阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年5月22日
「しかし、お言葉ですから」
ルカによる福音書5章1-11節

 主の恵みの内に先の一週間も守られて、教会で礼拝できることを心から感謝します。
主イエスは常に私たちと共におられ、見えざる御手を持って導き続けてくださいます。主イエスと共にある日々は、何よりも幸いです。
私たちはさらに主イエスに近づいて参りたいと思います。
主イエスがゲネサレト湖畔に立たれたとありますが、ゲネサレト湖とはガリラヤ湖の別名です。
人々が主イエスの御言葉を聞こうと押し寄せていました。主の言葉は、「神の言葉」であると信じ、聞こうとしていたのです。
主は二艘の舟と、網を洗っている漁師たちをご覧になりました。
群衆が押し迫っているのに、漁師たちはそちらに関心をよせることもなく、早く漁の跡片付けをして、休みたかったのかもしれません。
一晩中漁をしても、何も獲れなかったからでした。大漁なら疲れも感じませんが、何も獲れなかったので、心身ともに疲れ果てていました。
舟の一艘はシモン・ペトロの舟でした。
主イエスはペトロの舟に乗りこまれて、湖から少し漕ぎ出すようお頼みになりました。舟に腰を下ろされて、群衆に教えられたのです。
主イエスの教えが終わると、主はペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)と、言われました。
漁は夜中にするもので、もう網を洗っています。自分たちはガリラヤ湖の漁師であり、いわばプロです。その自分たちが一晩中漁をしても何も獲れなかったのに、この人は一体何を言っているのかと、ペトロは心の中で思いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と、お答えしました
その結果はどうだったのでしょうか。網が破れそうになるほどの魚が獲れて、もう一艘の舟を呼ばなければなりませんでした。
二艘の舟は魚でいっぱいになり、沈みそうになるほどでした。
ペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と主にひれ伏して告白しました。
主イエスの御言葉の確かさに、心から信じていなかった自分を認め、また、恥じて主イエスにふさわしくない自分を見たのです。
ペトロの仲間であるゼベダイの子たち、ヤコブとヨハネも同様でした。
主イエスは、彼らを弟子としてお召しになり、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言われました。
彼らは、舟を陸に引き上げ、すべてを捨てて主イエスに従いました。
ペトロ達の人生が全く変えられた時でした。この時から、弟子として主に従い続けたのです。
その後ペトロは主の十字架の直前、大祭司の庭で主を3回否定するという大失敗を犯しましたが、主イエスが、ガリラヤ湖畔で再びお召しになったことも私たちは知っています。
私たちは、主イエスを救い主として信じ、心に受け入れて救われました。主イエスの十字架は、私たち一人一人の罪を贖うためであり、救われて永遠の命をいただくことができました。
救われて、罪の闇から解放され、光の子とされた者は、主イエスの命の光に輝きます。それは、決して失われない光ですが、ときどき暗くなることがあるのではないでしょうか。
生活の中で、主イエスを信じていながらも、御言葉から遠ざかることがあります。自分の知識、知恵、力、経験などの積み重ねがありますから、主の御言葉よりもそれらを優先させてしまうことがあるのです。
湖の漁に関しては、ペトロ達には自信がありました。魚が獲れないこともたくさん経験してきたことでしょう。そのような時は漁を打ち切ってしまい、次に備えます。
ところが主イエスが、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。内心、「疲れているのに、無駄なのに」と思いました。
それでも、この方の御言葉に従いたいという思いが心の隅にありました。完全に信じていたわけではありませんでした。「しかし、あなたのお言葉ですから」と、舟を漕ぎだし漁をしました。
その時、ペトロと仲間は主の御言葉の確かさと、御業を目の当たりにし、体験したのです。
ペトロは不信仰を悔い改めました。弟子としてのスタートです。
私たちも、幼子のように「しかし、あなたのお言葉ですから」と言って、信じることは祝福の道です。生きておられる主イエスご自身を体験するチャンスです。
旧約聖書列王記下5章に、アラムの軍人、ナアマンが皮膚病を癒されたという記事が記されています。
アラムはしばしばイスラエルと戦っていました。ナアマンは軍の司令官であり、かつてアラムに勝利をもたらしたことで、王に重用されていました。しかし、その戦いの勝利も、主がナアマンを用いられたとあります。(参・列王下5:1)主の御計画があったのです。
ナアマンの家にはイスラエルから捕虜として連れて来られた少女が働いていました。ナアマンは重い皮膚病でした。この少女は、ナアマンの妻に、サマリヤの預言者、すなわち北イスラエルの預言者エリシャの許に行けば癒されると伝えました。この少女には、必ず癒されるという信仰の確信がありました。そうでなければ捕虜という弱い立場で、主人に助言などできるはずがありません。
ナアマンは、自分が仕えている王に、イスラエルの少女が言うことを伝えました。王はイスラエルの王にナアマンを癒すよう手紙を書き、高価な贈り物を持たせてイスラエルに旅立たせました。
手紙を読んだイスラエルの王は狼狽しました。自分に癒しの力などないからです。王の困惑を知ったエリシャは、人を遣わしてナアマンを自分の所へ来させるように伝えました。ナアマンは戦車に乗って威風堂々とエリシャを訪れました。ところがエリシャは会おうともせず、ただヨルダン川に七回身を浸すようにと使いの者に伝えさせました。ナアマンは、エリシャがねんごろに体にさわり、癒すと思っていたので気を悪くして怒り、帰国するつもりでした。ところが従者が「ただ身を洗えと言っただけです。あなたはもっと大変なことでもしたことでしょう。」と、助言しました。
エリシャは言われた通りヨルダン川で7回身を洗いました。その皮膚は赤子のようになり、癒されました。もし、ナアマンが憤ったままで帰国したら皮膚病は癒されないままだったでしょう。
捕虜の少女や、従者たちの言葉に心を動かされて癒されたのです。
ナアマンは再びエリシャを訪れ、アラムに帰っても、真の神を信じることを告白しました。救いと癒しにあずかりました。
私たちの信仰は神の言葉を聞くことから始まります。
私たちには神の言葉、聖書が与えられています。聖書に聞くことができます。また、誰かを通して、神の言葉、真理が示されることもあります。
御言葉が開かれた時、自分の考えや経験では、そのようなことはないと、拒絶してはいけないのです。
神はさまざまな場面で私たちに語りかけておられます。信仰のチャレンジをされます。心の耳を傾け、語っておられる方の声を聞き分けましょう。漁師であったペトロ達は、「人間をとる漁師に変えられました。」
主イエスは私たちにも語っておられます。
「わたしの言葉を聞き、従ってきなさい」。そのように語られる主イエスに聞き、お言葉が生活であるよう祈り求めましょう。
そこにまことの祝福が注がれるのです。
心から主を崇めましょう。

今週のみことば
「実に、信仰は聞くことにより、
 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 ローマの信徒への手紙10章17節



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