阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年10月30日
「恵みによって」
テトスへの手紙3章4-7節

 10月最後の日曜日になりました。今日も愛する兄姉と共に、まことの神を礼拝できる恵みを感謝します。
神は私たちを礼拝者として整え、祝福してくださることを感謝します。
さて、パウロは弟子のテトスに短い手紙を書き送りました。
テトスは、パウロの同労者として用いられた弟子でした。また、パウロはテトスを「信仰を共にするまことの子テトス」(テトス1:4)と呼んでいます。テトスへの愛と信頼を読み取ることができます。
テトスの名前はパウロの書簡にたびたび登場します。
様々な問題を抱えていたコリントの教会に宛てた、パウロの手紙を届けたのはテトスでした。
そして、テトスはクレタ島の教会を指導する働きに召されました。
クレタの人々は、あまり評判が良くありませんでした。かなりひどい言葉が記されています。(参考テトス1:12)。しかもそれは本当だと念押ししています。
そのような地域で宣教し、教会を建て上げ、指導する働きは大変なことでした。
パウロは、「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」(テトス2:14)と記し、キリストの十字架による罪の救いをあらためて伝え、救いの目的について記しました。
罪の中にもがきながら生きていた人々に、神の慈しみと愛が現れました。
「しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐みによって、わたしたちを救ってくださいました。」(テトス3:4,5)。と、神の慈しみと愛が教えられ、また、テトス2章11節にも、「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」と記されています。
自己中心で、神を認めようともしない罪深い人間に対して、神は恵みと愛をあらわされました。
人は、自分が思うように生きていても、心のどこかに空しさを覚えて、救いを求めています。
それは、神が御自分にかたどって人を創造されたからです。真の神を知らずに生きている者であっても、魂のどこかで真の神を求めているのです。
主イエスは、神から離れている者を、迷い出た羊のたとえで教えられました。
「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」(マタイ18:12−13)そして、「これらの小さな者が滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)と言われました。
百匹の羊の内の、迷い出たたった一匹を捜し出されるのはなぜでしょうか。その一匹に対する、計り知れない恵みと愛によるのです。その一匹が大切なのです。主は、迷い出たままだと、羊は生きることができないことを知っておられます。見つけるまで探し出してくださいます。恵みと愛によります。
人の救いはどのようにして与えられるのでしょうか。
救いとはどのような状態をいうのでしょうか。
人は罪の解決がない限り、まことの救いを得ることはできません。
真の神から離れ、その関係が断絶している状態は、迷子の状態です。
自分はしっかりと、間違いなく正直に生きていると、多くの人は思っています。でも、心の中はどうでしょうか。神が問われるのは心の罪です。
クレタの人は、いつもうそつきと記されてしまいました。「悪い獣、怠惰な大食漢」(テトス1:12)とも書かれています。ひどい言い方です。
しかし、これはクレタの人々だけではなく、すべての人にも当てはまることなのです。
嘘をついたことのない人はいません。悪い獣とは、害獣の事ですが、人の畑をあらして作物を食い尽くしてしまうような動物の事です。
私たちも、人が苦労して積み上げものを崩し、心を傷つけ、悲しませることはなかったでしょうか。
怠惰な大食漢とは、ただ食物を沢山食べるという事ではなく、貪欲さをあらわしています。
「怠け者は自分の欲望に殺される。彼の手が働くことを拒むからだ。欲望は絶えることなく欲し続ける。」(箴言21:25,26)とあります。貪欲は罪です。聖書は、貪欲は偶像礼拝(参考コロサイ3:5)と、教えています。それが人の状態でした。
神はそのような罪人を愛され、救いの道を開いて下さいました。
「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。たとえ、紅(べに)のようであっても 羊の毛のようになることができる。」(イザヤ1:18)とあります。イザヤは、紀元8世紀ころに南王国ユダで活動した預言者です。
神は、罪人たちに招きの声をかけてくださり、罪を清めてくださると語ってくださいました。二つのものでたとえて罪を表されました。
一つは「緋」です。罪は緋のようだとあります。
緋とは赤い染料を意味します。布に染み込ませて染色します。また、紅(べに)も染料の一種を表しています。
どちらも一旦色付けされると、その色はとれないのです。人の罪も染付されていて、どのようにしても拭い去ることはできませんでした。
神は、そのような人を招かれ、どのような罪も、どのように赤く染められていても、雪のように、羊の毛のように白くする、すなわち、赦し、清め、開放すると宣言されたのです。
神はどのようにして恵みと愛をあらわして下さったのでしょうか。
その独り子、主イエスをこの世に遣わされて、十字架により世の人の罪の贖いとされました。
救いは神の憐みによります。「御自分の憐みによって、わたしたちを救ってくださいました。」(テトス3:5)とあります。
誰でも、主イエスを救い主として心に信じ、受け入れる人は、たちどころに罪が許され、心に清い御霊がお住まいくださるのです。
新しいキリストの命に生かされます。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、あたらしく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Uコリント5:17)。イエスをキリストと信じる者は、キリストの命に生かされる新生の体験ができるのです。
「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトス3:7)
「義とされた」とは、罪が許されたということです。さらに、罪を一度も犯したことがない者として認められるということなのです。
これは大変な恵みです。
10月31日はルターによる宗教改革記念日です。ルターは、免罪符や、行いによっての救いはないと、当時の教会の教えに疑問を投げかけました。「信仰による義人は生きる」(ローマ1:17口語訳)という御言葉に目を開かれ、人は信仰により恵みにより救われることを確信しました。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23・24)。
かつては神からも、救いからも遠い者であったのに、今は神の憐み、と愛を受け、キリストの十字架により救われて、永遠の命の中に生かされる尊い恵みを覚えます。
救われた喜びが証しとなり、神の栄光を現わす日々であることを祈りつつ、これからも主イエスを仰ぎながら進んでいきましょう。


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