阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年8月14日
「平和を実現する人々」
マタイによる福音書5章9節

 新型コロナウイルス感染拡大防止の為に8月7日からYouTubeでの礼拝をささげています。
皆様のご家庭が主の臨在の場、家の教会として用いられ、YouTube礼拝が祝福されるよう信じて祈りましょう。

主イエスは山上の説教の中で、幸いについての教えをされました。
その七番目に「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:6)と、お教えになりました。
口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」と訳されています。
「平和を実現する人々」とは、「平和をつくり出す人々」であると理解することができます。
私たちは「平和」とはどのような状態かと考える時、まず戦争のない社会を考えると思います。
日本はかつて第二次世界大戦で、多くの人々が悲しみと苦しみを体験しました。8月15日が終戦の日となりました。もう二度と戦争がないようにと誰しもが願い、祈ります。
もちろん戦争のない状態を平和ということができます。
私たちは聖書から平和について学びたいと思います。
御言葉は、神はキリストによって主を信じる者と和解されたと教えています。
人は罪を犯したために、真の神との関係が断たれてしまいました。
真の神と離れ、滅びの道を進みながら、そのことに気が付くこともありませんでした。魂が飢え渇いても満たされるすべを知りませんでした。
神との断絶は、命も希望もなく、自分で良いと思う道を進むしかありませんでした。
聖書が教える罪とは、真の神から離れ、信じようとしないことです。
さらに自分の心のままに生きる自己中心であると教えています。
箴言16章25節に、「人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死に至る道となるものがある。」とあります。(口語訳)。
イザヤ書53章6節にも「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。」とあります。
羊は飼う者がいないと生きていけません。命の道ではなく、ばらばらにあてもなく野を彷徨い、命を保つことができません。
しかしイザヤ書のこの御言葉の後半は、希望の御言葉です。「そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」とあって、キリストによる救いと和解の希望が示されています。
天の父は罪ある者すべてを愛し、その独り子を世にお遣わしになりました。神との和解はキリストによってもたらされました。
神との断絶は罪によって始まりました。神に造られたアダムとエバが神に背いたときから罪が入り、人は神から離れてしまいました。
それでも天の父はご自分から、救いの手を差し伸べ、和解の方法を人に教えました。
それは、罪のない神の独り子を世に遣わし、すべての人の罪を贖うために十字架に架り、死んで三日目に復活するという方法です。
この神の方法以外に、人は神との和解も、罪の許しも、救いも、永遠の命も得ることはできません。
「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(ローマ5:19)とあります。
アダムの不従順によってすべての人が罪ある者になりましたが、一人の人、すなわちキリストの従順によって信じる者すべてが神の前に義とされ、永遠の命を得ることができたのです。
私たちは、主イエスを救い主として心に受け入れ、主イエスの十字架の血汐によって、罪が清められ、神との和解が成し遂げられました。
真の神と正しい関係を持つ者になることができました。
私たちは、神の子とされて、平和を実現するために、救われたのです。
神の子にされた者は平和をつくり出すことができます。なぜなら、主イエスこそ平和の君だからです。
平和は、まず自分の周囲から作り出すことが大切です。
私たちに出来る事、それは執り成しをする人になることではないでしょうか。
サムエル記上25章にアビガイルという女性が登場します。アビガイルはマオンという地のナバルという裕福な人の妻でした
聖書は、アビガイルは聡明で美しかったが、ナバルは頑固で行状が悪かったと記しています。
この時ダビデはサウル王に追われて荒れ野にいました。
ダビデはナバルの許へ10人の従者を送りました。ダビデは従者に「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。」とナバルに挨拶するように教えました。そして好意にあずかりたいと願いました。
ところが、ナバルはダビデと従者を侮辱するひどい言葉を返しました。従者がこのことをダビデに伝えると、ダビデは400人の兵とともにナバルの許に攻めていきました。
ナバルの従者がアビガイルに事の次第を報告しました。「ダビデはナバルに祝福を述べようと荒野から使者を遣わしてきたのに、ナバルは彼らをののしり追い返しました。ダビデたちはいつも親切で、われわれのものが無くなったり、われわれを侮辱したこともありません。羊を飼っているときは昼も夜も防壁として守ってくれました。今この家に災いが降りかかろうとしています、あなたは何をなすべきか考えてください」と、伝えたのです。
これを聞くとアビガイルはすぐにたくさんの食物を用意して何頭かのロバに積み込みました。そして、従者にダビデの許に案内するように命じました。
ダビデは、「荒れ野であの男の物をみな守り、何一つ無くならぬよう、気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた」と語りました。
アビガイルが進んでいくと、前方からダビデと兵士たちが押し寄せてくるのに出会いました。
アビガイルはダビデの足元にひれ伏して、心を尽くして執り成しの言葉を語りました。贈り物を差し出して言葉を続けました。
アビガイルは、まず生きている主を賛美し、ダビデを祝福しました。ダビデの命は神によって命の袋に納められていること、やがて神がダビデをイスラエルの王とされる時、ナバルのような者を手にかけたことが、ダビデのつまずきや心の責めにならない様にとも語りました。
ダビデはアビガイルの執り成しを受け入れ、神を賛美しました。流血の罪を犯すところをとどめてくれたことに感謝し、アビガイルに「平和に帰りなさい。あなたの言葉を確かに聞き入れ、願いを尊重しよう」と送り返しました。
アビガイルが家に帰るとナバルは盛大な宴会を催していました。翌朝アビガイルはナバルに、ダビデによってナバルの家は攻め滅ぼされる所だったと伝えると、意識を無くして10日ほどの後死んでしまいました。
ナバルは、平和をつくり出すことができませんでした。
一方アビガイルは、平和をつくり出す執り成し手として用いられ、平和を実現しました。アビガイルは後にダビデの妻に迎えられました。
キリストの十字架によって神と和解させていただき、救われた者は、平和を祈ります。人と人との平和をつくり出すよう祈りながら生活をします。
自分自身の心がキリストの平和で満たされる者は、人に平和を伝え、祝福を伝えます。
私たちのキリスト者としての日々が、平和を実現する生活であるよう、さらに祈り求めましょう。
私たちは、既に神の子とされ、あらゆる豊かな恵みの中に進んでいることを覚え、感謝をささげましょう。

今週のみことば
「平和を実現する人々は、幸いである。
 その人たちは神の子と呼ばれる。」
マタイによる福音書5章9節



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