませんでした。しかし、パウロは、オネシモがフィレモンのもとを離れたのは、オネシモがクリスチャンとなって、いつまでもフィレモンに仕えるためであったかもしれないと書き送りました。パウロと思って迎え入れてくれるように、丁寧に頼み込みました。
主人から逃亡したオネシモに、平安はありませんでした。見つかって送り返されたら大変な目に遭い、ひどい場合は死刑になるかもしれないからです。しかし、パウロに出会って、キリストの救いを受け、「有益な者」と呼ばれて主人の許に帰ることができたのです。暗闇から驚くべき光の中へと招かれたのです。もはや奴隷以上の者、愛する兄弟として受け入れられたのです。神の救いとは、憐みを受けることです。死から命へと変えられたのです。
「憐み」とは、内臓という意味がありました。そこから「母胎」とも考えられて、母親が自分の胎内で育んだ子供を愛し、絶対忘れないことを意味するのです。そのように神は御自分の民を、決して忘れず、見放さず愛し続け、助けてくださるのです。受ける価値がなくても、愛し続けてくださいます。また、「惜しむ」という意味もあります。
ヨナ書は良く知るところですが、悔い改めた二ネべを、神は滅ぼされませんでした。ヨナはそれが不満で都の外で小屋を作り、何が起こるか見ていました。神は、日差しが強くて苦痛を覚えたヨナを憐み、とうごまの木で日陰を作って下さいました。ヨナは喜んだのですが、翌日木は枯れてしまいました。熱風にさらされたヨナは弱りはて、死を願うほどでした。神はヨナに「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都二ネべを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(ヨナ4:11)と言われました。
神は二ネべを憐れまれ、惜しまれたのです。悔い改めた二ネべを滅ぼすことはありませんでした。
イエス・キリストの救いを受けた者は、神の民、国籍を天に持つ者、祭司、聖なる者として、神の憐みを常に覚え、神が惜しまれているすべての人々に橋を架けることを常に心に留めようではありませんか。
祭司は、神にむかってとりなしの犠牲をささげ人々のために祈る者です。
毎日、絶えず救いのために祈りましょう。神は必ず御業を表してくださるのです。聖なる祭司としてさらに祈り続けましょう。


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