阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年4月9日
「十字架を前にして」
マルコ11章1−11節

 今日から、イエス・キリストが十字架に架かられた週に入り、受難週といわれています。ことさら十字架にかけられた救い主を思い、罪の贖いの感謝をしながら、復活の朝を待つ週です。身を低くし、自分を喜ばすことを避け、主の苦しみを偲ぶ一週間とされます。
今日は、棕櫚の聖日にあたります。主イエスが子ろばに乗られてエルサレムにお入りになった聖日です。
主イエスの一行が、べタニアとベトファゲという村に近づいた時、主イエスは二人の弟子に不思議なことを言われました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れてきなさい。
もしだれかが、なぜそんなことをするのかと言ったら、主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさいと、言われました。二人が出かけていくと、すぐにつながれている子ろばがみつかったので、連れていこうとすると、そこにいた人々が「その子ろばをほどいてどうするのか」と言いました。
それで、弟子が「主がお入り用なのです」と答えると、子ろばを連れて行くことを許してくれました。
弟子たちが、この子ろばを主イエスの元に連れて行き、自分たちの服をろばにかけると、主はそれに乗られてエルサレムへと向かわれました。多くの人々は、自分の服を道に敷き、また、葉のついた枝を切って道に敷いて、「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫び、歓迎しました。
この群衆が期待したのは、主イエスが王となられる事でした。ローマの圧政に苦しんでいたユダヤの民衆は、主がこの地上の王となられて、自分たちを解放してくれるのだと喜んだのでした。
主イエスは、エルサレム入城に子ろばに乗られました。ろばというのは、小型の馬の一種で、耳がうさぎのように立っていて、力が強く利口だそうです。
主イエスは、まだ誰も乗ったことのない子ろばを必要とされていました。主イエスの十字架の直前のエルサレム入城という、大切な御用をするために、わざわざこの小さなろばを選んでくださったのです。この子ろばに乗ると、周囲に立っている大人とそれほど高さが変わりません。この世の王ならば大きな立派な白馬に乗って、さっそうと入城するのでしょうが、上から人々を見下(みおろ)して支配する王ではなくて、人々の僕となり、最後まで仕え、命まで捨ててくださる救い主の姿を現して下さいました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と言われたように、十字架の直前に、低い姿勢をとられました。私たちは、主の謙遜に学ぶ必要があります。
主イエスは、地上の権力ある王ではなく、永遠の救い主として十字架を目指して下さいました。
主が、翌日エルサレムでなさったことは、宮きよめでした。当時の神殿は、地方からやってきた人々のために犠牲の動物を売っていたり、両替をしていたり、すっかり市場のような喧噪の中にありました。
静かに神を礼拝したくても、騒がしく、売り買いの声の中では礼拝もできないような状態になっていたのです。
主は神殿から商売人たちを追い出し、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(マタイ21:12、13)と言われたのです。
神殿の本来の姿を教えてくださいました。
十字架の直前の主イエスの姿から、私たちは学ぶべきです。
@  主が崇められるために用いられたい
人々が歓迎し、お迎えしたのは主イエスで、子ろばに注目した人はいなかったでしょう。注目されなくても、主イエスをお乗せするという大切な役割を果たすことができました。主イエスを信じる者の喜びは自分が注目され、褒め称えられることではありません。主が崇められることが喜びであり、主イエスの役に立つことが喜びなのです。賞賛されるべきは主イエスであって、私は主イエスのために用いられたいと願う者として生きたいのです。
A  主がお入り用なでのす。
私たちは、子ロバが選ばれたように、主イエスに選ばれました。主は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)と、最後の食事の席で語られました。
どうして選ばれたのか、私達にはわかりません。しかし、主イエスには選んだ理由があるはずです。私たちが、主イエスを信じるように選んでくださったのです。そして、主イエスをお乗せするろばの子として主イエス様を証し、伝える者として用いられるのです。
B 当時の神殿がすっかり市場のようになっていて、大祭司の利益になっていたのですが、主は、それを取り除かれました。
「すべての国の人の祈りの家」であるべきところであると教えられたのです。
聖書は、私たち自身が神の神殿であると教えています。聖い御霊がお住まい下さるのです。その聖い御霊がお住まい下さる所としてふさわしく整えておきたいのです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Tコリント6:19、20)と教えています。主の十字架の血潮で、罪を清めていただき、自分自身を聖い器として神にささげる時、神は御自分の用に豊かに用いてくださいます。力も、賜物を備えてくださるのです。
主イエスに自分を明け渡し、委ねる時に、小さな子ろばのような者でも、神の栄光を豊かに現すものとされるのです。
十字架に向かって進んで行かれた主イエスの後に従っていく者でありましょう。
 主イエスは、子ろばのような小さな者を愛して、十字架に架かられ、その無限の愛を示して下さいました。
私たちは、常に主の十字架の前にひざまずき、悔い改めをもって、聖い御霊に満たされることを願いましょう。
輝かしい主の復活の命に預かる者、天に国籍を持つ者として、
さらに主の十字架の後に従いましょう。


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