阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年4月1日
イースター礼拝「イースターの朝」
ルカ24章1−12節

 主の復活を感謝します。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(Tコリント15:14)とあるように、主イエスの復活がなければ宣教も信仰も空しく、無駄なことになります。信仰の中心は、主イエスの復活にあります。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(Tコリント15:3、4)とあるように、復活の証人はたくさんいました。パウロの時代には、実際に復活の主にお会いした人が、まだ生き残っていると証言しています。
主イエスは全世界の罪の贖いとなって十字架で死んでくださいました。その日は金曜日で、すぐに安息日が始まる時でした。安息日には十字架の罪人をそのままにしておかない習慣があったので、主イエスの遺体はアリマタヤのヨセフの要請に従って、葬りのために十字架から降ろされ引き渡されたのです。ヨセフは、イエスの遺体をきれいな亜麻布で包み、岩に掘った自分の新しい墓に葬り、墓の入り口は大きな石でふさいでおきました。アリマタヤのヨセフは最高議会の議員でしたが、主イエスを死刑にするという他の議員たちの決議や行動には同意していませんでした。ピラトのもとに行き、主イエスの遺体を引き取るという要請をしたことは、大変勇気のいることでした。なぜなら、大祭司やその一派、議員たちを敵に回すことになるからです。それまでは、自分が主イエスの弟子であることを公にはできなかったのですが、主イエスの十字架を通して、新しい信仰と勇気を持ち、行動をおこしたのでした。
また、かつて夜、主イエスを訪ねてきたニコデモも、没薬と沈香(じんこう)を混ぜたものを100リトラももってきて埋葬に携わったようです。不思議なことに、日夜主と共にあり、教えを受けて来た弟子たちは埋葬に立ち会う事はありませんでした。主イエスに従ってきた婦人たちは、墓の場所を確認して葬りの様子を見届けて、家に帰り香料や香油を準備したのです。
安息日が終わり、日曜日の朝早く、婦人たちは主イエスが葬られた墓へ行きました。入り口には大きな石が置かれていることを知っていたので、その石を取り除いてくれる者がいるかなどと話しながら墓へ行きました。ところが、石が墓のわきに転がしてあって、墓の入り口は開いていました。そして、中には主イエスの遺体がありませんでした。
そのために婦人たちが途方に暮れていると、御使いが現れて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:5−7)と告げました。
この婦人たちは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そのほかの婦人たちでしたが、これらの事を使徒たちに話しても、「たわ言」のようにしか受け取られずに、信じてもらえませんでした。
しかし、ペトロは墓へ走って行き、中をのぞくと亜麻布しかなかったので、驚きながら家に帰ったのです。
御使いは、「生きておられる方を死者の中に捜すのか」と語りました。
主は復活されて墓にはおられないことを告げたのです。
 主イエスに敵対していた者たちは、主イエスを十字架に架けたことで勝利をおさめたと確信していました。約束のメシアとして来られた主イエスを、ユダヤ人たちは信じようとはしませんでした。
主イエスは、神の国を教え、病気を癒し、飼い主のいない羊のような群衆をご覧になって深く憐れまれたのです。
 儀式やしきたりを重んじ、外側だけを清めて満足していたような人々に、人の心の中の醜さ、罪を指摘されて、本当の清めを求めていかなければならないことを教えられました。「安息日に善いことをするのは許されている。」(マタイ12:12)と言われて、安息日にも人を癒されました。
本当の神の御心からそれて、まったく愛からかけ離れているような人々に、御心を教え続けられたのですが、ユダヤ人たちは聞く耳をもたずに、主イエスを神を冒涜したとして逮捕し、偽りの証言をもってしても死刑に処することに奔走したのです。
主イエスに憎しみを覚えていた人々は、主イエスを処刑することで、すべてが片付いたと思いました。
一方、弟子達や、主イエスを信じて従ってきた者たちは、主イエスが死なれたことで、すべてが終わってしまったと途方に暮れ、これからどのようにしたらよいのかわからずにいました。そのような時に、墓には遺体がなく、御使いは主イエスが復活されたと語ったのです。
主イエスは弟子たちに三度にわたって、ご自分の十字架の死と復活を予告されていましたが、弟子たちは理解していませんでした。
 ユダヤ人が頑なであったように、人は皆、頑なな心を持ち、主イエスを信じようとしません。しかし、罪の解決がなければ永遠の命に生きる事はできないのです。罪に支配され、罪に引きずりまわされるような生き方しかできません。そして、罪の支払う報酬は死です。
主イエスは、神との正しい関係から外れ、迷いの道を進むすべての人を神の許に引き戻すために来られ、十字架に架かり死んで甦られたのです。主イエスの十字架の死と復活は、新しい命と希望であって、完全な勝利でした。
主イエスは十字架で「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言われて死なれたのです。これは、すべてが完了した、罪の贖いが成し遂げられたという事です。これこそが勝利の宣言でした。
私たちは、主イエスの十字架と復活から何を知り、何を信じるのでしょうか。生きておられる主イエスを信じることです。主は甦られて今生きておられる神です。
生きておられるので人を救い、罪を赦し、祈りを聞き、命を与えることが出来るのです。イースターの朝復活された主イエスは、今生きておられて、共に歩んでくださる神なのです。
さらに、主イエスを信じる者は永遠の命を頂いていることを信じます。
この命は、信仰により、恵みによって与えられたものです。主イエスを信じる者はこの世にあっても、天に召されてもこの命に生かされている者です。ですから、生かされている今、毎日精一杯主イエスの御心を生きる事に努めるのです。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖いだしてくださる。慈しみと憐みの冠を授け 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる」(詩編103:2−5節)この御言葉は、主イエスを信じて永遠の命の中にある者の信仰であり、告白です。命を墓から贖いだすために主イエスは十字架に架かって下さいました。わたしたちすべての者の罪の代価を十字架で支払ってくださったのです。まさに、「成し遂げられた」のです。
 婦人たちによる主イエスの復活の知らせを「たわ言」としか受け入れられなかった弟子たちも、その日の夕方主イエスにお目にかかることになります。そして、主はあらためて十字架の意味と罪の許しについて教えて下さり、あらゆる国々に福音が伝えられために、主の復活の証人となることが示されたのです。主イエスを信じ、永遠の命に生かされている者は皆、主イエスの復活の証人です。
その後弟子たちは、聖霊に満たされ、主イエスの復活を宣教し続けました。主が逮捕された時、主イエスを知らないと3度も言ったペトロは、聖霊に満たされ、「この約束、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒2:39)と語り、主イエスの救いは誰にでも及ぶことを力強く伝えたのです。主イエスに救いがあります。命と希望があります。
イースターの朝復活された主を信じましょう。生きておられる方を受け入れて歩みましょう。永遠の命と復活、これこそが希望なのです。


 ページのトップへ
  
2018年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ