阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年10月15日
「信仰の恵みと力」
ルカによる福音書章5章17−26節

 「 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床(とこ)ごとつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。『何を心の中で考えているのか。 “あなたの罪は赦された”と言うのと、“起きて歩け”と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った。」(ルカ5:17−26)

 病気になって、初めて病人の気持ちがわかる。入院してまだ手術をするための準備中に、早々とお見舞いに来てくれた人を忘れることはできないものです。今日では重病になっても緊急処置がとられ、危急な症状でも回復するようになってきています。ルカによる福音書5章に、「中風(ちゅうぶ)を」患っている人が出て来ます。今で言えば、「脳梗塞」による様々な障害が出て来ているようです。家族の中心として働く父や母が病気で倒れると、経済的試練、家族相互の扶養機能の喪失から言葉では言い表せない苦悩がその家族に襲ってくるものです。
 丁度その時、イエス様がお出でになり、人々がガリラヤとユダヤ、エルサレムからもお話を聞きに集まってきていました。
脳梗塞を患い、言語障害や身体障害で身動きも出来ない状態になっている病人を抱えて、途方に暮れている家族が近くにいたのです。病気のため身動きできず、また働くこともできない病人をどうすることもできずに困惑してたのです。
そこにイエス様のうわさが聞こえてきたのです。どのような病をも癒し、解放し、再起させて下さるという事を耳にしたのです。
 その困窮している家族は、何とかしてイエス様に出会い、治していただければありがたいと思ったのです。そこで病人を家族や、近所の人たちの助けを得て、イエス様がお話しておられる家に連れて行ったのです。すでに話は始まっており、家の中は立錐の余地もないほど人が集まっていたのです。病人を連れて行った4人は、それでも何とかしてイエス様の真近に連れて行こうと決心したのです。そして屋根の上に上がり、イエス様の居られる部屋の瓦をはがして戸板の4隅に綱を結び、イエス様の前につり下ろしたのです。屋根をはがすほこりがまい散り、板をはぎ取る音がして、会衆は唖然としましたが、何も言わないで見ていました。苦しむ病人を「憐れ」に思い、一人の人の救いのために非礼もわきまえずに、屋根から戸板に乗せたまま、何とかしてイエス様の憐みにおすがりしたいという一途な「信仰」をイエス様は見られたのです。
  そこにはイエス様を慕い、尊敬する人々だけでなく、イエス様を批判し、ユダヤの伝統に凝り固まっている指導者であるファリサイ人派の律法学者や律法の教師である多くの人が同席していました。この人たちは伝統的なモーセの律法を守り、日々の生活に律法を適用し、口伝(くでん)としてミシュナ(律法細則)を詳細に決めて、その律法適用を守ることによって「神に嘉せられる。受け入れられる。」律法を守ることによって神の御国に迎え入れられるとしていた。
一般の人々である庶民に、律法や律法細則(ミシュナ口伝)を暗唱している人はいませんでした。そこで律法学者や律法を厳密に実行していると自負する教派のパリサイ人は、自らを律法を実践している者として、庶民を罪人として差別し、見下(みくだ)していたのです。イエス様は、神は愛であり、罪を悔い改めて、神の愛に寄り縋る(よりすがる)人々は誰でも必ず救われ、神様の恵み、命、平安、真理に生かされることができると説かれたのです。イエス様はやがて、歪められた律法の解釈を否定され、真実の神の愛の赦しを主張されたために、ファリサイ派や律法学者の攻撃を受けられて逮捕され、裁判にかけられ、死刑を宣告されて、真実の罪の贖いのために十字架の道を行かれたのです。
「 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
(Tヨハネ4:7−10)
 中風の人を板に乗せて、屋根の瓦を取りのけて、イエス様の前につり下ろした人々をご覧になり、「『その人たちの信仰を見て』、『人よ、あなたの罪は赦された。』」(5:20)と言われたのです。
ファリサイ人や律法学者は、中風の人が癒されたことより、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたイエス・キリストの言葉が解らなかったのです。「罪を赦す」ことは神のみにしかできないのです。しかし、イエス様は真実の神は愛であることをやがて十字架の上で証されるのです。律法学者やファリサイ人は神様が愛である事を見失っているのです。
 病人を運んだ4人の人々の行動の、「信仰」は神様の愛を信じる行動でした。イエス様は苦しんでいる病人を癒すことから始められるのです。癒しの宣言の前に、罪の赦しの宣言が与えられ、その偉大なる神様の愛に目覚める時、中風の症状は癒されたのです。病人を主イエスの元に連れて行った 4人の人々の熱心さ、中風の人を思いやる心、祈りの一致、行動の一致、愛と信仰の一致が奇跡を生むのです。私たちの周りに病いの人がいないのでしょうか。病んでいる人がいないでしょうか。信仰の一致、信仰の力、信仰の祈りが神の愛と救いを広げるのです。
主イエスの救いの御業、癒しの御業のために、信仰をもってイエス様の前に艱難があっても進み出ましょう。主イエスは必ず答えて救いと癒しを与えてくださいます。ハレルヤ!!


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